僕の薬害エンジェルズ

黒澤 主計

前編:天使たち! 僕が守ってあげるから!

 頭の中が、『薔薇色』になっていた。

 足元が覚束ない。それなのに、胸がずっと高鳴っている。


「大丈夫? ダイくん」

 優しく声をかけられる。


「チーくん、しっかりして下さい!」

「チョロちゃん? 平気」

 次々と、親しみのこもった言葉がかかる。


 目の前には、三人の女の子の顔がある。

 みんな可愛らしい。それぞれ、タイプの異なる美人だ。


 僕は今まで、ずっと気づいていなかった。

 なんという、愚かなことだろう。僕が無自覚だったせいで、誰かを苦しめてしまった。


 僕が、とんでもない『イケメン』であったこと。


 そして誰かが思い立ち、僕に『一服』盛ったらしい。

 いわゆる『惚れ薬』というものを。





 窓の外からは、ずっとチュンチュンと声がする。

 時計を見ると、現在時刻は朝の七時。背後のベランダからは淡い光が差し込んでいる。


 昨晩は徹夜するんじゃないかと思っていた。

 僕の名前は大橋おおはし千代郎ちよろう。現在の年齢は二十一歳。中学と高校は男子校。大学は理系で薬学の研究室に籠りきり。これまでの人生で恋人なんか出来たことはない。


 でも、転機が訪れていた。


「ダイくん。顔赤いよ、大丈夫?」

 美原みはら紅子べにこが僕の額に手を伸ばそうとする。


「チーくん。少し、熱があるのではないですか?」

 神原かんばら白乃しろのが心配そうに眉を下げる。


「チョロちゃん。平気?」

 篠原しのはら黄美きみが上目遣いに僕を見た。


 目を覚ましたら、三人の女の子たちが傍にいた。

 腰が痛い。机に突っ伏したまま眠っていたようで、着ていた白衣もしわくちゃだ。


 近く、研究発表をしなければならない。そのために大学に留まらせてもらうことになり、薬学用の教室の中で一晩を過ごすことになっていた。

 教室の広さはかなりある。小学校とかの教室四個分くらいの広さだ。四人掛けのテーブルが合計で十六個ほどあり、僕はその片隅にあるテーブルの前に座っていた。


 ずっと、頭の中の状態が変わらない。

 薔薇色だ。そして、目の前の三人がとても眩しく見える。


 まるで、天使を前にしているかのように。


 そんな感慨を抱く途中、「あ!」と声が上がった。


「ねえ、みんなちょっと来て!」

 黄美が大声で呼びかける。部屋の隅へと移動していて、床の方を指差していた。


 僕はフラフラと立ち上がり、紅子や白乃たちと向かっていく。


 その先に、茶色い壜が落ちていた。


「これ、もしかして」

 僕は腰を屈め、壜に貼られたラベルを見る。


 そこにはピンクのマーカーで『ハート』の模様が描かれていた。


 間違いない、これは。


「『惚れ薬』の瓶だよな」


 持ち上げて、中を覗き込む。

 壜は空っぽになっていた。





 もう、疑いようはない。

 この薔薇色の感覚の正体。彼女たちを見る度に感じる胸のときめき。


 僕は、惚れ薬を盛られてしまった。


「ダイくん。もしかして」紅子が言う。

「さっきから、顔が赤いのですが」白乃が言う。

「ねえ、大丈夫?」黄美が言う。


 声が届く。鼓膜を揺する。その度に僕の胸は激しくかき乱される。


 昨晩、僕たちはこの教室に泊まった。研究課題をこなすために僕は机に向かい続け、紅子たちもそれに付き合ってくれた。


(じゃあ、ちょっと休憩しようよ)

 黄美が最初にそう言って、鞄の中からポップコーンの袋を出した。白乃と紅子もそれに賛同し、保冷バッグの中からペットボトルのコカコーラが取り出された。


 紙コップの中に注がれて、みんなで一緒に飲み干した。白乃も紅子も黄美も笑顔になり、ほんのりと頰を染めていたのが可愛らしかった。


 その後で、意識がぐらついたのを覚えている。


 そして翌朝、世界が『薔薇色』になっていた。





 現在の状況で、もっとも問題とすべきこと。

 それは、薬を盛ったのが間違いなく『三人の中の誰か』だということ。


 つまり、彼女たちの中には、『僕を好きでたまらない子』がいる。


 これは、なんと罪深いことだろう。


 窓の方を向き、懐から手鏡を取り出して見る。

 平凡な顔。眼鏡をかけ、髪は床屋で適当に切ったもの。服装はネルシャツと白のチノパン。その上に白衣という出で立ち。


 でも、気づかなかった。

 惚れ薬を盛られるということ。そうまでして、手に入れたいと思われること。


 つまり僕は、『イケメン』だったのかもしれない。





 だけど、これは絶対にまずい事態だ。


「ふむ、話は聞かせてもらったわ」

 指導教官である『教授』が、たるんだ顎を何度も揺する。


 太ったおばさん。五十そこそこで、顔には眼鏡。頭は鏡餅のようにこんもりと髪の毛を結っている。


「ひとまず状況を整理しましょう。みんな大橋くんの手伝いをして、昨夜はこの教室に泊まった。『惚れ薬』は隣の準備室の棚にあって、この教室の中を通らない限りはそれを取りに行くことはできなかった」

