第32話 【短編小説】山の主
「山の主」
「山に長くいると、妙なものを見ることがある」
そう言ったのは、村の長老だった。
猟師である俺は、そんな話を聞くたびに笑っていた。
「山には獣しかいねぇですよ」
そう言って、また猟へと向かうのだった。
だが、その考えが甘かったことを知るのは、ある冬の日のことだった。
その日、俺は一人で山に入った。
雪が降る前に、一頭でも多く獲っておこうと思ったのだ。
銃を担ぎ、獣道を進む。
やがて、鹿の足跡を見つけた。
まだ新しい。
息を殺して、慎重に追う。
しばらく進むと、前方に鹿の姿が見えた。
立派な角を持つ雄鹿だ。
距離を測り、狙いを定める。
だが――
その瞬間、鹿が不自然な動きをした。
耳をピンと立て、まるで何かを警戒するように後ずさる。
そして、突然、こちらを見たかと思うと、一目散に逃げ出した。
「……?」
何かに驚いたのか?
そう思った次の瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
何かが、背後にいる。
振り向くべきかどうか、迷った。
直感が告げていた。
見てはいけない。
だが、猟師という生き物は、気配に敏感だ。
何かがいるなら、確かめずにはいられない。
俺は、ゆっくりと振り向いた。
そこには――
一本の、巨大な杉の木があった。
いや、確かに、さっきまでこんな木はなかったはずだ。
しかも、その幹には、妙な”模様”があった。
人の顔のような模様が、幹にいくつも浮かび上がっている。
俺は息をのんだ。
目が合った。
それは間違いなく、「見ている」顔だった。
次の瞬間、俺は駆け出していた。
雪の積もる山道を転がるように逃げる。
後ろを振り向く余裕もなかった。
どれほど走ったかわからない。
気がつくと、いつもの猟場とはまったく違う場所にいた。
見たことのない、黒ずんだ鳥居が立っていた。
周囲は静まり返り、風の音すらない。
俺は、全身に嫌な汗をかいていた。
このままでは、まずい。
この山から、出なくてはならない。
どうにか山を下り、村に戻った俺は、長老に話を聞いた。
すると、長老は深く息をつき、静かに言った。
「……それは、山の主だ」
「山の主……?」
「山にはな、獣だけじゃなく、人が知らぬものも棲んでおる」
「お前は、たまたま見てしまったんだ」
俺は、それ以上聞く気にはなれなかった。
それ以来、俺は山に入るたびに、あの杉の木がないか注意するようになった。
だが、あの木は二度と見つからなかった。
……いや、本当に、ないのだろうか。
時々、ふとした瞬間、あの”気配”を感じることがある。
俺の背後で、じっと見つめる視線を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます