第11話 大岩の滝

 春が来て小川の水がぬるんでくると、ヒロ坊は毎日お兄ちゃんの帰りを待ちわびるようになりました。


 お兄ちゃんは学校から帰ってくるとすぐに出かけます。下の谷に沿って上流へ登り、川岸の草の間に芽を出すイタドリを摘みに行くのです。お宮から上は二人だけのテリトリーのようで、他から来る者はほとんどいません。

 二人は毎日のように見回って歩き、ちょうど取り加減の物から採っては、帰りは両手に抱えきれないほど持って帰るのでした。塩をつけておやつ代わりに食べるのですが、取るのが楽しくていつも余らせてしまうほどでした。


 家からお宮への道の倍くらい谷をさかのぼったところに、大岩の滝があります。お宮からこの滝つぼまでが二人の縄張りのようなもので、ヒロ坊はどのあたりにどんな岩があるか、どの岸のどこにイタドリがあるか、など、もうほとんどそらんじるほどになっていました。でも三年生になったお兄ちゃんは、そろそろこの小さな谷の縄張りでは満足できなくなっていたのです。


 その日大岩の滝まで来た二人は、陽だまりになっている滝つぼの周りでしばらく草摘みをして、ひとしきり摘みごろの物を採ると、お兄ちゃんが滝を見上げて言いました。

「ヒロ坊、この上へ登ってみちゃろうか」 

ふたりは、滝から上はまだ知らないのです。


 大岩はすべり台のように流れる滝を挟んで両側にそびえていました。

 左の岩はツルンと滑らかで、横の山肌も登れそうにありません。右の岩は縦に裂け目があり、そこに木が生えていました、その木と岩の間を登れば、どうにか登っていけそうに見えたので大岩の裂け目に生えた木はお兄ちゃんの頭の高さに根があって、その下には何の手がかりもありません。


 お兄ちゃんはあたりの川原を見回し、ちょっと下流に引っかかっている流木を見つけました。

「ヒロ坊、あれを引っ張って来ちゃろう、手伝いや、」

と、二人で引き出しにかかり、散々苦労してそれを岩と木の間に立てかけると、ちょうど具合のいい足場ができたのです。

「これやったらヒロ坊でも登れるろう」

と、お兄ちゃんは登りにかかりました。

 ヒロ坊は、改めて見上げると、家の屋根よりも少し大振りな岩は最初の木から上にも二~三本、手頃な小枝が階段状に伸びていました。お兄ちゃんは、木と岩の間を上手に這い登ってもうすぐテッペンです。そこから、

「ヒロ坊,来てみいや、何ちゃあコワいことないキニ」

と誘いました。見上げながらヒロ坊は、

(ボクも登れる)

と思いました。そう思って、登り始めたのです。


 お兄ちゃんと立てかけた木は、ぐらぐら揺れるのでなかなか手が離せません。伸び上がって上の枝をつかまなければ、どうしても登れないのです。

 難儀しているのを上から見たお兄ちゃんは、するすると木の根方まで降りてきて、立てかけた流木を押さえてくれました。それでようやく上のむき出しの根につかまりよじ登ることが出来たのです。

 岩から生えた木はヒロ坊の胴回り程の大きさで、抱きついて登るのにちょうどいい枝ぶりだったので、お兄ちゃんに付いてヒロ坊も岩のてっぺん近くまでわけなく登れたのでしたが、登ってみるとそこは岩から一メートルぐらい離れていて、お兄ちゃんは上の枝につかまって岩に移れるのですが、まだ背の低いヒロ坊にはそのやり方では高さも横幅も足りないことが分かりました。


