住めば都

はな

「お疲れになったでしょう」

 白い着物を着た女が、宗介の背に手を添えて畳の上へと促す。真っ黒な髪を背に垂らし、目尻と唇に紅を引いた彼女は、息を飲むほど美しかった。妙齢の女性だからなのか、それとも宗介が命の危機を感じていたからか、やけに艶っぽく見える。

「さあ、お食事をどうぞ」

 だだっ広い座敷に、漆塗りと思われる品のいい食膳が一つ。そこには、お茶や葉物のおひたし、鮎らしき焼き魚、清汁すましじる、卵焼きに漬物など身体に良さそうな食材が品良く並んでいる。白米からはまだ湯気が上がり、食欲をそそるいい香りが胸を満たした。

 ああ、どれだけこの瞬間を待ち望んだだろう。急にお腹がしくしくと空腹でうずいてたまらなくなる。

「良いのですか?」

「ええ。あなたのために用意させたものですから」

「……ありがたい」

 膳の前に座る。そうなるとたまらず、箸とご飯を同時につかみ上げた。鼻腔を甘い白米の香りがくすぐった瞬間、宗介は我を忘れて白米を口へとかき込んだ。

 よく噛むことすら惜しく、それでも甘さを感じる米をどんどん腹に納めていく。こんなに上手い米を食べたのは初めてだ。

 茶碗半分ほどを胃に入れたところで我に返り、茶碗を下ろした。鈴のような笑い声が真横からして、そこに女が座していることに気がつく。

「よほど空腹でしたのね」

「あ、ああ……そうなんだ」

 宗介は逃げなければならなかった。まだまだ若い盛り、ここで終わるわけにはいかない。無我夢中で逃げて逃げて逃げて、気がついたら森の中で野垂れ死のうとしていた。逃げても逃げなくても結果は同じなのだと絶望した。倒れたままもう目覚める事はないのだと思いながら意識を手放した。

 だが、運は宗介に味方したのだ。

 落ち着こうと汁を飲み、息をつく。

「ところで、ここは……?」

「宗介さんは、このむらのことをご存知ありませんか? 神童の産まれる邑を」

「さあ……神童?」

「ええ。この邑では神童、神のこどもが産まれるのです。わたくしもそうです」

 女は目尻を下げた。口角が上がり、妙に色っぽくほほ笑む。

「童というなら今はわたくしの娘が神童と言うべきですね。わたくしはもう母ですので」

「なんと」

 妙齢だとは思っていたが、すでに子を儲けていたとは。

「神童はこの邑に富をもたらします。神童の力で疫病も退けられます」

「ほう、それはすごい」

「犯罪とも無縁ですよ、富は有り余っていますからね。邑を見て歩いてみてください、森の中にある邑とは思えぬ豪華絢爛なお屋敷が並んでいますから」

「なるほど……」

 これはますます運が向いているようだ。宗介の胸が軽くなる。

「ではあなたにもそういう力が?」

 神童とは人よりも優れている者を指す言葉だ。優れているとはいえ、ただ人にそんな力があるとは信じがたい。もしかしたら人里離れた邑で、彼女の一族がまつり上げられているだけかもしれない。きっとそうなのだろう。だがそれを言うのは野暮だ。

「ええ。娘はもうすぐ四歳になりますが、力を発揮出来るようになるにはまだわずか日が足りません。今はまだわたくしがこの邑を繁栄させています」

 ふふ、と笑った女が宗介を覗き込む。

「わたくしはミコ。仲良くしてくださいね」

 その黒々とした瞳に吸い込まれるような色香が漂い、一瞬時が止まったかのような錯覚に陥る。

 人の気配。はっとして女から目を外すと、いつの間にか目の前にもう一人年配の女が進み出て来ていた。その手に持っている盆には、徳利とっくりとおちょこが乗せられている。

 畳に膝を付き、盆をミコの前に差し出すと女は平伏した。

「ミコ様、清酒でございます」

 畳に額を擦り付けるほどに、いや文字通り擦り付けながら女は告げる。その声は幾分か震えて聞こえた。顔色も悪い。

「ご苦労でしたね。下がっていいわ」

「はい、失礼いたします」

 明らかに女は震えていた。この邑では、神の童であるミコはそれほどまでに恐れ多い存在なのだろうか。

 女は下がり、ミコが徳利を持つ。その肩が、しなだれるように宗介の肩に触れた。

「どうぞ一杯。この邑の清酒は美味い上に疲労も取れると街でも評判ですよ」

 おちょこを手に取る。ふっくらと焼き上がっている鮎と合いそうだ。

 とく、とくと注がれる清酒から甘く華やかな香りが広かった。口に含むと、ころころとした不思議な感触が舌をなぞり、甘さと熱さが喉元を抜けた。たしかにこれは美味い酒だ。

 鮎の身を剥ぎ、口へ運ぶ。程よい塩味を感じると同時に、身が解けた。噛むとこれぞ鮎と言わんばかりの甘味が溢れ、思わず唸る。

 そうして何杯か清酒を喉へと流し込んだ頃。パタパタという足音がし、廊下から小さな人影が畳の上へ上がった。

 それは子供だった。おかっぱの髪をして、白い着物の童女。

「ヒメ、こちらへ」

 ミコが声をかけると、ヒメと呼ばれた童女がこちらへと歩き出した。ミコの娘だろうか、たしかに四歳くらいに見える。

 ヒメはなんの表情も浮かべず近づいて来た。ミコの膝の上をこえて、二人の肩を両手で広げるとその隙間に自分の身をねじり込む。そうして、宗介の肩にひしと身を寄せたのだ。

「ヒメは宗介さんが気に入ったのかしら」

 また、ふふ、とミコは笑った。その目線が、ヒメの頭越しに宗介と絡まる。

 童女の少し高い体温が肩先を温める。その温度に、なんだか急に眠気が込み上げてあくびをした。その反動で視線がミコから外れる。

「お疲れですものね。もう休まれますか?」

「ああ……いや、ご馳走は全部いただくよ」

 食べるのは大事だ。腹が減っては戦は出来ぬ。いつでも動けるよう、食べられる時は食べなければ。ああ、それにしても眠い。

 それから、おそらく食事は全部摂ったはずだが記憶がない。気がつけば宗介は布団の中で朝を迎えていたのだった。


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