第四十七話 桜吹雪
胡蝶をお甲に預けたその足で、竜弥は髪結い道具片手に孔雀の部屋を訪れた。勇次の快復を色々な意味で喜び合いながら、緑の豊かな黒髪を
「なぁ、孔雀」
「なんだい、竜さん?」
「仮にだよ、もし仮に人間に戻れたとしたら、まず何をしたい?」
「なんでそんなこと訊くんだい?」
孔雀は首を傾げ、考えるふりをして
「いいから答えろよ」
「ふふ、そうだねぇ……。五百羅漢様の温もりを探して、昔の
髪を梳く手にわずかな動揺が走る。孔雀はわざと気づかぬふりをした。
「だって、わっちら遊神には人間だった頃の記憶がないんだもの。興味あるじゃないか。自分がどんな男と惚れ合っていたのか」
動揺を押さえながら、竜弥は黙って髪を梳き続けた。
「それに、人間に戻ったら昔みたいに目も見えるようになるし。どんな男だったんだろうね、わっちの情夫」
くすくすと笑い、孔雀が震える竜弥の手に自分の手を重ねる。
「なんてね。冗談に決まってるだろ。知りたかったらとっくに探しに行ってるよ。あ、見えないんだから意味ないか、うふふふ」
「笑えねぇよ」
孔雀の手を握り返し、竜弥は胸を撫で下ろした。再び髪をくしけずる。
「ねぇ、竜さん。五百羅漢様の言い伝えには続きがあること、知ってるかい?」
「続き? 会いてぇ人の顔を拝んで
うん、と一呼吸置いてから孔雀は告げた。
「会いたい人が生きているときはね、温もりを感じる羅漢様は見つからないのさ」
竜弥は一瞬息を止め、それから大きくほーっと吐き出した。なるほど、だから勇次は見つけられなかったのか……と合点がいった。しかし、それは逆に言えば、温もりを見つけてしまったらその人はもうこの世にはいない、ということになる。
「わっちは怖くて探せないよ」
会いたい人の生死が不明の場合は、あえて温もりを探すような真似はしたくない、と漏らす。相手の死が確実だと知ってしまったら二度とは立ち直れないだろう。
「竜さんだったらどうする?」
向けられた横顔を竜弥は見つめた。
「探す必要なんかねぇだろ。遊神は不老不死なんだから」
ことり……と櫛を置く音を聞き、孔雀がその横顔を傾ける。
「竜さん……?」
突として竜弥が後ろから孔雀を抱きしめ、唇を重ねた。豊かな黒髪を指で梳き、流れるように薄紅色の頬を撫で、しなやかな身体を逞しい
孔雀の細い指が竜弥の首筋を伝ってゆく。ぞくぞくするような快感を味わいながら、しかし、竜弥はそこで唇を離した。抱きしめたままその唇を白雪色の耳に寄り添わせ、人差し指と中指で
「待ってろよ。俺が必ずおまえを人間に戻してやる。だからそのときまでこの唇、誰にも渡すんじゃねぇぞ」
かすれ気味で色のある声から
「おまえが人間に戻ったら、一緒に年を取ろう」
放たれた窓から桜吹雪と共に吹き込んできた春風がふたりを包み込む。孔雀は見えない目を閉じたまま、身じろぎもせず竜弥に
ひとしきりそのままの体勢で互いの想いを確かめ合うと、竜弥は腕を解き、何事もなかったように孔雀の髪を結いはじめた。
昼見世を開けてから一刻ほど経ったであろうか。桜吹雪の舞う朱座遊郭の一角、勇次と竜弥は並んで邑咲屋の前に立っていた。吉原つなぎの上に屋号の入った
「ちょいとそこのおふたりさん。わっちらより目立たないでおくれ」
「うるせー、附子。悔しかったら一人でも多く客をとってみやがれってんだ」
返す返すも、世が世なら間違いなく不適切な発言を平気で吐くところは二年半前とまったく変わっていない。
「なんだって? あんたがしっかり客引きするんだよ、このドラ息子!」
「ああ? もっぺん言ってみろ、この川越芋!」
竜弥が眉間に皺を寄せ籬に近づこうとするところを勇次が制する。
「まぁまぁ、川越芋は見た目はあれだが、味は天下一品ってことで、な?」
張見世に向かって涼やかな目元で目配せすると、遊女らはきゃあっ!と黄色い歓声を上げた。竜弥がわざとふくれっ面を勇次に見せる。勇次はその頬を両手で挟んで潰し、くっくっくっと肩で笑った。黙っていればモテるのに、こいつは無駄に色男だな、とつくづく勿体なく思うのである。
二階を見上げると、廻り縁に腰掛けた孔雀が上機嫌で煙管を咥えていた。視線が合うことはないが、二人に向かって微笑んでいるようにも見える。
人通りもまばらな遊郭街の昼下がり。穏やかな春の陽射しに包まれ、二人で雑談を交わし、折々腹を抱えて笑い合う。程なくして暖簾の中からりんがお亮に伴われて出てきた。
「姉ちゃん、色々ありがと」
「やめとくれ、気持ち悪い」
花車お亮の采配がなかったら、りんは今頃ほかの傾城屋に売られていただろう。相手が病人だろうがおかまいなしに叱咤する豪胆さにも恐れ入るばかり。つくづく姉には一生頭が上がらない。
姉からりんに視線を戻し、少し照れたように目を細める。その肩に、竜弥がにやにやしながら手を置いた。
「ゆっくりしてきていいぞ」
背中を押し、勇次とりんを送り出す。どうせ昼見世は暇なのだ。残りの若い衆で客は
「行ったかい?」
金舟楼の暖簾から甚吾郎も顔を出した。お亮が穏やかな微笑みを返す。肩を並べ、勇次とりんの後ろ姿が桜吹雪に溶け込んでゆくのを見届ける。
皆の姿を見て、竜弥は安心したように暖簾の中へと戻っていった。
朱座の染井吉野が見頃を迎えるこの季節は、登楼客より花見客のほうが多いくらいだ。傾城屋としてはそれはそれで困りものなのだが、病み上がりの今日くらいは片目を瞑り、至福の時を満喫しよう、と勇次はひとりで頷いていた。
引手茶屋が並ぶ広小路を歩きながら、時折振り返ってはりんの姿を確認する。また突然自分のもとからいなくなってしまうのではないかと、いまだに不安に駆られることがある。それでもこの奇跡を信じたい。神から与えられたこの奇跡は、二度は訪れないだろう。だからふたりで過ごす時間を大切にし、今度こそりんを離さない。
りんは、桜並木の下で芸を披露する様々な乞胸たちに釘付けだ。華やかな賑わいに驚嘆し、くるくるさせる瞳には徐々に光が戻りつつある。妓楼という特殊な環境に慣れるには今少し時間を必要とするだろうが、必ず自分が守り抜く。遊郭の現実、苦界という地獄を目の当たりすることは避けられない。ならば、いかなるときでも自分が全力で彼女の心を守るまでだ。
そんなことを考えながら広小路を過ぎると、団子屋の店主が小指を立てて冷やかしてきた。
「おや、邑咲屋の若頭、新しいコレかい? こりゃまた随分と可愛い娘を連れてるじゃないか。やっぱりいい男は違うねぇ。羨ましいこって」
昨年末にりんを案内したときとは彼女の身形があまりに違うものだから、気づかなかったらしい。
「いやいや、腹違いの妹が見つかったんだよ」
本心では「
「またまた照れちゃって。よっ、川越一の色男!」
ここは日本一と言って欲しかった。とはいえ、りんには聞こえないのだからどうでもいいことだが。
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