7.小学六年生:魔術師になるために
「ぐ、ぅ――っ」
中段回し蹴りをガードした上から物凄い衝撃が来た。身体の中心まで衝撃が入ってきて、俺の内臓を激しくかき回す。背骨まで折れたかと思った。
交通事故かと思うほどの一撃。
俺は立っていることができずに、中段回し蹴りをガードした腕の形のまま、両膝が折れてその場にぺたりと座り込む。「ぉぐ――」と、強烈な痛みと吐き気と不快感に長く硬直していた。
穂村泰親は、だらりと両手を垂らして俺を見下ろしている。
「腕が動いたのは褒めてやる。だがまあ、腕を盾にしただけで僕の打撃がどうにかなるものかよ」
本日八回目の自由組手。
本日八回目の動けなくなっての敗北。
パタタタ――必死に動き回ったせいで吹き出した熱い汗か、それとも痛みに合わせて吹き出した冷や汗か、ともかく大量の汗が俺の顔から板間に落ちてまた一つ水溜まりをつくった。
稽古開始から二時間が過ぎ去り、叔父宅の板間は俺の汗で水溜まりだらけだ。
暑い。とにかく蒸し暑い。叔父も半袖の肌着一枚になっている。
とはいえ室内に暖房器具は皆無で、二時間必死に動き回った俺の体温と呼気だけで二月半ばの室温をここまで引き上げたのだった。
――疲労困憊――。
――満身創痍――
そんな言葉が何十回も脳内にチラついて身体を止めようとするが、しかし俺は、ブルブル震えながらもまた立ち上がる。
「はっは。よくやる」
足を引きずったのろのろ歩きを見守る叔父を尻目に壁際まで進むと――天井から糸と洗濯ばさみ一つで顔の高さに吊したA4用紙――その前で一度姿勢を正した。
両手を下ろし……両足を肩幅より少し狭めに置いた自然体。
――――。
一発繰り出したのは、六年弱の稽古と研鑽で身に付けた高速の上段正拳突きだ。
パンッ!
気持ちのいい音とともに、固く握った俺の拳が真っ白なA4用紙を突き破る。
俺は手首と拳を引き抜くと、「…………」無言で壁際の床に置いていたA4用紙の束から一枚取って、穴の開いた紙と取り替えた。
どれほどの手負いでもベストな打撃を繰り出せるようにする訓練。
最初は吊した新聞紙すら貫けなかった俺の拳も、新聞紙からチラシ紙へ、チラシ紙からA3用紙へ――気付けばA4用紙まで抜けるようになっていた。
吊した紙を貫くには、紙の繊維を強く叩く鋭さと、衝撃を受けて下がろうとする紙の動きを大きく超える速度が必要だ。
柔らかくて大きな紙ほどやりやすく、硬くて小さな紙ほど難しい。
「叔父さん、もう一本――」
声変わり前のかわいい声を出すとついでに内臓も口から出そうだった。咄嗟に口元を押さえたら叔父に笑われた。
「お前が殺す気でかかってくるなら勝手に迎撃するさ」
だから――――小学六年生で身長百七十センチの俺は、叔父がそれを言い終わらないうち、叔父の懐に滑り込む。
五メートルはあった距離をゼロコンマ六秒ちょっとだった。
床を蹴り込まず、頭の高さを変えず、身体の軸をずらさずに、膝を抜くことでスタートを切る歩法。スタートを切れば、次の足を送り出し、更に次なる足を送り出すことで進む歩法。
「――っ」
射程距離まで近付けば、さっきの『A4用紙抜き』と同様――垂らしていた右手を走らせる。
顔面狙いの上段正拳突きだ。
叩き付けられた鞭の先端がごとくに一気に跳ね上がった右腕。
拳の握りはまだ甘く、背中を固めて肩を込めるインパクトの瞬間までは、拳の握りは甘いままで――あれ?
