第2話 石ころの意識
二年生の頃にできた友達が、そのまま続いていて、就活前までは、
「一緒にいれる時は、なるべく一緒にいる」
という、まるで恋人関係のような、今から思えば、何とも気持ち悪い関係になっていたのだった。
期間としては、二年間もなかったくらいであったが、それでも、自分たちには、
「結構長く感じられた」
考えてみれば、
「これが恋人関係であれば、二年近くも、同じ関係であれば、少しヤバいのではないか?」
と言われるくらいではないだろうか?
というのも、
「お互いに将来を見据えて付き合っているのであれば、まったく同じ関係であれば、お互いに不安になるに違いない」
特に、女性の方とすれば、
「この人、一体何を考えているのかしら?」
と、自分からは、なかなか言い出せないということを考えると、相手に、
「引っ張っていく力」
というものがなければ、どうしようもないということになるであろう。
それを思えば、
「大学時代の友達であれば、お互いに成長しあえる何かがあればそれでいい」
という関係なので、
「ずっと同じ関係であっても、そこに何ら不思議な感覚はないだろう」
むしろ、変わってしまうと、却って不安になるというもので、
「お互いに、ちょうどいい関係を、いつまでも保っていける」
という意味で、
「友達の方が気が楽」
ということである。
これは、
「恋愛感情のようなものがない」
ということで、
「親友としての、友情」
というものを求めるのであれば、それは、もっと違った形のものを欲しいと思うのだろうが、
「そこまで考えず、お互いに、将来を見据えるうえで、プラスになる相手」
ということであれば、
「何もお互いがお互いを拘束する」
ということもないだろう。
確かに。
「親友というものがいるといないでは違う」
という人もいるが、
「絶対に必要なのだろうか?」
と考える。
それが時として、
「手かせ足かせ」
というものにならないとも限らない。
しかも、
「相手の意見によって、自分が持っていなければいけない信念」
というものを狂わされたりするのであれば、それこそ、
「親友など必要ない」
ということだ。
そもそも、大前提として、
「価値観が同じでないと、親友と言えないのだろうか?」
ということである。
そもそも価値観など、皆それぞれ違うもので、しかも、
「他人」
ということなのだから、
「同じであるはずもない」
といえるだろう。
考えてみれば、
「これは、親友というよりも、恋人関係にも言えること」
であり、
「恋人関係がさらに、夫婦ともなると、次第にデリケートな問題をはらんでくる」
ということにあるだろう。
前述の、
「価値観の違い」
というものは、当然の五徳あるというもので、
親友よりももっと深い仲になるということなのだ。
そもそも、今はあまり言われなくなったが、以前は、
「結婚適齢期」
というものがあり、
「どうしても、結婚したいという時期が、ほぼ全員に訪れる」
というものであった。
これは、
「成長期」
「思春期」
「反抗期」
と言われるような段階において、若干の違いこそあれ、
「ほぼ皆、避けて通ることのできないもの」
なのである。
反抗期であれば、ない人もいるかも知れないが、
「成長期」
「思春期」
というものは、
「身体の変調」
つまりは、
「大人になる」
ということから、
「避けられる人はいない」
といってもいい。
実際に、
「結婚適齢期」
というのも同じもので、それでも結婚できなかった人は、
「結婚相手と知り合えなかった」
ということであったり、
「いろいろな障害があり、結局別れることになったり」
などということで、結婚できなかった人であろう。
それを考えると、
「結婚というのは、結婚したいという時期」
つまりは、
「異性への感情が、一番高まった時期に、結婚という結論を見つけたい」
という欲望から、
「結婚に至るものだ」
と考えると、
「結婚適齢期」
という言葉は、説明がつくだろう。
しかし、それはあくまでも、
「結婚ということがゴール」
と考えるのであれば、それでいい。
しかし、実際には、
「結婚がスタートライン」
ということになるわけなので、
「そのことを知った時、覚悟が本当にできているかどうかで、その先は決まってくる」
といってもいいだろう。
「結婚は人生の墓場だ」
と言われたり、さらには、結婚式を挙げてから帰ってきてからの、
「即離婚」
などという、いわゆる、
「成田離婚」
などという言葉が言われるようになったりしたのだ。
これも、
「恋愛中には気づかなかった相手の悪いくせ」
であったり、
「これから毎日一緒にいて、絶えられない」
というようなことを、新婚旅行で感じるのだ。
それは、今までが、甘い新婚生活ばかりを夢見ていて、
「相手と育む」
という発想ではなく、
「自分にとっての幸せ」
というものだけを夢見ていたとすれば、その時点ですれ違ったとしても、無理のないことではないだろうか?
