第三十九話 川越城下炎上

 奉公先の名主邸から帰宅したりんは、待っていた熊次郎から事の顛末てんまつを聞いた。痩せた父の手を取り、喜びの笑顔を向ける。


「おとうちゃん、心配しねぇでけぇ。おら、果報者だよ。川越一、ううん、日の本一の果報者だ」

「うんうん」


 父娘は抱き合って涙を流した。


「勇次さんね、明後日は一緒に麦踏みやってくれるって」


 勇次は元々百姓の生まれだから畑仕事もいとわないのだ、と話すと父は嗚咽おえつを漏らした。


「それから、小仙波村には高林先生っていう腕のいいお医者様がいるんだって。その先生におとうちゃんのこと診てもらえるように頼んでくれるって」


 りんが背中をさすると、さらに父は声にならない声で「今まですまなかった」とこうべを垂れた。

 兼造とて勇次を心底嫌っているわけではなかったのだ。むしろ彼の振る舞いから、このような度量のある男がりんの婿になってくれたらこんな喜ばしいことはないと思っていたくらいだ。

 だが、身分制度という悪法が作る足枷あしかせをどうしても外せなかった。これは兼造が悪いわけでもなんでもない。この時代、兼造の感覚が普通なのだ。

 その足枷が外れた今、愛娘を笑顔にしてやれたことが父親として最高のよろこびであった。






 翌日、庄之助にそのことを報告すると、彼は「そうか」と一言発しただけだった。しかし、その顔には笑みが浮かんでいる。あきらめとも祝福ともつかない複雑な胸中を垣間見せながらも、彼は淡々とりんの意志を尊重してくれた。

 庄之助の母に教わりながらりんが縫い上げた男物の小袖を眺める。一針一針丁寧に、想いが込められた縫い目。

 あかぎれだらけの手はいつの間にか雪のように美しく変貌していた。高林先生に処方してもらったという雲膏うんこうは勇次がくれたのだろう。

 幼い頃より接していながら、器量も気立ても良い働き者の彼女の真の魅力に気づけなかった。そんな自分の愚かさを悔やんでみても始まらない。


「祝言はどうすんべ?」

「勇次さんとゆっくり話し合ってから決めます。来月に先代の女将さんの三回忌が控えているとかで、たぶんその後になるかと」


 急に大人びた顔つきにどきりとする。白粉も紅も付けていないのに、透き通るような素肌が今日は一段と美しい。


「紅くらい差したらよかんべ」

「勇次さんがこのままでいいって。〝時分の花〟っての教えてくれたべ。よわいによって美しさが違うんだと。おらの年齢としは余計なことしないのが一番だって。それよりも白粉や紅が似合う年齢になるまでは中身を磨けって。教養を身につけろってことだべ」


 敵わないな……と庄之助は完敗を認めた。時分の花があまりにも眩しくて、直視するに耐えきれず立ち上がる。


「今日はもう上がってよかんべ。嫁ぐ日まで少しでも長くおとっつぁんのそばにいてやれ」


 はい、とりんは畳に手をつき、深々と頭を下げた。庄之助が障子を開けてやると、びゅううと冷たい北風が吹き込んできた。午後から急に強くなった風が、木桶をからんからんと飛ばしてゆく。

 突風にあおられ、咄嗟に袖で目を隠した二人はある違和感を覚えた。


「なんか、焦げ臭ぇな?」


 異変に気付いた庄之助が板縁を駆け降りる。彼の後を追ってりんも裸足のまま飛び出した。


「あっ!」


 屋根の向こうを見上げた庄之助が驚愕の声を上げた。それを見てりんが同じ方へと顔を向ける。その瞬間、彼女もまた吃驚の眼を見開いた。名主邸の大きな屋根の向こうに、真っ黒な煙がもうもうと上がっていたからだ。


