第10話 影との対話

 ユウキはある夜、ふと目が覚めた。時計を見ると深夜2時。静まり返った部屋の中で、彼の胸には言い知れぬ重苦しさが広がっていた。都会での仕事や人間関係の記憶が、不意に鮮明に蘇る。上司に叱責された日のこと、同僚とのすれ違い、そして自分が失敗した瞬間の冷たい空気。


 「どうして、今さらこんなことを思い出すんだろう…。」


 彼は目をつむり、頭を振って追い払おうとしたが、記憶は次々に押し寄せてきた。それらの思い出は、彼の胸を締め付け、涙が自然と頬を伝うほどの痛みをもたらした。




 翌朝、彼の疲れた表情を見たサキは、すぐに察した。


 「昨晩、何かあったね?」


 ユウキは頷き、夜中に押し寄せてきた苦しい思い出を正直に打ち明けた。


 「どうしてこんなに苦しいんだろう…。もう終わったことなのに。」


 サキはしばらく黙っていたが、やがて静かな声でこう答えた。


 「ユウキ、それは心の中に住む『影』みたいなものだよ。無理に追い払おうとするほど、影は大きくなってついてくるものだ。」


 「じゃあ、どうすればいいんだ?」


 「その影と向き合うんだよ。逃げたり否定したりせず、じっと話を聞いてみるんだ。」




 サキはユウキを、村の奥にある静かな洞窟に連れて行った。そこは薄暗く、ほのかに冷たい空気が漂っていたが、不思議と心が落ち着く場所だった。


 「ここで少し座ってみよう。この場所は昔から、心と向き合いたい人たちが訪れるところなんだ。」


 ユウキは少し緊張しながらも、洞窟の中央に腰を下ろした。サキは彼の隣に座り、そっと語りかけた。


「目を閉じて、自分の心の中を覗いてごらん。その影が何を伝えたいのか、耳を傾けてみるんだ。」


 ユウキは半信半疑だったが、目を閉じて深呼吸を始めた。最初は過去の苦い記憶が次々と浮かび、心がかき乱されるような感覚があった。しかし、サキの穏やかな声が耳に届いた。


 「その記憶が現れるのは、何かを伝えたいからなんだよ。ただ逃げるのではなく、こう聞いてみるんだ。『何を教えようとしているの?』と。」




 ユウキはその言葉を胸に、心の中で問いかけてみた。


 「どうして、こんなに苦しい思い出ばかり浮かぶんだ?」


 すると、不思議なことに記憶の中の感情が、ゆっくりと形を変えていくのを感じた。怒りや悲しみは、自分自身への失望や、誰かに認めてもらいたいという切実な思いに姿を変えた。それは決して自分を傷つけるためのものではなく、むしろ「もう一度向き合ってほしい」と願う声のようだった。


 洞窟を出た後、ユウキはぽつりと呟いた。


 「影って、ただ怖いだけじゃないんだな…。向き合うことで、少しだけ軽くなった気がする。」


 サキは満足そうに頷いた。


 「そうだろう?影はね、自分を責めるものではなく、自分を守ろうとしてできたものなんだよ。だけど、守ろうとするあまり、時に心を重くしてしまうんだ。それを解放するには、影が伝えたいメッセージを受け取ることが大事なんだ。」




 ユウキはその夜、再び心の中の影に問いかけてみた。


 「僕は、何を見逃していたんだろう?」


 すると浮かび上がったのは、都会での失敗だけではなかった。成功したときの喜びや、助けてくれた仲間の笑顔もそこにあった。影の奥には、忘れてしまった大切な記憶も隠れていたのだ。


 「影の中には、悪いものだけじゃなくて、僕が忘れていた灯もあったんだな…。」


 ユウキは少し微笑んだ。影と対話することで、過去の記憶がただの苦しみではなく、自分を形作る一部であると気づき始めていた。


 その夜、ユウキは久しぶりに穏やかな眠りについた。影を恐れるのではなく、それを理解しようとする新しい一歩を踏み出した彼の心には、小さな希望の光がともり始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る