つまりは、
「一緒に暮らすということがどういうことなのか分かっていなかった」
ということであり、
「耐えることが結婚の第一歩」
ということも分かっていなかったからであろう。
昔だったら、
「戸籍が汚れる」
「世間体に悪い」
「仲人に顔向けができない」
などということで、離婚も躊躇するのだが、今のカップルは、
「披露宴をせず、家族だけの食事会で」
という人も多い。
もちろん、
「結婚式代がもったいない」
という理由が一番であろうが、中には、
「離婚した時、申し訳がつく」
という理由で、
「披露宴をしない」
という人も多いことだろう。
そもそも、
「仲人制」
というのも、最近ではないようで、逆に、
「結婚式場」
であったり、
「ブライダル関係の会社が、すべてをまかなってくれる」
ということになるのだろう。
何といっても、
「他人が一緒になるのだから、そもそも、結婚すると決めた時、
「何が決めてになったのか?」
と言われた時、
「価値観が一緒だった」
という人もいるが、その価値観というのも、その言い方が曖昧なのではないだろうか?
中には、
「趣味が同じ」
という人もいるだろう。
しかし、趣味が同じであっても、考え方や、いわゆる、
「価値観」
というものが同じであるといえるだろうか。
特に価値観というものは、その人それぞれ、
「生まれ持ったもの」
そして、
「育った環境」
で変わるといってもいいだろう。
つまりは、
「人間の数だけ、その価値観は違って当たり前」
というもので、逆に、
「どうして価値観が同じだと言い切れるのか?」
という方が大きいというものだ。
友達であっても、夫婦であっても、そこに同じ価値観を求めるというのは、無理があるだろう、
もし、それを求めるるのだとすれば、
「価値観の押し付け」
といえるのではないだろうか。
これが、友達、友人であれば、まだ、血のつながりがないので、本当に、
「押し付け」
ということになるが、これが親子であれば、血のつながりというものはあるわけで、それなら、同じ価値観を求めたとしても無理はないかも知れニア。
かといって、それが、
「持って生まれたものですべてが決まる」
という場合に限られるだろう。
育つ環境が違うのだから、同じ価値観を求めるのであれば、それは、
「押し付け」
でしかないだろう。
「一緒に住んでいるのだから、同じ環境だったのでは?」
と言われるとすれば、それは大きな間違いだ。
自分を育ててくれる親は、
「祖父、祖母に育てられた」
というものであるが、それも、違う祖父と祖母である。
そして、親は育てられた時に、
「自分も親になったら同じ教育方針で」
と考えたのか?
「そもそも、大人になってから、考え方が変わったりしなかったのか?」
といろいろ考えると、
「血のつながりがある」
といっても、価値観が同じになるとは限らない。
しかも、同じ人間だって、
「生まれてから死ぬまでに、価値観が一度も変わっていない」
という人も珍しいのではないだろうか?
実際に価値観が変わったかどうかは別にして。どんなに同じに見える価値観も、まったく同じというものはない。
それでも同じ価値観を求めようとすると、酷似している価値観であればあるほど、その違いがすぐに分かるのではないだろうか?
それは、
「同じものを求めるがゆえに、違いというのが目立つ」
ということで、
「潔癖症の人間が、どこかきれいにしている部屋に入った時、他の人には気づかない汚れに気づく」
という感覚に似ているというものである。
普通の人が気づかないというよりも、
「気づいてはいるが、それが、汚いことだ」
とは思わないということであろう。
それを考えると、
「人は、意外と見えているものでも、意識としてスルーしてしまうことがある」
というものであった。
それが、いわゆる、
「石ころの存在」
というものかも知れない。
「人は、できるだけ、自分にとって、その時必要ではないというものを、無視することができるようにできている」
ということではないだろうか?
