シェアリングボディ
千羽 鶴美
第一章 運命の契約
第1話 家族の絆 ①契約
老富豪の広々とした寝室は、薄暗い間接照明に照らされていた。高価そうな家具や調度品に囲まれているが、それらの輝きはどこか冷たく、部屋の空気には年老いた体の疲労感が漂っている。部屋の中央には大きなベッドが置かれ、そこに老富豪の大門が横たわっていた。白髪混じりの髪と痩せ細った身体は、彼が長い人生を歩んできたことを物語っている。
青年の吉田は部屋の片隅で少し緊張した面持ちで立っていた。まだ20代前半の彼は、無造作な髪と地味な服装からして、特別裕福でも、目立つ存在でもないようだった。しかし、その目はどこか悟ったような覚悟に満ちている。吉田の視線は時折大門に向けられ、やがてベッド脇に座る男性、つまり藤原に落ち着いた。藤原は契約書を手にしながら、冷静な声で説明を始めた。
「では、改めて『シェアリングボディ』の契約内容を確認します。お二人が了承される場合、この場でサインをお願いすることになります。ただし、大門様はサインができないので、私が代筆したものに母印を押していただきます。その状況は録画をさせていただきます。『シェアリングボディ』の契約期間は90日間。このうち最初の30日は練習期間、残りの60日間が本稼働期間となります。その間、身体の提供者であるあなた――吉田さんの身体は、依頼者である大門様の意思で操作されることになります」
藤原は一度言葉を区切り、二人の表情を見た。吉田は無言でうなずき、大門はかすかに目を細めただけだった。
「また、大門様の意識は吉田さんの身体に移行し、大門様の本来の身体は眠りに落ちます。契約終了後、大門様の身体は元の状態に戻りますが、吉田さんの身体は脳や細胞への負担から寿命が縮まる恐れがあります。さらに、身体感覚の変化や精神的なストレス、長期的な健康への影響と考えられます。この技術はまだ未知の領域があり、身体への影響がどの程度になるのかは未知数です」
吉田は軽く息を吐き出しながら言った。「僕はやると決めました。お金のため、妹のために。問題ありません」
その言葉に、大門はかすかに笑みを浮かべた。
「金が必要、か。若いうちはそう考えるのも当然だよな。私にとってみたら紙屑のようなものだと思っていたが、金があったおかげでこの機会に巡り会えた。金が動機。良いじゃないか。その気持ちに感謝するよ。君のおかげで、私もあと一度だけ青春を取り戻せる」
藤原は書類をテーブルに置き、契約書の最後の注意事項に目を落とした。
「もう一度言いますが、吉田さんには、脳や細胞への負担から寿命が縮む可能性があります。正確な年月はわかりませんが、それでも問題ないということですね?」
吉田は一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げて毅然と答えた。
「問題ありません」
大門の表情がわずかに曇ったが、すぐに気を取り直すように言葉を返した。
「君のその覚悟に、私は何を返せるだろうな。君がこの3か月を後悔しないように、精一杯生きてみせる。それが私なりの感謝だ」
藤原は二人のやりとりを見届けると、契約書とペンを吉田に差し出した。
「では、こちらに署名をお願いします」
吉田がペンを取り、迷いなく名前を書き込む。それを見た藤原もビデオカメラを用意し、ゆっくりと大門の名前を代筆し、大門は震える手で契約書に母印を押した。その瞬間、部屋に静かな重圧感が生まれた。
「これで契約は成立です」
藤原が告げたとき、吉田はほっとしたように目を閉じ、大門は深く息を吸い込んだ。
しばらく部屋の中は静寂に包まれていた。藤原は2人の様子を見ながら部屋の片隅に置かれたケースを開け、中から小型の医療キットを取り出した。手術に使う道具が整然と並ぶそのケースを見て、吉田は少し緊張した様子で息を飲んだ。一方、大門はすでに腹を決めた表情で静かに横たわっている。
***
「これから、ICチップを埋め込む手術を行います。このICチップで大門様の脳波を吉田さんへ送ります。ご安心ください。痛みは最小限に抑えられていますし、処置は数分程度で終わります」
藤原が穏やかな声で説明する。
「先に私からやってくれないかね。これでも歳だから、緊張すると心臓に負担がかかるんだ」
大門が冗談めかして言うと、藤原は微笑んでうなずいた。
「承知しました。では、大門様から始めます」
藤原は大門の首元を丁寧に消毒し、麻酔を注射した。大門はほんのわずかに顔をしかめただけで、じっと処置を見守る。藤原の手は慣れたもので、迷いなく小さなメスを手に取り、首の裏側にほんの数ミリの切開を入れる。その中に極小のICチップを挿入し、慎重に皮膚を閉じて縫合した。
「これで終わりです。違和感があればすぐにお知らせください」
藤原が言うと、大門はわずかに頭を動かして答えた。
「驚くほど簡単だな。昔の医療ドラマとは違うものだ」
次に吉田の番となる。藤原が手袋を替え、道具を新たに準備している間、吉田は静かに視線を落としていた。彼の心にどんな思いが渦巻いているのか、大門は見抜いたように穏やかな声で語りかけた。
「君も大丈夫だよ。若い身体は回復が早い。私のように長くはかからないだろう」
吉田は苦笑し、少しだけ肩をすくめて言った。
「そうですね。でも、やっぱり怖くないといえば嘘になります」
「それは当然だ。だが、君の勇気は大したものだよ」
大門は真剣な目で吉田を見つめた。その言葉に励まされたように、吉田は深呼吸をして首を差し出した。
藤原が同じように消毒し、麻酔を注射すると、吉田は目を閉じた。処置は大門の時と同様にスムーズに進み、数分後にはICチップが埋め込まれた。
「お疲れさまでした。これで準備は完了です」
藤原がそう告げると、吉田は目を開け、首元をそっと触れた。
「意外と何も感じませんね」
「それが技術の進歩というものです。これでお二人の身体はリンクする準備が整いました。あとは練習期間を経て、本稼働に移ります」
藤原が説明すると、部屋には一瞬の静寂が訪れた。
吉田は立ち上がり、大門に向かって頭を下げた。「3か月間、どうぞ好きに使ってください。それが僕の役目ですから」
大門はその言葉を聞いて深くうなずき、返した。「君の身体を預かる以上、私も全力で生きてみせるよ。それが君への礼儀だ」
こうして、二人の運命をつなぐICチップは埋め込まれ、物語は幕を開ける。
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