短編集2025

風座琴文

魔女の棲家 一

 町と呼ぶのに縁遠い田舎で起きた事である。


 その頃私が住む家から学校にいこうとすると、車一台が通るのがやっとな細い道を進んでいく必要があった。途中に幾つか脇道があって、大抵は自家の、あるいは他家の田んぼに続いている。その中に人家は見えない。ずっと南に続くと赤いトタン屋根の廃屋があって、その先に人の家が疎らにある。学校へ向かうバスがくるのもそこだった。


 かつて母は私をバス停に連れていく時、一つの脇道……それは車も通れないくらいに細い脇道を示して「こっちには絶対にいくな」と言った。「どうして」尋ねると母は決まって「魔女がいるから、お前は取って食われちまう」と言って私を脅かした。幼心に食べられるのは嫌だと思って、その道は長らく通らなかった。


 道は退屈だが十分も歩けば家と集落の行き来ができた。通る車は家の者か家を訪ねる者か。雑草が生い茂り田の季節になると刈られる道は寂しかったが、澄み渡った空の下を一人きりで歩く事ができた。夏近くになると蛙がガアガア泣いていて、冬には稲を刈られた田に雪が積もる。その間を一人きりてくてくと歩いて一年過ぎて二年過ぎて三年目の夏はやけに暑かった。


 家にいる事は退屈だった。その頃友達はしきりにゲームの話をしていて、私は話を知らずに遠巻きに見ていた。それよりは自然の中に存在する蛙とか蝶とかを見ていたかった。人工的に作られた偽物じみた人間を見るよりも、人間でなくとも自然の産物である何かを見ている方が余程飽きずに済む。


 夏休みは好きなだけ遊べたが、その頃私はあの一本道の往復にも飽きを感じ始めていた。まだ見た事のない物が見たくて私は母にいくなと言われていた道を見た。その方に進めばまだ見ぬ何かが存在している事は確かで、スニーカーを弾ませてそちらに向かった。夏場の田に私を見咎める者はおらず、私は悠々と進んで山の麓に辿り着いた。無花果の大きな葉から美味しそうな香りが漂い、暗いが人の通れる道は荒れていた。


 道に落ちていた木の枝を拾ってそっと近くの藪をつついて蛇は出ず、私は草が短く、しかし青々と生えている道を進んでいった。中には何があるのか分からなかったが、草木は豊かで蕗が自生している。木々は密集しているが道を邪魔する事はない。母の警告を忘れる未知の不思議が私の足を駆り立てた。


 その道を進むとどうやら川があるらしかった。せせらぎが聞こえて恐れて立ち止まる。川となれば集落に注ぐ細い川がある。きっとそれの源流がここにあるのだろう。そう考えて私は進み、段々に開けてくる視界に太陽の明るさを感じ始めた。


 もう川のせせらぎはほど近い。ふらりと開けた廃道に出ると目の前に土手があって、可憐な花が咲いている中にふわり鳳蝶が飛んでいる。私はその羽搏きにのろっと手を伸ばすも、距離は捕まえられずに足を滑らせた。


 土手の草は滑らかに私を落としていった。その先に川がある、私は滑り台から落ちるように滑って――不意に視界が転がった。


 口の中に土の上で転がった時特有の味がする。僅か血が滲む味の中に砂が侵入し、膝がジンとする。擦りむいた。何か土手の途中にある物に引っかかって、私は転がったらしい。立とうとすると湿気を感じさせる土が手についた。上までどれくらいある、登ってはいけるだろうが難儀しそうなのは草が並々茂っている事だった。


 どうにか帰りたい。しかし膝は痛く、見るとズボンが破れて露出した膝小僧に血が流れている。涙が出て視界が滲む。ヒンと声を出しても泣く事はせず、私はどこか上り道を探して右顧左眄する。するとその視界に一人の人間が見えた。


 黒い服だと分かった。分かったがどのような服なのか咄嗟に判断できなかった。首から下を一枚の布に包んだような大きな服、ワンピースとも違うそれはゆっくり裾をはためかせて私の方にきた。その服の上に乗る顔は青白く艶めかしかった。長い黒髪が服に垂れ、袖から覗くやはり青白い手はぷっくりと肉付きよく垂れていた。


 魔女だ――私は逃げたかったが、足が動かなかった。それは怪我の為か恐怖の為か分からない。


「転んだのかい、健治」


 彼女は確かに私の名前を呼んだ。見上げる程大きい人は長い前髪を中央で分けて鳶色の瞳で私を見た。優しい顔立ちの人だと思った。魔女だなどと呼ばれているが、この人は私を知っていて、どうにかして助けてくれる人であるように思えた。ついていく。そう思って私は零れかけている涙を拭った。


「泣かないね。いい子だ」


 彼女が手を伸ばすと私は自然にその手を取った。その時気づいたが、右肘も擦りむいていて、私は何故だか格好をつけようとしてしくじったような気まずさを感じていた。彼女は「家で手当てしようね」と言ってゆっくり……まるで蛙と一緒に歩くような足取りで廃道から逸れた河原を歩いていく。途中にある青いネコジャラシの長閑さが私の警戒心を解き、母と一緒にいるような安心感を与えた。


 私が彼女の顔を見上げると、彼女はにこりと口元で笑った。形が整った唇は瑞々しく、頬の線は健康的で凡そ魔女などという剣呑な呼び名は不適格であるように思えた。


 それからゆっくり、ゆっくり歩いて日が中天に立つ頃、木々の暗がりに閉ざされた古い屋敷の前に私と彼女は立っていた。彼女はゆっくり進み、戸を開けて中に入った。私は夢心地で中に入った。


「少しの間なら、ここにいていいからね」


 魔女は優しく言って、私の膝に絆創膏のお化けみたいな物を貼った。肘にも。それで不思議と傷の痛みは消え去った。


 玄関に入ってすぐに扉もなく居間がある。そこにテーブルがあり、幾つもの物が散らばっていた。グラス、灰皿、台拭き、桃を入れた笊、果物ナイフ、蜂蜜を入れた瓶、それに何かの薬に見える様々な容器がそこにあった。


「こっちへおいで」


 魔女は私の手を取り、私はのそのそとそちらに向かった。テーブルの前にかけると、魔女はそこにあった急須から琥珀色のお茶を注いで私に差し出した。視線で飲んでいいのか訴えると、彼女は首を動かして、私はそれを飲んだ。苦みと甘みが同時にきて、お茶よりはもっと苦い薬のような物である気がした。


「すぐによくなるからね」


 彼女はまだ熟れ切っていない桃の皮を剥いて、ナイフで切り分けて皿に置いた。爪楊枝一本が一切れに刺され、私はそれを口にした。不思議な事だが、妙な味のお茶は桃とよく合って、私はその時になって喉の渇きを思い出した。


 お茶と桃を往復する私に魔女は眦を下げ、そっと立ち上がって誰かと話し出した。「迷い込んだ」「しばらくうちにいさせる」「大丈夫」そんな言葉が聞こえて、私はしばらくとか少しの間ではなく、ずっとここにいられないか考えた。


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