第二十四話 迷い

 お染と夫婦になれば人別帳に戻れる——。

 勇次がお染から告げられた話を聞いて、姉は少し驚いたようだったが、


「願ってもない話じゃないかえ?」


 と答えた。表情は硬い。やはりな、という顔で勇次は溜め息をついた。

 願ってもない話という姉の言葉もわかるが、素直に喜べない自分もいる。その理由は自分でもよくわからなかった。


「わっちに気を遣ってるならそれは無用だよ。おまえがしたいようにすればいいさ」


 お亮は、竜弥の代わりに跡取りを命じられた勇次を一人残してはいけないとの思いから身請け話を断り、好きでもない伊左衛門と夫婦になって邑咲屋に残ることを選んだのだ。そんな姉を差し置いて自分だけ人別帳に戻るということに罪悪感を持たないわけがない。だが、悩む理由はそこだけではない気がするのだ。


「うん……いや……うーん……」

「なんだい、歯切れが悪いね」


 確かに曖昧な感情に自分でも驚いている。以前の自分なら、多少割り切ってでもお染と一緒になることを選んでいたであろう。それほど人別帳に戻れるという事案は魅力的なことだった。

 そもそも人別帳に戻るというのは長年の悲願であったはずだ。それなのに何を今さら迷っているのか。


「そんなにお染が嫌いなのかえ?」

「嫌い……てか生理的に受け付けねぇ。だが問題はそこじゃねぇ気がする」


 お亮が首を傾げる。勇次も同じ方へ首を傾けた。


「お染と一緒にならねぇで人別帳に戻れる手はねぇかな……」


 そんな虫のいい話があるわけない。いや、望みが全くないわけでもなかった。


「姉ちゃんさ、去年弾左衛門が平人に引き上げられたって話、ご楼主から聞いたかい?」

「ああ、あったね、そんな話」


 だが、姉はあまり期待するなと言う。

 昨年平人に引き上げられたのは、穢多頭弾左衛門をはじめ穢多の手代六十五人。その後、全国の穢多すべてが平人に引き上げられたという話は聞かない。ましてや非人は、非人頭車善七が身分引き上げを懇願するも受け入れられず、いまだ穢多の支配から逃れられてはいない。制外者に至っては先が全く読めない状況だ。


「俺ら制外者が放免されるかどうかはわからねぇってか」

「今のところは神頼みしかないねぇ」

「やべぇ、俺、神様に嫌われてるかも」


 勇次は両手で顔を覆った。絶望感でいっぱいだ。

 決めるのは自分であって姉ではないことはわかっている。それでも決めきれない自分に苛立ちと焦りを覚え、すぐに答えが出せずにいた。






 絶望していたのはりんも同じだった。

 元旦早々、衝撃的な出来事を幾つも目の当たりにし、小さな心が追い付かない。昨夜は一睡もできずに二日の朝を迎えてしまった。


「あんした、りん? 顔色が悪ぃべ。昨日、友達と喧嘩でもしたべな?」


 昨日肩を落として帰宅した娘が今朝になっても暗い顔をしていたものだから、父はずっと案じていた。昨日の朝は爽やかな顔をしていたのに、帰ってきたら別人のように憔悴していた娘を気にしない兼造ではない。

 りんは父の気遣いに、はっと顔を上げて作り笑いをした。


「いやぁ、そんなことなかんべ。しばらく会わねぇうちにみんな大人になってて、ちっとんべぇびっくらしただけだいね」


 りんはかまどへ行き、側にあった水の張ってある桶をのぞき込んだ。昨日から自分の顔が気になって気になってしょうがない。何度見ようが水面に映るのは貧相な娘しかいないというのに。