「お兄ちゃん!ボク渡れん、」

ヒロ坊は、こんなに高いところまで自分で登ったのは初めての事だったのです。上から見下ろしてその高さに少し怖くなりました。

「ヒロ坊、そジャッたらもう少し上がりや、その上の枝と下の枝で横にこっちに来るがよ、」

と、岩の真上に伸びている枝に登るように言いました。ヒロ坊の腕位の枝が上下に二本、岩の真上まで延びて、細い小枝に分かれています。

 ヒロ坊は、降りるよりそちらの方が良いように思え、勇気を出して二メートルほどその枝を横に進んだのです。


「おまんらあ、なにしゆうがゾネ!」

 そのとき、滝の水音より大きなしわがれ声が聞こえました。

 その声に、ギョッとした二人は、顔を見合わせてから,おそるおそる声の主を探しました。だが、足元からはドウドウと滝の音がしているばかりです。畳四、五枚分の広さのある岩の上からは、山に向かってほとんど平らに雑木林に連なっていて、木々の若葉に覆われていました。

 その若葉を掻き分けるようにして、一人のお婆さんがのっそりと出てきたのです。

「おまんらあ!そこから落ちたら死ぬぜよ」

と、体に似合わないような大きな声でたしなめられました。


 ヒロ坊は小枝にしがみついたまま動けなくなっていました。お兄ちゃんの頭に届く高さで、ほぼ岩の真ん中あたりですが、悪いことにそこには窪みがあって丸い水溜りになっていたのです。水溜まりはお兄ちゃんがまたいでギリギリ届く大きさで、深さは分かりません。

「ヒロ坊、もうちっと先のほうへ来てみい、枝が下がるき」

 お兄ちゃんはそう言って足元をたしかめ、ヒロ坊を抱き取る構えをしました。言われるままにヒロ坊は少し枝先へ移動します。枝は細くなって、自分の手首ほどもありません。

 そのとき、上下の枝に掛る体重のバランスが崩れ、体が横になってしまったのです。お兄ちゃんの顔にお尻がぶつかりそうになって、お兄ちゃんは危うくよけながら背中を抱きました。ヒロ坊の足の方の枝は跳ね上がり、つかまっている枝のたわみでうまくゆっくりお兄ちゃんの胸に体重が移って、やれやれ無事に降りたか、と思った次の瞬間、お兄ちゃんの片足がツルンと滑って、その弾みで二人は抱き合ったままバッチャンと水溜りに落ちてしまいました。


「ホラ、見いヤ、大丈夫かね!」

 すぐそばまで来て見ていたお婆さんが、手を差し伸べて二人を助け起こしてくれたのです。幸いお尻から下が濡れただけですんだのですが、まだ春は浅く、水遊びには早すぎるようでした。

「まったく、無茶する子らやねえ,危のうて見ちょれンぞね、まっことサルと違うかね」

と、お婆さんはあきれて二人を見比べていたのですが、

「こらいかん、風邪ひくぞね、乾かしちゃるけに付いて来や、」

といって二人をうながして林に分け入っていきました。


 ヒロ坊もお兄ちゃんも、滝の上に来るのは初めてのことで、様子はまったくわかりません。

 林を抜けると、そこは意外にも平らに開けた丘が柔らかな日差しを受けて緑のじゅうたんのように広がっていたのです。滝の上流の川は、下の谷川とは比べようの無いほど穏やかな小川で、まっすぐに丘のかなたまで伸びて緑の中に溶け込んでいました。

 その川のほとりにポツンと小さな小屋がありました。お婆さんは

「入りや!」

と二人をそこに呼び入れたのです。


「はよう入りや!」

 お婆さんは重ねて呼びかけました。二人は顔を見合わせうなずきあってから、手をつないで中に入りました。お婆さんは土間の囲炉裏に火をつけて、燃え上がったところで、二人を火のそばへ招き、

「さあ、はよう濡れたもんを脱いであたりや」

と言ってうながします。

 二人はおずおずとズボンを脱いで搾ってから炉の脇にある柵にかけました。パンツは脱がずにおしりを火にかざして乾かすことにしました。

「ハッハッハ!コンマイ(小さい)くせに、恥ずかしいがかえ」

と、お婆さんは楽しそうに笑いました。

 斜めに押し上げる板の窓から、差し込む光にかざして見回すと、お婆さんが腰掛けている一段高い床に、寝床がひとつ広げられたままになっていて他には何もありません。囲炉裏の火の上には大なべが自在カギに掛っていました。


「お婆ちゃん、一人なが?」

と、妙に物おじしない性質のヒロ坊が聞きました。

「そうながヨ!トット昔からよ、」(トット=ずっと)