というのは、
「次の瞬間には、可能性というものが無限に広がっている」
ということである。
つまり、
「その無限に広がっている可能性の中から、自分がどうすればいいのか?」
ということを瞬時に、しかも、意識することなく、普通に判断ができているではないか?」
「例えば、自分が移動する時、歩いていくというのは、誰もが意識せずにやっている行為である」
しかし、
「右足から踏み出す」
そして、次の瞬間、今度は、
「左足を踏み出す」
そして、
「また右足を踏み出す」
これが歩行という行為であるが、これも、頭の中で、
「次の瞬間、何をしなければいけないか?」
ということを判断し、その通りに行っているからできることである。
しかも、その判断が遅れると、場合によっては、大変なことになるということだってあるだろう。
歩行するということだけに集中していれば、道路に飛び出してしまい、車に轢かれてしまうかも知れない。
逆に、車を運転している人でも、
「いきなり人が飛び出してくれば、瞬時に、ブレーキを踏むという判断を行って、車を止めなければいけない」
ということになる。
ちょっとでも判断が遅れれば、大惨事になるわけで、だから、一瞬の判断で、ブレーキを踏む。そして、事なきをえても、間に合わなかったとしても、その瞬間の判断に、心臓の鼓動が激しくなり、発汗してしまい、血の気が引くだけの動揺が襲ってくるのである。
それだけの必死さから、大惨事を避けようとするのだ。
しかも、考えていては、間に合うものも間に合わない。
「無意識のうちの判断が必要」
ということで、そういう意味でも、
「瞬間の判断に長けている」
といってもいい。
しかし、これは、本当に意識によるものだろうか?
思考能力があるのは、
「人間だけだ」
ということであれば、動物にも、同じように、
「瞬時の危険」
というものを避けることができる。
「それは、本能が備わっているからだ」
という人がいるだろうが、だとすると、
「人間の瞬時の判断」
というのも、
「本能によるものだ」
といえるかも知れない。
しかし、人間の場合には、本能で動くかも知れないが、その前に、
「判断する」
という力が備わっている。
「一瞬の判断を必要とするような場面に直面した時、
「本能と、瞬時の判断」
との間でどちらが優先するというのだろうか?
ということを考えてしまう。
「どちらも、それぞれに、相乗効果をもたらし、人間にしかできない結果を生み出すことができる」
ということであれば、
「瞬時の判断というのは、本能に基づいてできているものかも知れない」
と考えられるのではないだろうか?
また、他の考え方として、優先順位としては、
「やはり、本能なのではないか?」
と感じる。
考えてしまえば、その分判断が遅れるのではないか?
そう思うと、危険を回避した時、
「瞬時の判断ができた」
と思うのは、その時に、本能はその時だけの力であって、あくまでも、人間は、
「判断した」
と思いたい動物なのかも知れない。
それは、
「本能で動く他の動物とは違って、人間には知能と判断力が備わっている」
だから、
「人間は、他の種族と違って高等なのだ」
と思いたいからではないだろうか?
