第21話
誠志郎が急に黙り込んでしまったので、瑞輝はそっと言う。
何か、気に障ることを言ってしまったのだろうか。
「どうか……しましたか?」
「いや、別に……だったら、篠原に心配かけないようにしないとな。坊やに何かあったら、篠原は脱獄でもしかねないから」
「そんなことしたら、大変なことになりませんか?」
「一大事だよ。篠原はうちの組の者だから、本部にもガサ入れ入るだろうし。何より、捕まったら刑期は確実に延びる」
それを聞くなり、瑞輝は心底驚いて、言う。
「俺、ちゃんとしますから。一人でもちゃんとゴハン食べて、ちゃんとします。だから、篠原さんには何も言わないでください」
瑞輝は必死で誠志郎に言い募る。
「わかってるよ、坊や」
誠志郎はふわりと微笑う。
こうやって微笑っていると、誠志郎はとてもではないが、関東きっての広域暴力団の総長にはとても見えない。
「篠原の耳に余計なことを吹き込むつもりなんかない。言っただろう?篠原が出て来るまでは、俺が篠原の代わりだ。坊やは何も気にせず、篠原が出てくるのを待っていればいい」
「本当に、お願いします。どうか、篠原さんには何も言わないで下さい」
脱獄。
そのワードが瑞輝には重い。
瑞輝は必死の思いで言い募る。
万が一、篠原が脱獄などしたらどうすればいいのだろう。
瑞輝は篠原に会いたい。
それは本当のことだ。
だが、それでも。
篠原に瑞輝のために脱獄などされたら、瑞輝はどうすればいいのかわからない。
瑞輝の必死の思いをちゃんと受け止めて、誠志郎は柔らかい口調で言う。
「そう思うんなら、ちゃんと食べるんだな。ほら、デザートだ。俺は甘い物は食べないから、俺の分も食べてくれ」
ちょうど仲居が運んで来た冷やしぜんざいを瑞輝が二人分食べて、それでその場はお開きになった。
マンションまで送ってもらった瑞輝は、誰もいない部屋に戻って深いため息を落とした。
一年。
瑞輝はひたすら篠原の帰りを待っていたが、今日になっても誠志郎はいつ釈放されるのかは言ってくれなかった。
まだまだその時は訪れないのだろうか。
一人でもちゃんとしなければと、そう思うのだが、どうしても篠原のことが頭をよぎる。
瑞輝はスケッチブックを開くだけは開いたのだが、結局そのまま、何も描かずにぼんやりしていた。
瑞輝はこの一年間、一日中、そんな様子だった。
時間を認識することすらできず、絵を描かなければと、スケッチブックを開きはするが、結局何も描くことができず、ただ、時間だけが過ぎていく。
そして、時折入る誠志郎の誘いがあれば食事に行く。というような日々だった。
その日も瑞輝は部屋でぼんやりしていた。
と、ドアが開く音が聞こえた気がする。
まさか。
瑞輝は立ち上がった。
いきなり。
そこに、篠原がいた。
「篠原さん!」
「瑞輝!」
瑞輝は強く、息が停まるほど強く、抱きしめられた。
「会いたかったぞ、瑞輝。会いたかった」
「良かった、篠原さん!良かった……」
「いい子にしてたか?」
「篠原さん……会いたかった、会いたかったよ……」
この一年。待って、待って、待ちわびた篠原の腕の中で、瑞輝は心情を吐露した。
腕の中の瑞輝の感触を確かめながら、篠原は言う。
「お前、やっぱ痩せてるじゃないか。ちゃんとメシ食ってなかっただろう」
腕の中の瑞輝の感触を確かめて、篠原は言った。
「そんなことより……」
「そんなことってなんだよ。ちゃんと食えって言っておいただろうが。総長にメシ食わせてもらってたんじゃないのかよ」
「なんで知ってるの?」
瑞輝は驚いた。
手紙にはそんなことは書いていないないというのに。
「知ってるぜ。この一年のことは、大概な。総長の使いが面会に来ては、お前の手紙置いてってくれたし、その時に一通りのことは差しさわりのない程度には話してくれたからな。だから総長がお前のことを気にかけて下さってたのも知ってる」
「誠志郎さんそんなこと何も言ってなかったよ。また俺だけ蚊帳の外じゃないか」
瑞輝は怒ってそう言った。
「そういうこっちゃないんだよ。お前にはこっちのルールがわかんないだろうが。だからだよ」
篠原はなだめるように言った。
「俺がこの一年、どんな気持ちでいたか、篠原さんわかってないじゃないか」
「怒んなよ、かわいいな、お前は。お前が変わってなくて一安心だ」
篠原は瑞輝にキスをする。
「あ~生き返った気分だぜ」
「篠原さん!」
「なんだ?」
篠原は瑞輝を抱きしめたまま言った。
「なんだじゃないよ!俺がどれだけ心配したか、わかってる?」
「何言ってんだ。言っただろ?俺は人生の半分は塀の中だぜ?今更ビビるかよ」