と、ポツンと答えました。

 お婆さんは真っ白い髪の毛で、顔には深いしわが何本もありました。ここに入る途中で見た景色の中には、一軒も人の住むような家は見えなかったので、お婆さんは一人ぽっちなのだと、ヒロ坊は思いました。


「おまはんラア、どこの子ぞね?」

と、お婆さんが聞きます。

「この川のしもに、お宮があるろう、あっこのチョッと上に越してきたがです」

と、お兄ちゃんが丁寧に答えました。

「ほんじゃあ、栗山の兵舎かね」 

「そうに変わらん、もと兵隊さんがおった家やき」


 しばらくすると、干したズボンから出ていた湯気も消えて乾いてきたようです。

「お婆ちゃん、おおきに、もういなんといかんき(帰らないといけない)」

お兄ちゃんはそう言って、ヒロ坊をうながしズボンをはきました。

「待ち!おまんらア、ひとつオババの言うことを聞いてくれんろうか、エ?」

お婆さんはそう言って、立って来て二人の肩を押さえました。

「・・・・・」

「・・・・・」

 二人は無言でお婆さんの顔を見つめました。

 お婆さんは、ニタッと笑って、

「世話無い、世話無い!今度来る時でエイキ、オババにタバコを採って来てや」

と言って、

「こんなガヨ!」

と、見本を見せました。それはヒロ坊もよく知っている草の葉を乾燥させた物だったのです。


 お婆さんにお礼を言って二人は帰りかけました。すると又お婆さんが呼び止めたのです。

「待ちや!おまさんらまた滝の岩から帰る気ながかえ?そらいかんぜよ」

と言います。

「そんなら、どう行くが?」

とヒロ坊が聞くと、お婆さんが指をさしました。

「あの上に道が見えゆうろう、あこまで行って下へ行かないかん、他に道は無いけに」

と言うのです。

 見回せば谷間はすっかり日陰になって、とても今からあの岩を降りていく勇気は二人にはもうありません。西陽に光って見える道は村の東方の土佐山道で、下では村の東はずれになるのでヒロ坊の家からはずーと遠くなります。

「こっちの道は?」

と、お兄ちゃんが西方の山を指して聞いてみました。

「あるけんど、とっと(ずーと)上よね、道が無いき、行かれん」

と言うのです。

 二人は東の山道で帰ることに決めて、お婆ちゃんに別れを告げました。



 土佐山道に出た時はすでに、西の栗山の上の、さらに遠くの山に陽が沈みかけていました。二人は坂道を小走りに駆け下りて急いだのですが、どうしてもヒロ坊が遅れてしまいます。お兄ちゃんは先になっては休みながらヒロ坊を待つのですが、追いつくと又走るので、ヒロ坊は休むことが出来ないのです。

 一生懸命に頑張っていたヒロ坊は、とうとう転んで泣き出してしまいました。お兄ちゃんは下から

「がんばれ!」

と言うのですが戻って来てはくれません。

 ヒロ坊は自分で起きて、泣きながらお兄ちゃんの後を追って走り続けました。


 二人が家に着いたのは、もうすっかり日も暮れた時間で、半欠けの遅い月が、さっき泣きながら走った東の土佐山道の上に顔を見せていました。

 お母さんは心配のあまり家から出て橋まで降りたり、上の道を見に戻ったりと、何度も行き来した挙句に、橋の上で二人を迎えたのでした。


「ふたりとも!どうしてたの!」

お母さんの声はとがって震えていました。

 家に帰った二人はご飯の前に、仏壇の前に座らされたのは言うまでもありません。

 ポツポツといきさつを話すうちに、お母さんはあきれ果てて泣き出してしまいました。あの、大岩の滝は、お母さんもミツバ摘みに行ったことがあり、よく知っていたのです。

「そんな危ないことをする子はもう、お母さんの子じゃないから、どこへでもいってしまいなさい!」

と泣きながら怒ったのです。

「ごめんなさい、もうしません」

と、二人は泣き泣きお父ちゃんの仏壇に誓ったのでした。

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