第3話 救急の必要性
カウンセリングセンターの静かな一室に、深見真と指導教官の瑞穂が向かい合って座っていた。セッションの振り返りを終えた後、真は悶々とした思いを抱えたまま、自分の膝の上で手を握りしめていた。
「瑞穂先生、僕、まだ納得がいきません。」真は静かに口を開いた。
「休むことが大事なのはわかります。でも、休むだけで本当に問題が解決するんでしょうか?僕は、もっと前向きな努力を促すべきだと思うんです。」
瑞穂は微笑みながら、机に置かれた紅茶に手を伸ばした。「深見さん、いい質問ね。それじゃあ、あなた自身に聞いてみたいわ。あなたは、疲れた時に休むのと、無理に頑張るの、どちらが心に優しいと思う?」
「それは……休むほうがいいかもしれません。でも、それだと進歩が止まってしまうんじゃないかって……。」真は言葉を詰まらせた。
瑞穂は紅茶を一口飲み、「それが、多くの人が抱える誤解なのよ」と言った。
「確かに、私たちは教育の中で『努力すれば報われる』『苦しみの先に成長がある』と教えられてきたわ。でもね、心が疲れ切ってしまった状態では、その努力すら逆効果になることがあるの。」
瑞穂は、一枚の紙を取り出し、真に手渡した。それは簡単な図解で、ストレスと回復のサイクルを示していた。
「この図を見て。ストレスが蓄積していくと、人は心身ともにパフォーマンスが低下していく。ここで無理に頑張らせると、さらに疲労が増して悪循環に陥るの。」瑞穂はそう説明しながら、指で「疲労」の部分を強調した。
「逆に、ここで『休む』という選択肢を取ると、心身のバランスが少しずつ回復し、自然と次のステップに進む準備が整うのよ。」
真はその図をじっと見つめながら、眉をひそめた。「でも、優奈さんみたいに『頑張らなきゃ』という思い込みが強い人に、『休みなさい』と言っても、受け入れてもらえるとは思えません。むしろ、反発されるかもしれない。」
瑞穂は頷いた。「その通りね。だからこそ、ただ『休んで』と言うだけではダメなの。彼女が『休むことは悪いことじゃない』と思えるように、安心感を与える必要があるの。」
瑞穂はさらに続けた。「私は『逃寝(とうしん)』という言葉を使うことがあるわ。」
「逃寝……?」真は耳慣れない言葉に首をかしげた。
「そう。逃げるようにしてでも、とにかく休む、という意味よ。努力や成長を目指すことも大切だけど、それは回復した後でできること。心がボロボロの状態では、まず逃げて休むことが最優先なの。」
真は目を丸くした。「でも、逃げることを許すのは、カウンセラーとして無責任じゃないですか?」
瑞穂は少しだけ表情を引き締めた。「無責任……そう見えるかもしれないわね。でも、深見さん。心が限界に達している人にとって、逃げることは生き延びるための最善策なの。例えば、火事が起きたら、あなたはその場で解決策を探そうとする?それともまず避難する?」
「……避難します。」真は小さく答えた。
瑞穂は頷き、「そう、それと同じなの」と優しく続けた。「クライアントがその場で頑張る必要はないの。むしろ、一時的にでも負担を減らしてあげるのが、私たちの役目よ。」
真は少し俯きながら、自分の中で湧き上がる反発と共感を整理しようとしていた。
「でも、それじゃあ本当の成長は……。」
「深見さん、本当の成長って何だと思う?」瑞穂は静かに問いかけた。
真は言葉に詰まりながら答えた。「それは、自分の力で困難を乗り越えること……ですかね?」
瑞穂は微笑んだ。「そうね。でも、困難を乗り越えるためには、まずその困難に立ち向かえる力が必要なの。その力がない状態で無理をさせると、逆に心が折れてしまうことだってあるのよ。」
その言葉は、真の胸に深く刺さった。彼は思い返した。優奈の疲れ切った表情、自分の言葉に曇った彼女の目。彼女はきっと、「逃寝」が必要な状態だったのかもしれない――それに気づけなかった自分が悔しかった。
瑞穂が立ち上がり、真の肩に手を置いた。「深見さん、あなたは優しいカウンセラーになれると思うわ。でも、その優しさを正しい形で使えるように、もっと心の仕組みを知る必要があるの。」
真は小さく頷き、瑞穂に向かって深く頭を下げた。
その夜、彼は再びノートを開き、「逃寝」という言葉を大きく書き込んだ。新しい視点が彼の心に芽生え始めていた。救急的アプローチ――それは、これまでの自分にはなかった考え方だった。
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