「りん、こっちぉ」


 床に入ったまま兼造が呼ぶ。お志摩も傍に居た。改まってあんだんべ?とりんはいぶかりながら少し離れたところに正座する。兼造は仰向けになったまま口を開いた。


「明後日から名主様のとこへご奉公に上がれ。昨日、庄之助さんがわざわざ言いに来てくれたに、ありがたくお受けしといたべ」


 突然の申し入れで言葉を失うりんにお志摩も背中を押す。


「嫁入り先も世話してくれるって。花嫁修業にもなるし良かったじゃないか。上手く取り入っていい相手見つけてもらいなよ」


 嫁入り先か……と心の中で呟く。それもいいかもしれない。ほかの誰かに嫁いでしまえば、あるいは勇次のことは忘れられるかもしれない、と思った。

 胸がズキンとした。忘れたいのか? 自分に問いかける。本当は忘れたくないのではないのか。いや、忘れられないのではないか。

 そうだ、年越しの夜に重ねた唇の感触がまだ忘れられないのだ。思い出しては胸が熱くなる。あの夜のことは一生忘れはしまい。


「朝からご奉公に上がって、夕方からは水茶屋を手伝っておくれね」


 りんはお志摩の言葉に首を傾げた。


「野良仕事はいつやるのけ? そろそろ麦踏みやらなくちゃだべ。ほかにも……」

「それはもうよかんべ」


 兼造がりんの言葉を遮る。自分は動けないし、お志摩は野良仕事をする気がはなからない。りん一人で田畑を維持するのは現実的ではないということだ。


「そんなの嫌だ。土は百姓の命だ。捨てることなんかできるわけねぇべ」


 一所懸命という言葉はなにも武士だけのものではない。百姓も自分の土地を守るため必死で耕すのだ。


「嫌なら一緒に土いじりやってくれる百姓の男を捕まえることだね」


 お志摩が嘲笑あざわらう。百姓の男——。りんの脳裏にすぐさま勇次の顔が浮かんだ。彼は百姓の生まれだと言った。彼なら野良仕事にさほど抵抗はないはず。

 だが、すぐにその妄想は打ち消した。自分は氷川橋の下で、勇次と女性の会話を聞いてしまったのだ。

 新河岸川のせせらぎと参拝客の賑わいとで断片的にしか聞き取れなかったが、祝言、制外者、人別帳という印象的な言葉は耳に残っている。

 あの女性が勇次の許嫁ということはすぐに悟った。許嫁ということは、さちたちの言うところの深い関係なのだろう。

 それに加えて勇次と一緒になるには人別帳から外れ、制外者にならなければいけないということも知った。自分にその覚悟があるだろうか。父をき伏せるだけの勇気を持っているだろうか。

 ましてや、勇次を人別帳に戻すには莫大な金が必要らしい。それこそ貧しい自分には不可能な話だ。


 りんはゆっくりと頷いた。父の顔は直視できなかったが、か細く聞こえた吐息から、父を安堵させたことはわかった。

 いたたまれず、水を汲みに外へ出た。雨の匂いがする。空はまだところどころに晴れ間が残っているが、西に目を向けると遠くの方に灰色の雲が棚引いているのが微かに見えた。午後から降り出すかもしれない。雪になるほどの寒さではないから、明日は日中雨だろうか。

 少しほっとした。凍える寒さにうち震えても、首巻を貸してくれる人はもういない。伽羅の優しい香り、温かな安らぎ、包み込むような眼差し——。それらを感じることは、もうないのだ。

 初めての口づけは、苦い思い出として一生胸に刻みつけられるのだろう。






 雨雲は西からやってくる。大坂で降り続いていた雨は、やがて三河国の赤坂宿も湿らせた。


「おまん、あんばよういごくもんだで気をやったのはやっとかめだがや。武州にはこんけっこい男おるがや」


 六つに割れた腹筋を人差し指でなぞりながら、赤坂宿の飯盛女が吐息交じりの色を漏らす。竜弥は女の手首をぐっとじり上げた。


「客相手に気をやってるようじゃ赤坂もまだまだだな。ま、御油ごゆより品があるこたぁ認めてやるけどよ」


 痛い、離せと飯盛女が手を振り解く。女が離れたところで竜弥はうつ伏せになり、煙管きせるを指差した。女は慌てて布団から這い出ると、刻み煙草を雁首の灰皿に押し込んだ。竜弥が呆れ顔を枕に押し付ける。中見世以上の遊女ならば客に促されずとも気を利かせるのに、と。

 刻み煙草に火を点け、そのまま渡そうとする飯盛女。客側には吸い口を向けるんだ、と竜弥に睨まれ、またも女はわたわたした。

 竜弥は煙草を一口すすると眉をひそめた。刻み煙草を押し込み過ぎだ。少し空気を含ませるくらいが丁度良いのに、と不機嫌そうに煙をくゆらせる。鈍感な女はびるように竜弥の泣きボクロをつつこうとした。


「おまんの言葉、江戸っ子の真似だら」


 泣きボクロに触れさせる前に、竜弥の掌が女の顔面を覆い、両頬をぎゅううと掴み上げる。女は痛みよりも恐怖で声が出ない。


「真似したのは江戸の奴らだ。おめぇらの言うべらんめぇ言葉ってなぁ元々川越の職人が使ってた言葉なんだぜ。よーく覚えときな」


 徳川家康が豊臣秀吉に江戸への転封を命じられた頃、江戸は荒野と湿地帯が広がる未開の地であった。それを一大都市とするべく近郊から大工や土木関係の職人が集められた。その中にいた川越の職人が使っていた言葉を江戸の者たちがカッコイイと憧れ、真似をしたのがいわゆる「べらんめぇ言葉」につながったと云われる。

 竜弥は女から手を離し、再び煙草を燻らせた。


「ところでおめぇ、なんでこんな仕事してんだ?」

「梅之丞さまがでれけっこい男で……」


 待ってましたとばかりに女はしゃべり出した。要は旅一座の看板役者に入れ込んでいるというわけだ。

 役者は興行の間、芝居収入のほかに色子と呼ばれる枕営業で稼いだりもする。推しの役者と懇意になるためには色子として呼び出し、貢ぐのが一番手っ取り早い。が、そこは看板役者だ。すべからく安くはない玉代を稼ぐため、女は水商売にいそしんでいるのだった。


「御油より赤坂のほうが上だもんで」


 にかっと笑い、女は指で輪っかを作ってみせた。

 女が夢中で話している間に竜弥は煙草を吸い終えていた。つまんねぇ話、聞いて損した、と憮然と立ち上がり、はんを履く。女はさらしを巻くのを手伝いながら、竜弥の白い肌と引き締まった身体、それと眉目清秀な顔貌を交互に眺めてはうっとりと呟いた。


「おまんもでれけっこい男じゃんねぇ」


 言われ慣れているせいか、竜弥は微塵も反応を示さない。無表情で黙々と鮫小紋に袖を通している。

 すると、帯をキュッと締め上げたところで、どたどたと階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。その足音は徐々に近づいてくる。嫌な予感がしたと同時に、部屋の障子が勢いよく開け放たれた。


「おんし! わっちの梅之丞さまに手ぇ出したら!」


 戸口には血相を変えた一人の女が包丁を両手で握り締めて立っていた。

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