「それは聞いたけど、俺、俺が迂闊に攫われたからこんなことになったんだって、ずっと……」
「何言ってんだよ、お前は。お前のせいじゃねぇだろうが」
「でも、俺が攫われなかったら、篠原さんが刑務所に行かなきゃいけないようなことは起きなかったって、ずっとそう……」
「そんなこと考えてたのかよ、お前は」
「だって、そうじゃないか」
「他でもないお前が攫われたんだぜ?俺が助けに行かないでどうするよ。部屋に突入してよ、お前の姿見たら、頭に血が上っちまって、総長には手を出すなって言われてたのも、全部吹っ飛んじまった。気が付いたらあのバカを殴り飛ばしてたよ」
「篠原さん……」
「お前のキレイな顔に傷つけちまって、ホントに悪かった」
「そんな……」
「傷跡が残らなくくって、ホント良かったよ……」
「大丈夫だよ。篠原さん、とっさに力緩めてくれたんだろ?」
瑞輝の笑顔。
これを、どれほどに見たかったことか。
「瑞輝……」
名を呼びながら、篠原は瑞輝を抱きしめた。
何て、かわいいのだろう。
この一年。
その名前さえ口にすることすらできなかった瑞輝が今、腕の中にいる。
「会いたかったぜ、ホントに。かわいいお前に会えなかったのだけがマジで堪えたぜ」
「だって、面会に来るなって、篠原さんが……」
「ああ、当たり前だ。あんなム所なんか、カタギのお前が来るようなとこじゃねぇよ。来なくて正解だ」
「手紙、読んでくれた?」
「当たり前だろ。暗記するぐらい読んだ。総長から返事は書くなって言われてたから、返事は書かなかったけどよ。総長の使いが毎回手紙持ってきてくれて、全部読んだぜ。あんなにたくさん、書くの大変だっただろ?」
「篠原さんに比べたら、全然大変じゃないよ」
「俺だって、中で大変だったわけじゃないぜ。お前に会えないのが堪えたくらいで。大体が初めて中に入ったわけじゃねぇんだし、そもそもがヤクザなんてもんは、服役してなんぼってもんだからな」
「それは、前にも聞いたけど……でも、今度のことは俺を助けに来てくれたせいだし……」
「俺がお前を守らねぇでどうするよ。そもそもがお前が攫われたんだって、俺のせいなんだぜ?。助けに行くに決まってるだろ?」
「だって、篠原さん気をつけろって言ってたのに、俺が迂闊に……」
「何言ってやがんだよ。お前も俺も、どっちも悪かねぇだろ。悪いのはお前を攫ったバカ野郎だろうが。あいつを殺し損ねたのだけが心残りだよ」
「篠原さん!何言ってるんだよ!そんなことしてたら何年も刑務所にいなきゃいけなかったじゃないか」
「それはそうなんだけどな。ここに帰ってくる前に、オヤジと一緒に本部に顔出して、出所の挨拶してきたんだけどよ、あのバカ野郎の居所は教えてもらえなかったよ」
「それでいいんだよ。俺、今更あいつに恨みないし」
「何言ってやがるんだ、お前は!てめぇが何されたかわかってんのか!」
篠原は腕の中の瑞輝を怒鳴りつけた。
「篠原さん?」
「あのクソ野郎がお前に触ったこと思いだしたら吐き気がする。来い」
言い捨てるなり、篠塚は瑞輝を引っ張って寝室に向かう。
「ちょ、ちょっと……篠原さん?」
「ふざけてんじゃねぇぞ、お前は。あんなクソ野郎をあっさり許してんじゃねぇ。まったく、お人よしにもほどがあるぞ」
言いながら、篠原は瑞輝の服を剥いでいく。
「えっと……あの……ごめんなさい……」
そうとしか言えないほど、篠原は怒っている。
「まったくよぉ、お前のお人よしには呆れるぜ……」
深いキス。
一年ぶりの。
「瑞輝……瑞輝……」
「篠原さん……」
一年ぶりの、篠原の熱い愛情を受けて、瑞輝は心が満たされていくのを感じていた。
会いたかった。
本当に、会いたかった。
ゆっくりと、愛が満たされていく。
コトが終わって、篠原はサイドテーブルからタバコを取り出し、片手には瑞輝を抱いたままだったので、少し不自由そうではあったが、火を点けて深く吸い込む。
「タバコも、一年ぶりだよ」
「ゴハンもおいしくないんだよね?」
「ああ……食えたもんじゃないぜ。食ったけどもよ」
篠原は凄絶な笑みを浮かべる。
「もうちょっとしたら、メシに行こうぜ。お前とどこにメシ食いに行くかとかさ、そんなことばっか考えてたよ」
「俺もだよ。誠志郎さんはすごく良くしてくれたけど、やっぱり、よく知らない人じゃない?篠原さんとだったら、もっと楽しいのになぁって……誠志郎さんには失礼だとは思うけど、ずっとそんなこと考えてた」
「そっかぁ……怖いことはされなかったんだろ?」
「全然そんなことなかったよ。すごく気遣ってもらった」