「そう思わないと生きていけない」
ということであれば、人間というのは、
「高等であるがゆえに、世の中で一番弱い動物だ」
ということになり、
「それを分かっているがゆえに、認めたくない」
ということから、
「本能よりも、判断で回避できたのだ」
と信じたいのだろう。
それだけ、
「傲慢だ」
というのか、それとも、
「弱いがゆえの、虚勢のようなものだ」
ということなのかも知れない。
それを思えば、人間は、
「普段から、瞬時の判断ができていないといけない」
ということになる。
「危険を回避する」
という時だけ、
「瞬時の判断ができるのが人間だ」
と言われても、
「さすがに、そんな都合のいいこと」
と考えてしまい、自分で信じられないだろう。
それを考えると、
「人間の瞬時の判断」
という機能は、
「弱いがゆえに、他の動物にはないものを持っていて、それが、いざという時の力になるということを自分で信じないといけない状態だ」
と考えるように、都合よくできているということになるのであろう。
そのために、
「できるだけ無駄なことは考えないようにしよう」
という意識が、働いているのかも知れない。
しかも、それは無意識のうちにでなければ、まるで、
「人間は、言い訳のために行動している」
ということになり、それは、人間として、
「屈辱なのではないか?」
と感じるのだ。
それを思えば、
「人間というものが、石ころを意識しないというのが、どういうことなのか?」
と考えれば、それが、
「無意識のうちに感じていることだ」
というのも、理屈の上で、
「納得がいくことだ」
といってもいいかも知れない。
人間が、
「ロボット開発」
というものを考える時、今の時代であっても、まだ、
「単純な動きをする」
という、
「一定のことを繰り返すだけのロボットを開発する」
ということまではできているが、それ以上の、つまり、
「人工知能を搭載し、自己判断によって動くロボットが開発されていない」
ということになる。
これには、二つの大きな理由があるのだが、それが、
「ロボット工学三原則」
と呼ばれるものと、
「フレーム問題」
というものの二つであった。
「ロボット工学三原則」
というものは、
「フランケンシュタイン症候群」
についての戒めのようなもので、
「ロボットが、勝手な判断で、人間に危害を加えたり、命令に背いたりすれば、大変なことだ」
ということで、
「その意識をロボットの人工知能に埋め込む」
ということである。
つまり、
「自らの意識で、ロボット三原則というものを守る」
ということを考えさせるということであり、
「ただ、守っている」
というだけでは、ダメだということになるのではないだろうか。
そして、もう一つの、
「フレーム問題」
というのは、まさに前述の問題としてであり、
「次の瞬間に無限に広がっている可能性をいかに判断し、行動することができるか?」
ということである。
知識だけを詰め込んでも、それに対して判断できる力がなければ、
「ロボットというのは、動けない」
ということになる。
何といっても、無限に広がる可能性の中から瞬時に判断するということは、理論的に不可能だ。
「可能性は無限なのだから、どこで終わりなのかという判断がつくはずがない」
これは人間でも同じであろう。
だとすれば、
「人間や動物には、ロボットにはない何かが存在している」
ということになる。
それは、前述の本能というものではないだろうか?
となると、
「ロボットが人工知能によって動く」
ということであるなら、ロボットの中に、
「人口本能」
というものが必要だということになる。
それは、
「無意識のうちにできる」
ということであり、人間のように、
「都合のいい考え」
というものが浮かんでこなければ、
「瞬時の判断」
というものが、
「本能からきている」
ということを理解したうえで、そこで考えの結論とすることだろう。
しかし、もし、ロボットが、
「自分の判断が、本能によるものではなく、判断ができたからだ」
と思ったとすれば、思考が、
「人間に近いもの」
ということになるだろう。
そうなると、人間のように、
「ロボットこそが、唯一の高等な知能を持っていると、勝手に思い込み、都合よく判断する」
ということで、
「人間を支配しよう」
と考えるようになったとすれば、それこそ、
「フランケンシュタイン症候群」
ということになってしまう。
「それが一番危険だ」
ということで、出てくるのが、
「ロボット工学三原則」
というものである。
しかし、この三原則というものは、最初から組み込んでおいて、さらに、
「フレーム問題の解決策」
ということで、
「人口本能」
と
「人工知能」
の二つによって、人間のような、いや、
「人間以上に早い判断力を持つことができたとすれば、フランケンシュタイン症候群というものが生まれる」
ということになる。
そのための抑止力が、
「ロボット工学三原則だ」
ということになれば、その臨床試験というのは、
「テスト兼本番」
ということになるのではないか?
つまり、試験をしようとすると、
「人間と同じ知能と本能を持ったことから、人間を支配しようなどという発想を持った時、初めて、三原則が力を発揮するわけで、その状態になって、三原則が、役に立たないということになれば、時すでに遅く、ロボットに支配される世界が、やってくる」
ということになる。
そうなってしまえば、
「すべてが終わりだ」
つまりは、
「ロボット開発」
というのは、
「最初からしない方がいい」
ということになり、
ロボット開発そのものが、
「人間の滅亡をもたらす」
ということになり、
「自分で自分の首を絞める」
という結論を導くことになるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます