第23話 濁流
夏休み、やせっ細の博之も毎日遊びに忙しかった。
九時ごろまでは兄と二人、母の前に座らされて宿題をさせられ、開放されるとすぐに川へ跳んで行った。川遊びは体格が違うと一緒に遊んでも面白くない。大きい者に合わせれば深くて危ないし、小さいものの遊び場では大きい者は飽き足りない。だから、照雄は三谷の方へ行ってしまう。
博之は、お宮のすぐ下のいつもの場所に行くのが常だった。ここはエッポが放りこまれたところで、三メートル四方の淵は一番深いところでも博之の首の辺りまでで、下流側は大人が石を積んで堰を作ってくれたので、ちょうどいいプールになっていた。
午前十時頃になると、南が開けた気持ちのいい水遊び場にはたいがい誰かが来て遊んでいた。そこに付くと着ている物を脱ぎ捨てるのももどかしく、家からつけてきたふんどし一丁になって、胸に水をかけてから泳ぎに興じた。
博之の水泳は、飛び込みもクロールも平泳ぎも、潜水もすべてがここから始まった。上流側は一メートルほどの岩の脇から水が落ち込み、その岩が飛び込み台にちょうどよかった。クロールは見よう見まねで覚えたもので、下流側から上流に向かって泳げば、わずか三メートルが三倍も長くなったようなもので、滝の落ち込みまで付くのは結構きつい。
平泳ぎでは上流に向かって泳ぐと、いくらもがいても少しも前に進んでいない有様だ。その代わり掻いている限りは前進していることになり、泳ぎの練習にはもってこいの場所だった。
博之三年、照雄六年生の夏のある日、台風の影響で一晩大雨が降った。
朝、谷へ降りてみると、橋から手が届きそうなところまで水かさが増えている。こうなると普通の水遊びは出来ない。兄弟は勉強もそこそこに家を出た。お宮の脇のいつもの水遊び場は、小さな滝と淵になっていて大きなうねりと渦巻きで、とても泳げる状態ではない。
だがここから下流は大した落差は無く、水は川幅いっぱいに満々として、ちょうど博之の走る速さで流れていた。急流は必ずしも全体が早いわけではない。カーブの内側や岸近くには緩やかなよどみがあって、泳げないわけではなかった。博之も照雄も、かなり長時間水に浮いていることが出来るようになっていたので、水の多い川もさほど恐いとは思わなかった。
「ヒロ坊!ここからあのカーブまで行くきねや。お
と、照雄は三十メートル程下流を指差した。
「あこぐらいやったらなんちゃあないき、ぼくも行くわえ」
この頃は時々照雄と一緒に三谷の川へも行っていた。そこはこの川の本流で水かさも倍以上あって泳ぎ場も広かった。流れに乗って泳ぐ場所も、そこは平常の水位でも三十メートルぐらいは流れて遊ぶことも出来たので、水に乗って流れることも慣れていた。
兄から先に水に浸かり岸を蹴って流れに入った。水は土色ににごって速い。博之も直ぐ後を追った。川は参道に沿って流れ、右に曲がる。その曲りの外側は浅く砂地から草の生えた岸になっていた。そこまで行って二人は浅瀬に立った。そして上流と下流を観察する。普段の数倍になった水面は対岸の水田の畦すれすれに一面を浸し、がんがん迫ってくる感じで、下流側を見ればほんの五~六メートル先で一段の落差があり水が逆巻いているのが分かった。二人はそこに小さな落ち込みと淵があったことをすっかり忘れていたのだ。
そのことを二人とも口には出さなかったが、あの中に流れ込んでいたら危なかったと実感していた。
そこから道に上がって下流に向かった二人は、その先の五つ又から学校へ行く通りの橋の上に四~五人の仲間を見つけて足を速めた。ダシちゃんとその家の近所仲間だった。彼らは橋の上から飛び込んで、ダシちゃんの家の裏を大きくカーブして、集落のはずれで三谷の川に合流する辺りまで流れに乗って遊んでいたのだ。ざっと二百メートルはあろうか。橋の下ぎりぎりまで増水した川は、茶色く濁った水が逆巻いていた。
「オー、テカにヒロ坊!」 ダシちゃんが声をかけて皆が振り返った。
「2回目行くゼョ」 と、声と同時に2つの影が躍る。
中学生の二人が橋の真ん中から続けて流れに飛び込んだ。五年生の子が一人道を走って下流へ向かった。彼は合流地点まで先回りして見に行ったのだ。
「テカ!オンシもいくかえ?」と、ダシちゃんが二人を見て言った。
「ヒロ坊、行くがか」
身構えて乗り出そうとする博之に照雄が驚いて声をかけた。博之は二人を見上げて、手を上げて、
「大丈夫やき行かしてャ」
と言った。まったく恐れている様子はない。
「ほんなら行こう」
と、照雄も橋の低い欄干に足を掛けた。
「ヒロ坊!俺が付いてっちゃるき、行きや」
とダシちゃんが博之の背中を叩いた。
三人は続いて濁流に
本流の合流点は川幅が倍になり、右から猛然と襲い掛かってくる感じがしたが、ちょうどよく左岸の砂地に押し流されて足が着いた。そこには先に着いた仲間が三人と、畑道を走ってきた五年生が待っていた。水から上がった博之は、やや誇らしげな顔をしてダシちゃんを見上げていた。
岸近くの畑にトマトがあるのを誰かが眼をつけ、みんなで身をかがめていただきに行った。博之もいっぱしの悪がきの仲間になっていた。水に冷えた体に陽に照らされて熱くなったトマトがなんと美味しかったことか、この味は忘れられない。
川からすぐ傍に通学路の通りがあり三角池がある。川はここからは道路沿いに流れ下り、東の土佐山道の橋をくぐって、愛宕山の東を下り久万川に合流、浦戸湾に注ぐ。
この久万川は市の北を流れるいわば傍流で、高知はなんと言っても中央を流れる鏡川が代表格である。
この日、水から上がってダシちゃんの家の前まで来ると、大人たちが何人か寄って立ち話をしていた。それはどうやら、鏡川が氾濫するらしいと言う話題であった。
五ッ又の方のおじさんがオート三輪でこれから市内へ行くという。ダシちゃんはその手伝いで行くのだと聞いて、照雄は
「鏡川見たいき、積んでってや」
と申し入れていた。まだ陽は高いから時間はたっぷりあるが、照雄も博之もふんどし一丁の裸なのだ。
「帰りは無いがよ、ええかえ」と言われて、
「ウン!ええき」と照雄は答えていた。
オート三輪の荷台に乗ったのは、照雄と博之の兄弟だけだった。それでも照雄は気をそがれることは無い。
「ええわえ!鏡川を見ないかんがやき、行くがよ」
と、強く言って博之にも納得させていた。
台風は夕べのうちに通過して、快晴の陽射は強い。二人はすでに日焼けした真っ黒い背中を強烈な陽光に晒して焼き上げながら、貨物トラックの荷台の前にしがみついていた。
学校の手前の十字路に消防車が止まって交通制限をしていた。真っ直ぐ市内へ向かう道は愛宕の橋が冠水していて通れないということで、ひとつ上流の三本杉の橋に廻ることになった。車ではさほどの回り道ではない。
橋の上から見る久万川は両側の堤防いっぱいに濁流を抱えて、今にもあふれそうに危うく見えた。市内を抜けて、鏡川に掛る天神橋を渡ったところで二人は下ろされた。
さすがに鏡川は大きい。久万川の数倍はあろう川幅いっぱいに満々と水を湛えて、この景色こそ「
二人は堤防を上流に向かって歩いた。
お城の真南辺りで、土手上の舗装道路の端に腰を下ろした。その足を水が洗う。つまりこの時濁流は堤防の頂点まで30センチあるかなしかのところまで増水していたのだ。そこに座る兄弟はあまりにもか弱く小さい。ただおののいて、水の流れを、対岸を、そしてその先のお城の天守閣を、見つめていた。
日ごろなら、ここから水辺まではちょっと歩かなければならない。沈下橋がある辺り、やや流れが盛り上がっているのが分かる。一度、遠足でこの橋の周辺で遊んだことがあった。今は確かに数メートル水面下に沈下しているのが感じられた。向こうの土手までどのぐらいあるのだろうか、声を張り上げても届く距離ではない。そこに何人かの男女が川を見て動いているのが分かった。
その時、二人の直ぐ近くに数人の若い大人が六尺姿でやってきた。そこでちょっと柔軟体操をしたかと思ったら、次々に飛び込んで対岸に向かって泳ぎだしたのだ。
博之はあっけに取られて、立ち上がって姿を追った。頭だけがぽつぽつと見分けられたが、見る間に流されて識別できなくなってしまった。対岸に泳ぎ着くには、川幅の数倍は泳がなければならないだろう。彼らは無事でさえあればはるか下流に流れつくはずだ。
博之には、あっという間に飛び込んでいった彼らが、四人か五人定かではない全員が無事に向こう岸に着いた姿を想像することは難しかった。
その時照雄が立ちあがって、
「俺も行っちゃる!」と、いきなり流れに飛び込んだのだ。
「エッ!」
いきなり濁流に踊りこんだ兄を見て、博之は一瞬何が起こったのか分からなかった。照雄は流れる。博之は土手を走った。走りながら必死で叫んでいた。
「止めや!お兄ちゃん!やめやー!行ったらいかん」
岸から五メートル程の所を流される照雄を全速力で追う博之は、やや遅れがちになりながら叫び続けた。大方五十メートルも走ったころ、照雄が戻って岸についていた。十メートルも手前でそれを見届けた博之は、そこに膝を付き、前に倒れ四ツンばいになって泣いていた。あまりの激情にしばらく嗚咽がとまらなかった。
帰りの道は遠い。約5キロの道のりが、裸の二人の子どもには予想以上に難儀な道行となった。朝、家を出たきり口にしたものはあのトマトの一個だけ、炎天下の焼けたコンクリートは痛いほど熱い。その街中をやせ細った二人の少年が、ふんどし一丁で手をつないで歩く姿は、当時としても奇異であったろう。
焼け落ちた生家のあった愛宕の踏切を渡り、空襲の夜、逃げ走った通りを北へ、とぼとぼと歩く二人の前に久万川がある。
冠水して渡れないと言われた橋が目の前にあったが、まだ水は橋の上を流れていた。ここから三本杉の橋まで廻るのは、歩くには大きな遠回りとなる。
しばらく立ちすくんでいると、向こうから自転車を押した大人の男の人がやってきた。水際まで来ると自転車を置いて,靴を脱ぎズボンを膝上まで捲り上げて用心深く渡り始めた。橋を越える水は下流側で周辺の水田すべてに冠水して、湖のような広がりになっている。もしそこへ流されたら、手近に寄る岸は無い。全面に不安を湛えたどす黒い広がりであった。
橋に欄干はなく、上を超える水幅は四~五メートル、男の人は自転車を斜めに倒して体重を支えながらようやく渡りきった。まくったズボンは両膝とも濡れていた。
「行けるろう、つかまりや!」
と照雄は博之の手を取って歩き出した。
流れは容赦なく二人を襲う。もしどちらかが足を取られたら、二人とも流されていたはずだ。
無事に渡れたのは幸運以外の何者でもない。博之は腰まで浸かり、足をすくわれないように懸命にこらえて、ずらしながら進んだ。無論、照雄とて余裕があるはずも無く、二人は必死になって五メートルを乗り切った。
この時、博之の歴史はまさしく風前のともし火であったに違いない。
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