 教室の中を見回し、教授は指差し確認をする。


 これはきっと、良くない話だ。


 僕の状況を見て、黄美がすぐに人を呼びに行った。そうして出勤してきた教授を捕まえ、すぐに僕に起こった状況を話した。


「昨日はあれほど言ったのに。開発中の惚れ薬が保管してあるから絶対に触るなって」


 改めて、この人が『惚れ薬』を作ったという事実が怖い。どう見ても。男にモテそうもない。その人がどんな目的でそれを開発したのかと。


「まあ、そこはもう仕方ないでしょう。起こったことはどうにもならないからね」

 そう言って、教授は三人の顔をぐるりと見た。


「とりあえず、結論として言えることは一つ」

 強調するように、教授は右手の人差指を立てる。


「大橋くんに惚れ薬を盛ったのは、あなたたちの誰かに違いない」





 三人との出会い。それは唐突なものだった。


「あれ? ダイくんじゃない?」

 紅子との出会いは、大学の正門前でのことだった。


 おさげの髪をした、快活そうな雰囲気の女の子。朝にキャンパスへ入ろうとしていたら、彼女の方から声をかけてきた。


 僕は社交的じゃなかった。いつも猫背気味に顔を俯かせて歩いていて、人と話す時もあまり顔を見なかった。だから彼女のことを覚えていなかった。


「研究頑張ってね、ダイくん」


 ダイくん。大橋だから僕をそう呼ぶ人間は前にもいた。

 明るく微笑む彼女の姿に、僕は見惚れてしまった。





「ごめんなさい。これ、落としたのではないですか?」

 昼にコンビニに行こうと正門から出たら、僕は彼女に声をかけられた。


 真っすぐな黒髪を持つ、『清楚』という言葉が似合う女の子。

 それが、白乃との出会い。


「いや、違うけど」とハンカチを見て応える。


「すみません。『チー君』のものだって早とちりしてしまって」

 丁寧な口調で言い、僕にふんわりと微笑む。


 その時に思い出した。僕を『チー君』と呼ぶ子がいた。幼稚園の頃によく一緒に遊んだ。





「あ! ごめんなさい」

 うっかり、小銭をばらまいてしまった女の子がいた。


 休憩を終え、大学に戻ろうとした時だった。小銭が転がって来たので拾うのを手伝う。


「ありがとう。『チョロちゃん』」

 ショートボブの髪の、小柄で可愛い女の子。


 それが黄美。財布を仕舞うとポップコーンの袋を出し、お礼だとして差し出してきた。


 千代郎だから『チョロ』。僕に付けられるあだ名としては、一番多いものだった。

 僕はアルコールが苦手で、飲み会にも人生で一回しか参加していない。最初の飲み会ですぐに酔い潰れ、『チョロいくらいに弱い奴』と『チョロ』と周りに呼ばれた。


「じゃあね、チョロちゃん」

 彼女の笑みは、とてもイタズラっぽいものだった。





 正直、彼女たちとの付き合いは長いものじゃない。


 でも、今は特別な感じがする。頭が薔薇色に染まってからは、更にその感じが強まった。

 ずっと昔から彼女たちを知っているような。とても大切な人で、出会うことが運命みたいに決められていたかのような。


「ダイくん。ここの研究室だったんだ」

「チーくん。ここで研究をしていたんですか」

「あれ、チョロちゃん。大変なら手伝うよ」


 再会の時は、その後ですぐに訪れた。


 研究のために教室に向かった際、三人と再会した。彼女たちもこの大学に通っていて、同じく薬学分野に携わっているという。


 徹夜になるかもしれないと話すと、手伝うと申し出てくれた。「へー、こんなのやってたんだ」と、紅子たちは目を輝かせていた。


「じゃあ、大橋千代郎くん。隣にある『惚れ薬』とか、盗まれないよう気をつけてね」

 帰り際、教授が発明品の名前を口にした。


 そこで、三人の態度が急激に変わった。

 しきりにお互い顔を見合わせた後、まじまじと僕の顔を見やっていた。


 思えば、あの瞬間に何かの『トリガー』が入ったのかもしれない。


 僕というイケメンを、本気で取り合おうという。





「とりあえず、『犯人』を見つけないとね」

 壜を取り上げ、教授が言う。


「大橋くんの今後のためにも、誰がこんなことをしたのかはっきりさせる。それまでは、誰もここから帰らせないから」

 厳しそうに目を細める。


「こういう場合、まずは当時の状況を思い出してもらって、どういう形で大橋くんに薬を盛ったのかとか、色々と検証していくのが筋だけど」


 なんだか、面倒臭そうな話だ。

 でも、教授はうっすらと笑った。


「けれど、もっと簡単な方法があるわね。大橋くんが、ここで『話せば』いいの」

 なぜか楽しそうに、小さく喉が震わされた。


 瞬間、ゾワリと背筋に寒気が走った。


「『誰が一番好きなのか』、話してもらいましょう」





 本当に、このまま進んでいいのだろうか。

 ここで『犯人』を知ることが、本当に正しいことなのか。


 今、僕ははっきりと確信している。ここに集まっている三人の女の子たち。紅子に白乃に黄美の三人。


 三人とも、間違いなく僕に『恋』をしている。

 そんな中で、『犯人』がわかったら?


 惚れ薬を盛ること。そうまでして振り向かせようとすること。

 それってもはや、『告白』なんじゃないか?


 その時に僕は、どう反応すればいい? 惚れ薬なんて非常手段にまで走ってしまった彼女。そんな彼女と対面し、その気持ちにどう答えを出す?


 だから、これは暴いちゃいけないことだ。


 三人のエンジェルの内、一歩リードしてしまった一人。その一人が暴かれた時、僕はその子を選んでしまうかもしれない。そして他の二人はきっと涙を飲むことになってしまう。


 僕はまだ、『みんなのもの』でいなければいけない。


 必死に考えよう。どうすればいいか。

 この、『薔薇色の脳細胞』で。

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