第32話 ともだち

 あくる正月、文江はこんなにくつろいで元日を迎えたことは空襲以来始めてのことであった。


 主人は留守でその関係の来客はまず無い。家と食事は質素にさえすれば保障されている。さしあたり、これまでのように追われるものの辛さは忘れていられた。

 博之も康郎も、汚したり痛めたりしなければ、どの部屋も自由に出入りが出来た。いわばこのうちの子のように振舞えたのだ。文江の前任者の家族である菊枝も弟の孝雄も、このうちのことは承知していて、いつでも心安く遊びに来ては庭園に面した広間の、日当りの良い廊下で一緒に遊んだりした。


 三学期が始まり、ようやく教室のみんなの顔が覚えられた頃、博之も心を開いて付き合える友達が何人か出来てきた。

 中でも、どういう訳か転校初日にケンカをしそうになった時立ち会っていた、マンネンとあだ名でしか呼ばれない亀田君や中野弘之、同じヒロユキで通学路が同じで500メートルぐらい遠かったヒロ君と、タッケンといった谷口健二君、など、クラスでは上位三割の中にいるような仲間であった。

 博之は家での勉強は相変わらず出来なかったが、どうにか中の上くらいには止まっていたので、彼らと同じ思考回路で通じ合えるものが有ったのだろう。マンネンだけは家が遠かったが良く遊びに来た。


 マンネンとは他の仲間と別に、このとき二人だけでロケット作りに熱中していた。

 市販の打ち上げ花火に、細い割り竹の先につけた小指ほどの火薬に火をつけると、シュルシュルと四~五メートル飛んでパンと破裂するのがあったが、これを、小遣いの範囲で数本買って改造した。着火装置も造って点火させる。ロケットは勢い良く飛び出して、出来がいいときは電信柱を越えるほども飛んだ。マンネンとはこんな実験を何度もしたが、よく咎められずにできたものだと、後から思った。


 ヒロ君のうちは、博之のところから更に東へ行った高知大学の直ぐ裏にあった。大学の塀は北側は壊れたまま放置されていて、ヒロ君の庭からじかに構内に入れたので、よく遊びに行った。

 広いグランドの向こうに古い建物があり、夏でも使われていないようなプールがあって、フナが居るという。飼っていたのかどうか分からなかったが、ある日ヒロ君とそこで釣りをした。ところがあまり釣れないので嫌気が差して、ヒロ君がどこからか見つけた石をいきなり投げ込んでしまった。

 夢中でウキを見ていた博之は、不意を突かれてびっくりしたが、本当は居るか居ないか分からない所へ糸をたれる可笑しさに気付いて、笑い出し、一緒にその辺から石を拾って、二人で盛大に投げ込んでは笑った。そのあとグランドでキャッチボールをし、すっかり釣りの事は忘れて夕方ヒロ君と別れた。

 家に近い方の塀の破れから出ようとした時、博之は釣り道具のことを思い出した。あれは照雄兄とちょいちょい釣りに行った名残の道具だ。まだ暗くなるには少し間がある。

 博之は急いでプールに戻った。コンクリートの階段を上がってプールサイドに出ると、水底はどんよりと暗く不気味に沈んでいる。竿を探すと、えさをつけたまま置いていった所には見えない。見回すと水面に浮いているのが見えた。角を回って腹ばいになればとどくか。博之はタラップの柱につかまって腹ばい、竿を手繰り寄せた。体を起こして両手に握りかけたとき、いきなり竿先が引き込まれた。それは博之の釣りの経験では、これまで一度も味わったことのない強い引きだった。

 予想もしない突然の強い引きに驚いて、あやうく竿を落としそうになったが、かろうじて放さずに止めた。博之は胸の動悸を高めていた。この引きは何だろう。山の谷川や、照雄兄と行った久万川の釣りではせいぜい十センチ程度のフナか、大物ではウナギくらいなものでこんな感触は知らなかった。

 見たこともない恐ろしい魚でも上がって来はしないかと、動悸は高まる。


 竿を立ててようやく顔を見せた魚はコイかフナか、博之には見分けがつかなかったが三十センチはあるか、思いがけない大物であった。よくも糸が切れずにあがったものだが、吊り上げた博之は興奮状態になって、動悸を沈めるのにしばらく深呼吸を繰り返していた。

 あたりは暗くなる。魚をはね落ちないところまで引き寄せた博之は階段を下りて周りを探した。何かに包まなければ持って帰れないが、それらしいものが見つからない。ヒロ君の家に行けば、とふと思ったが、リッパなお父さんと、きれいなお母さんの居る、夕飯時のそこへ行くことはためらわれた。

 しばらくすると階段の下に、古いコーモリ傘が落ちているのを見つけた。骨はぼろぼろだが開かずに魚を入れれば落ちることはない。博之はそれを拾ってごみを払った。

 魚を持って帰って母に見せると、

「まあ、大きいのが獲れたわね」

と驚いてほめてはくれたが、さほど喜んではいないのが分かった。いつでも、魚釣りをして帰ると母は気味悪がって手を出さないので、自分で料理しては食べていた。小さい時から、釣った魚は食べてやらなければかわいそうだと教わっていた。タライに入れると真っ直ぐにいられないぐらい大きかった。  


 翌日、ヒロ君に事の顛末を話すと、どうしても信じようとしない。では帰りに寄って見ていくようにと案内したが、どうしたことか、裏の土間に置いたタライに魚は見えなくなっていた。周辺を探したが、邪魔物のない土間で一目で何もいないことがわかる。トタン張りの裏塀の外は田圃で、凍りそうな水が浅く張られていたが、そこへ逃げ込むには、土間とトタンの隙間が狭いと思えた。

 なんだか釈然としない博之はなおも、跳ねだした痕跡でもないかと丁寧にタライの周りを探していた。すると、小さな丸い光るものを見つけた。拾い上げてみると、それはうろこだった。直ぐに、ヒロ君に見せた。直径一センチ以上はある半透明の魚のうろこに間違いなかった。だがそれはすでに乾燥していた。夕べから今朝にかけて、ここに生きていた魚のものだと、相手が信じなければ、もうそれ以上言う気はなくなっていた。

 だが、ヒロ君はうろこを手にとって、空にすかして眺め、手のひらに乗せて眺めて、ようやく感動してくれたのだ。

「すごい!こんな大きなうろこのフナ、釣ったことないわ、すごかったろうねえ、僕も一緒におったらよかった」と言う。


 ヒロ君が真実だと思ってくれたことがうれしかった。




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