清掃員の俺がいつも通りに掃除していたら、いつの間にか美女と結婚していた話。

亀飼モズメ

第1話 これは幻覚か!?

 いつもと同じ何の変化もない職場、目の前にはいつもと同じ汚れたトイレ。


 黄ばんだ便器をブラシで擦りながら、俺は考える。

(俺、結婚できるのかな?)

……最近考えることもいつもと同じだ。


 俺はマルヤダデパートの清掃員をしている。主にデパートの一階から三階までのトイレ清掃が俺の役割だ。

 大学を中退して、俺はここに正社員として就職した。


 大学を中退した理由は、大学を出なくても清掃員になれるから。馬鹿だから少し気づくのが遅かったかもしれない。親には反対されたが、俺はそのくらい清掃が好きだ。就職して数年経ったが、偏差値の高い大学でもなかったし、大学中退したことを後悔はしていない。

 

「永ちゃん、まだ三十三でしょ? 若いんだから、相手はいくらでもいるよ」


 職場でいつも親切にしてくれる雅子さんが、清掃用具をロッカーにしまう俺の肩を叩いて笑った。


「だといいっすけどね」


 俺は淡い期待を込めて返事をした。


(相手? この職場は還暦過ぎたじいさんばあさんばかりだし、どこに出会いがあるんだよ……)


 自分で出会いを求めている割に、俺はパーティとか居酒屋とかに行くような人付き合いは苦手だ。俺が清掃員になることを選んだのも、人との関わりが少なくて済むことも理由の一つとしてあった。


――だけど。


だけど、将来素敵な人と結婚して、家庭を持ちたい。それが俺の願望だ。


(むしゃくしゃする時は、やっぱビールだな)


 六畳一間のアパート。いるのは俺ひとり。

 帰宅した俺は、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出し、胃に流し込んだ。


 シャーシャーと喉元を通る冷たいビールが、今の俺の悲嘆にくれた涙のかわりになっているようだった。

 腹に溜まったビールのちゃぽちゃぽという音がする。

 顔がだんだんと火照ってきて、床に転がったビールの空き缶を見つめる。


(ああ、だりい。少し飲みすぎたか?)

 俺は壁に寄り掛かった。

 

「ひやっ」


 口から思わず変な声が出た。俺の右肩に何かがのっている。横目で肩を見た。


 人間の手だ。


(うそ……だろ?)

 俺はおそるおそる後ろを振り返った。


「うわああああああああああ! なんだよ、これ!」


 壁の方を向くと、壁から手が伸びていた。一本や二本じゃない。ざっと見ただけでも十本はある。


 人間の手、ライオンのような獣の手、犬やうさぎの手が壁から伸びて動いている。だが、鳴き声や人間の声は全く聞こえてこない。


 そのうちの黄褐色で、太い獣の手が伸びてきた。すると、鋭く長い爪で俺の頬を引っ掻いた。


(痛ってえええ! これ幻覚じゃねえよな?)


 俺はスマホのアプリを開いた。興奮しながら、親友の優斗に〝壁から手が伸びてきてんだけど!〟とメッセージを送信した。

 

 俺は壁から伸びる手を眺めた。

 少し離れて届かない距離にいれば、特に問題はなさそうだ。


(ははっ。よく見るとどれも可愛いな)


 俺の頬を引っ掻いたライオンの手も、黒い弾力のありそうな肉球がぬいぐるみみたいだ。


 俺は、冷蔵庫からカレーに使おうと思っていた牛肉のパックを取り出した。薄切りの肉を一枚取り出し、ライオンの手にそっとのせた。


 ライオンの手が壁の奥に引っ込んだ。消えたと思ったら、また壁から手が伸びてきた。のせたはずの牛肉は、手の上からなくなっている。


「食べた……のか?」


 俺は面白くなってきて、別の手も観察することにした。気になったのは、腕に毛が生えていて、骨ばった手だ。人間の男性の手だと思った。その手に、飲みかけの缶ビールを持たせた。


 手は壁の中に引っ込んで消えた。それからしばらくして、また手が戻ってきた。親指を立ててグーサインをしている。


「……うまかったのか?」

 俺は思わず笑った。

 

 スマホのバイブ音が鳴る。優斗からの返事だ。

〝わけわかんないこと言い出すなよ。独身のままで気がおかしくなったか? さっさと清掃やめて、もっとかっこいい仕事しねえと結婚できねえぞ〟


(清掃だってちゃんとした仕事なんだよ! 俺はこの仕事が好きでやってんだ!)

 優斗からのメッセージを読み、俺は缶ビールを力いっぱい握りつぶした。


そんなことを考えていると、目線の先に、泥にまみれた手があるのを見つけた。床にぽたぽたと泥が垂れている。近づくと腐った卵のようなニオイが鼻をついた。

 植物が枯れたようにしおれた、元気のない手だ。


(こんなに汚い手、さっきもあったっけ?)


 俺はお湯を入れた洗面器を、その手が浸かる位置まで持ってきた。石鹸をつけて、丁寧にこすると、泥がするすると落ちていく。


「俺、永田健太。普段は、清掃の仕事をしている。友達は少ないし、出会いはない。だから、ここで独り暮らししてんだ」


 泥を落としながら、汚い手に話しかけた。

 泥が落ちていくにつれ、雪のように白い手が現れた。小さいが、指は細く華奢な手だ。


「あんなに汚かったのに、凄く綺麗な手になった。やっぱりこういう瞬間、清掃やっててよかったと思うんだよな」


 それから俺は毎日、綺麗な手に話しかけた。なぜだか綺麗な手は俺の話を聞いてくれているような気がした。手作りのカレーを綺麗な手にのせると、快く受け取ってくれた。ライオンやうさぎの手に肉や野菜をのせたりもした。

 ペットを何匹も飼っているようなもので、食費はかさんでいったが、楽しい毎日だった。

 

 ひと月もすれば、綺麗な手の爪が伸びてきたので、爪を切ってあげることにした。切り終わるとお礼なのか、綺麗な手が俺の手をぎゅっと掴んだ。

 いつもは冷たい綺麗な手から、人間のぬくもりを感じた。


 これからも、この手とずっと一緒にいたい。そう思った。


水曜日の朝、俺は就活の時に使ったスーツを着て、ヒマワリの花束を手に持ち、床に跪いた。目の前には綺麗な手が何かを掴みたがっているように動いている。


(俺、何してんだろ? ……いや、俺は決めたんだ)


 綺麗な手に触れて、そっと銀色の指輪をはめた。高価な指輪が準備できたわけではなかったが、俺は覚悟を決めていた。

 ごくりと唾を飲む。


「俺と結婚していただけますか」


 相手は、手だ。そんなことは十分わかっているけど、気持ちを抑えられない。俺は銀色の指輪が輝く綺麗な手を強く握った。


――ピシピシ…キシキシ…。


 家全体がきしむような音がした。壁に亀裂がはしった。ガラガラと音をたてて、壁が崩れ始めた。煙が部屋中に立ちこめた。


 ケホケホと俺は咳をしながら、慌てた。

(一体、何が起きてるんだ?)


 舞い上がった塵埃が次第に落ち着いていく。


「待ちくたびれたじゃないの! ようやく私にプロポーズしてくれる人が現れたわね! さあ、さっさと結婚式の準備に取り掛かりましょう!」

 

 甲高い声が響いた。

 崩れた壁から現れたのは、仁王立ちをした黒髪をなびかせた少女だった。

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