冷えひえカヘル侯の巨石事件簿(二)恋と戦慄のクロムレク/環状列石
門戸
プロローグ:環状列石の沼
はっ、はっ、はっ……!!
胸の中で、はげしく痛々しく息が弾む。もう次の瞬間にでも、自分の身体はばらばらに砕けて散ってしまうんじゃなかろうか? 女はそんな恐怖にかられつつも、走り続けていた。よたよた、ふらふら、ずるっ。足元の木の根や草々につまづきかけては、よろめく。
「ちくしょうッ。あんちくしょう!」
女はみじめに転びかけるたび、口の中で悪態をついた。……と言っても囁き声だ。こぶしを握って、女はにじみかける涙を乱暴にぬぐう。泣いたりわめいたりしちゃいけない、追手に自分の居場所を知られてしまう……!
月明かりだけを頼りに、女は暗い準街道の道脇、林と砂利道の境目のあたりをひた走りに駆けていた。
ここがどこなのか、女にはわからない。しかしとにかく、自分を捕まえようと追いかけてくる男から遠くへ……! それだけを考えて、走っていた。
――あたしのばか。大ばか!
いっぱしの人間に、なれたつもりでいた。
これまで
働いて、人の喜ぶもの、誰かの役に立つものをこしらえることを学んだ。女は下に向けて歩いていた顔を、陽光に照らして歩くことをおぼえたばかりだったのだ。その、気持ちの良さといったら!
けれど女は、またしても
気がつけば、自分のまわりの時間は何年か前に巻き戻っていた。
北へと向かう
突然、目の前がひらけた。視界いっぱいに広がったのは暗い水、水、水……。平たい湖面を前に、女は息をのむ。
からからから……。 ぽくぽくぽく…。
けれど耳の奥には、馬車のたてる音がこびりつくように響いてくる。本当に聞こえているのかどうか、追手が後ろに迫っているのか、混乱している女には判別がつかない。
「うううっ」
女はうめいて、一度後ろの道を振り返った。次いで湖の方を見る。暗い鏡のような水の周り、右手には
ふと、湖の波打ち際に長細い岩々が何本も立っているのに気づく。
――あそこの岩の根元に、隠れたらどうだろう……?
じゃりじゃりじゃり……女は小さな石ころ浜を走って行って、その岩の陰にずざり、とすべり込んだ。
はあ、はあ、はあ……!
身体じゅうにどくどくと騒がしく打つ脈を何とか静めようとしながら、女は岩にすがる。やがてその陰から、ちょっとだけ顔を出す。そうっと後方を見てみた。
馬車の気配……追手のけはいは? わからない。聞こえない……。もしかしたら、うまく
ぽく……。
その時、どこからか不気味な重い
「わあ、わああ、ひぃいいいっ」
今度こそ、女は冷静さを完全に失って、おたおたと立ち上がり駆け出した。
ばしゃんっ!
湖水の中に派手に倒れ込む。女は
「わああん。うわぁああああん」
女は泣いた。もうだめだ。すぐ後ろの方でまた、あの
捕まって、泥みたいな昔の暮らしに戻るのか。それなら今、この泥の中で溺れてしまうのも同じことだ。女はもがいた、もがいてもがいて水面を乱し、必死にもがいた……。 やがて、水面はぱたりと静まり返る。
それを見て、右手の方から
穏やかな精霊は、ゆっくり悲しげに首を振った。
緩慢な動きで
ぽく……ぽく……。
水棲牛は、次第にその姿を薄くかすれさせ、闇に融かしながら歩いてゆく。身体を離れて丘の向こうへ旅立った女の魂に、静かなあわれみを向けながら歩いていって、やがて消えた……。
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