「庄之助さま! 村が火事です! はようお逃げください!」

「村が火事だと⁉」


 慌てて駆けてきた使用人の言葉に二人は耳を疑った。急ぎ裏庭を出て、またも絶句する。二人が目にしたのは炎が次々と燃え移る小久保村の家々だったのだ。


「おとうちゃん!」


 庄之助が止める間もなく、りんは自宅に向かって駆け出した。

 追いかけようにも、自分の家族や使用人たちを避難させるのが先決だ。葛藤を抱えつつ庄之助は家の中へと戻り、家族のもとへ駆けつけたのだった。






 邑咲屋に数通の証文が届いたのは、時鳴鐘が未の中刻を知らせた少しあとのこと。ツケの請求元は京都島原遊郭の妓楼だ。

 帳場にいた勇次は松吉と顔を見合わせた。伊左衛門の周遊は関八州に限られるため、おそらくこれは——。


「竜弥の野郎………………殺す」


 わなわなと拳を握りしめる。自力で食いつないでいたと見直した自分が馬鹿だった。沸々と怒りが湧き上がり、勇次は勢いよく朱色の暖簾を払い上げた。

 と、ちょうどそのときだ。息を切らして暖簾に飛び込もうとする竜弥と鉢合わせした。


「あっ、勇次! てぇへんだ!」

「た~つ~や~、てめぇ、この野郎、見世の金で遊びまくっていやがったな」


 竜弥の衿をぎゅうぎゅうに締め上げ、怒りをぶちまける。


「せっかくひとりで頑張ってると思って見直してやったのによ! よくもよくもよくも俺の純な心をずたずたにしてくれやがってちきしょーぶっ殺してやる!」

「まっ待て、勇次、それどころじゃねぇ。火事だ、火事!」

「誤魔化すんじゃねぇ!」

「誤魔化してなんかいねぇって。まじで火事なんだって! 半鐘が聞こえねえのか?」


 勇次は言われて初めて半鐘の音に気づいた。証文を受け取ったことで頭に血が昇り、まったく気づかなかったのだ。そこへ甚吾郎がすっ飛んできて、二人の間に割って入った。


「なにやってんだ、ふたりとも! 火事だ! 西の方だぞ!」

「西の方?」


 そのとき金舟楼の二階の廻り縁から若い衆が甚吾郎に向かって叫んだ。


「若旦那さま! 養寿院の奥から火が見えます! 赤間川の向こうかもしれません!」

「火元はおそらく小久保村だ」


 竜弥が勇次を見る。石原宿の大和屋で昼寝していた彼が騒ぎに気付いたときには、すでに小久保村の百姓家の何軒かには炎が燃え広がっていたという。


「りん!」


 勇次は竜弥の衿から手を離し、即座に大門を走り抜けた。竜弥も後を追う。朱座が騒然とする中、お亮が邑咲屋の暖簾から出てきた。


「甚さん、火事だって?」

「お亮、朱座は心配いらねぇ。結界が守ってくれる。だが勇次が……」


 甚吾郎から事情を聞いたお亮はがくがくとその場に崩れ落ちた。甚吾郎が慌てて彼女を抱きかかえる。


「大丈夫だ。竜弥が追っかけてったから。あいつがついてりゃ勇次は大丈夫だ」


 自分は朱座の惣名主家だからここを離れるわけにはいかない。甚吾郎は竜弥に命運を託し、お亮を強く抱きしめた。






「勇次、あっちだ! 東京街道から回ろう!」


 そう叫んで竜弥は川越城を指差した。烈風に煽られた炎は赤間川を越え、南町まで呑み込もうとしている。おそらく目抜き通りは大混乱で身動きが取れないだろう。

 案の定城下町は町火消しが総出で出動し、消火作業に右往左往と飛び回っていた。人々は武士町人の区別なく大きな荷物を抱え、逃げ惑う。大八車が立ち往生する中、親とはぐれた子供が泣き叫ぶ。強風吹き荒れる城下町に烈火は瞬く間に燃え広がり、人々を恐慌に陥れた。


 鳴り響く半鐘の音。混乱を極める川越の城下町。途中、勇次と竜弥は雪駄を脱ぎ捨て、岡足袋たびのまま走った。西大手門のところで西に曲がり、札の辻を目指す。だがその先は炎が迫り、進路を阻まれてしまった。

 やむ追えず二人は北上し、回り道をすることにした。北町を抜け、下町の先の橋を渡って小久保村に向かう。しかし、二人はそこで再び一旦停止を余儀なくされた。小久保村の百姓家のほとんどが業火に包まれていて、近づくことさえままならないのだ。

 だが勇次は果敢にも炎へ飛び込もうとした。


「りん! りん!」

「やめろ、勇次! 無理だ!」


 竜弥が勇次の腕を掴む。


「離せ!」


 竜弥の腕を振り解こうとする勇次の身体を、竜弥は必死で押さえ込んだ。


「危ねぇって! おめぇまで丸焼きになっちまうぞ!」

「離せよ! 離さねぇとまじぶっ殺すぞ!」


 勇次は渾身こんしんの力で竜弥を振り解こうと大暴れした。おそらく竜弥の力でなかったら勇次を抑え込むことはできなかっただろう。


「約束したんだよ! 守るって、俺がりんを守るって約束したんだ!」

「落ち着けって! 昼間の火事はほとんど死人は出ねぇ。だいたいが逃げて助かってんだ」


 その言葉でようやく勇次は力を緩めた。


「明日、お救い小屋へ探しにいこう。どこかで一晩明かしてるはずだ」


 竜弥は崩れそうになる勇次の身体をしっかりと抱え込んだ。






 明治二年一月十六日(新暦二月二十六日)。未の中刻(午後3時頃)に発生した火事は、折からの烈風にて城下町へと瞬く間に燃え広がった。出火元は小久保村の百姓・兼造宅だと伝わる。焼失したのは武家屋敷四八二軒、社寺八軒を含む町屋四二〇軒、その他多くの土蔵や物置などである。

 京都の新政府には「城内は無事、人馬とも一切怪我はなかった」と報告。実際川越城に被害はなかったが、町の再建には莫大な費用を要する。しかし、川越藩は慶応二年に棚倉藩(福島県)から転封していたため財政難にあった。転封には多額の費用が費やされるからだ。かくして城下町の復旧は困難を極めることとなる。戊辰戦争をどうにか乗り切った川越藩にとっては大打撃であった。

 後の明治二十六年の川越大火(約一三〇〇軒焼失)に比べて驚くほど資料が少ないが、明治二年の大火でも甚大な被害を出したことは記憶にとどめておきたい。






 暮れ六ツを過ぎ、日が落ちきった頃、邑咲屋に勇次と竜弥がようやく戻ってきた。

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