ドキッとした。
最大加速で飛ばそうとした右拳が俺の肩より前に出なかったからだ。
「僕の意識内で動いてどうする気だ?」
見れば叔父――穂村泰親の分厚い左手に、いつの間にか右肩を押さえられている。
そしてそのまま指先で軽く突き飛ばされたら呆気なく体勢が崩れた。
昔と比べて体重は増えているはずなのに、まるで立ち上がったばかりの幼児みたいに簡単に一歩よろけてしまった。
――まずい――
ゾッとする時間すらもらえない。
――――
気付けば穂村泰親の生身の正拳突きが顔の前にあった。鼻先に触れるかどうかの寸止めだった。
直後、触られてもいない俺の髪が拳圧に揺れ、拳にわざわざ込められた特大サイズの殺気が俺の目から入って脳みそと背筋に襲い掛かってくる。
本気で殺されたかと思った。
心の底から恐怖しすぎて気持ち悪くなった。
「おぐっ――!?」
直後に俺のみぞおちを深く打った正拳下突きの方が億倍マシだ。
痛みは怖くない。
末期癌の壮絶な激痛と不快感を何日も、何週間も、絶命するその時まで耐え続けた俺だ。痛みなんてもはや相棒のようなもので、どんな痛みもこんなものだよなと思う。
だが、『死の恐怖』は違う。まだ死は一回しか経験していない。
せっかく手に入れた二度目の人生、目的を達せないまま無駄無意味に死ぬのが本当に怖かった。
だから――
だからこそ――穂村泰親の殺気を込めまくった顔面寸止めは、実戦の機微をこの身体に刻み込むのに、実に効果的だった。
千の敗北はそのすべてが骨身に染みた本当の敗北で、その敗北すべてが俺を確実に強くしてくれていると断言できるから。
「どうした? 手と足が止まってるぞ東悟」
「くうう――!!」
穂村泰親相手には何もできないが、それでも何かする。
数十の手技も、十数の足技も、いくつかの投げ技・関節技も何一つ通用しないが、とにかく何かする。身に付けた技を繰り出す。
正拳突きを繰り出しては手刀に打ち落とされて――正直、前腕を切断されたかと思い。
前蹴りを繰り出しては綺麗に足をすくい上げられて――空中で一回転して素っ転び。
どうにかこうにか掴んだ叔父の手首に小手返しを極めれば――しかし一ミリも動かない。
何一つ通用しない。
何一つ通用しないが――必死に考えて、全身全霊で動いて、また何かした。
「お。今の入り身は割と……だが打ち込みが遅い」
強烈な下段回し蹴りで両脚を刈り取られてまた素っ転ぶ俺。
受け身を取るなりすぐに立ち上がって動く俺。
息を上げ、汗を散らし、全身打撲に苦しみながらも、俺は――幸運だ――そう思っていた。
――本当に俺は運がいい――
――裏格闘界の魔術師・穂村泰親にこれほど負け続けて、それでもまだ命がある人間なんて、この世で絶対俺一人だけだ――
――俺だけが、穂村泰親の空手を長時間堪能できているのだ――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「まっ。こんなもんだろう」
「ま、まだ……っ!!」
「仰向けにぶっ倒れて動けないガキが何を言ってやがる?」
「立つ……!! すぐに立つから……っ!!」
「はっ。その根性と執念は認めてやるがね。……まあ、一晩ほど頭を冷やして、今日の全部をよく考えてみたらいい。そういうのも大事なことだ」
「……
板間に大の字になって激しく息を上げる俺を見下ろす叔父は何も答えてくれず、ただただ無言で軽く笑った。
やがて「……東悟ももう中学か……」なんて思い出したように呟くのだ。
俺はまだ上半身を起こすことすらできない。
「骨と関節もだいぶしっかりしてきたようだし、そろそろ部位鍛錬をやってもいい頃だな」
しかし叔父のその言葉の直後――疲れと痛みと忘れて飛び起きた俺。
「解禁してくれるの!?」
「拳立て伏せと指立て伏せでごまかすのにも飽きたろ? 色々叩いて、蹴って……まあ、お前なら、中学を出る頃には『相応の手足』にはなってるだろうよ」
俺は笑みが止まらなくて口元を隠した。
なにせ、小学生の柔らかい肉体には悪影響が過ぎると禁じられていた部位鍛錬をようやく許されたのだから。
手を、足を、肘を、すねを、全身を、ようやく『武器化』できるのだから。
「……えへへ……相手の拳を潰せる拳をつくらなきゃあ……」
笑いが消えない。
あと何年かで野間さんと青木さんに『強い俺』を見せるのだ。
その時に拳が柔らかくて、オープンフィンガーグローブとかを装着していたら格好が付かないではないか。
「東悟。楽しみにしてるところ悪いがな、多分、死ぬほど痛いぞ?」
「痛いだけ?」
「ずっと死ぬほど痛いだけだな」
「だったら大丈夫。俺ってかなり――ううん、かなり以上、痛みには強い方だから」
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