「お前、人慣れしないネコみたいな奴だからよ。俺としゃべるようになったのだって、ここに来てずいぶん経ってからだったじゃねぇか」
「俺、人見知りなんだよ」
「知ってる。ずっとよくわからん奴だなぁって思ってた。その割に、一向に出ていく様子はないし……妙な奴だなぁって思ってた」
「俺、そんなに変かなぁ?」
「それが悪いって言ってんじゃねぇぞ。だけどよ、普通、ヤクザの家に居座るか?ど素人さんがよ」
「だって……行くとこなかったし……ヤバくなったら出ていけばいいかなぁって」
「お前はおかしな奴だよ。お前は、他のどんな人間とも違う。俺は、お前みたいな奴は見たことがない」
「そうかなぁ……俺、すごく普通の人間だと思うんだけど……」
「普通の人間がヤクザの家に何年も居座るかよ。怖いもの知らずと言うか、何て言うか……普通、運び込まれた先がヤクザのヤサだとわかった時点で、とっとと逃げ出してるぜ。それをお前はさ、ずっとここにいるんだからなぁ」
人はみな、自分を基準にして物事を考える。
変わった奴だと言われても、瑞輝は自分が他人とどこが違うのかがわからない。
「俺にしろ、総長にしろ、まっ黒黒のヤクザじゃねぇか。不思議なのはそんな人間と接してるのによ、未だに真っすぐにでキレイなままでよ」
「そう……なのかなぁ……俺、篠原さんも誠志郎さんも、俺には何も怖いことしないし……」
「俺らは硬派のヤクザだからな。素人さんには手出し厳禁が組の原則だ。最近のヤクザは怖ぇよ。平気で素人さん巻き込むしよ。お前がそっちの連中にペンキかけてたら、今頃殺されてるか、売り飛ばされてるかだな」
篠原のその言葉に、瑞輝は怯えるかと思いきや、ふわりと、それはそれはキレイな笑顔を浮かべた。
「篠原さんも、誠志郎さんも、そんなことはしないよ。俺はぼんやりしてるかもしれないけど、それくらいはわかるよ。俺は、篠原さんくらい優しい人に会ったことがない」
瑞輝の言葉に篠原は胸が熱くなる。
瑞輝のことがかわいくて仕方がない。
篠原は瑞輝にキスをして、抱きしめる。
「かわいい奴だなぁ、お前は」
「篠原さん……」
篠原は何度も何度も、繰り返し瑞輝にキスをする。
「ねぇ、篠原さん。お腹空いてない?」
「そうだなぁ……」
「……ね?何食べたい?」
「色々あるけどなぁ……やっぱり、お前と最初に食いに行った中華かなぁ……」
「俺も、あの店好きだよ。おいしいし、それに、篠原さんと最初に行った店だからね。俺も思い入れあるよ」
「かわいいこと言うなぁ、お前は」
篠原は瑞輝の髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「何すんだよ」
「お前がかわいいこと言うからだ。全部、お前のせいだ」
篠原はタバコを持っていない方の手で、軽く瑞輝の額を弾いた。
篠原は変わらない。
一年の服役を経ても、まったく変わっていなかった。瑞輝はシャツを身に着けたままの篠原の胸に頭を乗せた。
空いた手で、篠原がそっと髪を撫でてくれる。
体の中が何か暖かいものに満たされていく。
言ってしまっても、いいだろうか……瑞輝が、この一年の間に膨らませてきた一年の気持ちを。
「……篠原さん……」
「何だ?どうした?」
「えっと……さ……」
「何だよ、歯切れ悪いな。らしくねぇぞ」
「うん……あのさ、俺……俺、ね……」
瑞輝が口ごもると篠原は身を起こした。つられて瑞輝も身を起こす。
「何なんだよ、さっきから。お前らしくもねぇな。そんなに言いにくいことなのかよ」
篠原に問われて、瑞輝は下を向いてしまう。それを見た篠原はなんだかイヤな気分になってきた。
瑞輝は、もしかするとまたここを出ていくという話をしようとしているのだろうか。
「まさか、お前。また……ここ出ていくとか言い出すんじゃねぇだろうな……」
「ち、違うよ。そんなんじゃない。篠原さんが出ていけって言わないなら、ずっとここにいたいよ」
「俺がそんなこと、言うわけねぇだろが」
「ありがとう、篠原さん」
「だったら、何なんだよ、お前は。いったい何が言いたいんだ」
「ちょっと、待って。ちゃんと言うから……俺……俺ね、一年間ずっとここで篠原さんが帰ってくるのを待ってて……ずっと、会いたくて会いたくて、仕方がなかったんだよ」
「ああ、俺もお前に会いたかったぜ。この一年、辛かったのはお前に会えないこと、それだけだ」
「篠原さん……」
「お前、世間知らずだからさ、何か変なことに巻き込まれてないかとか、心配してたんだぞ。まぁ、オヤジも総長もお前を気にかけてくれてたから、まあ、安心はしてたけどよ。お前はちゃんとした奴だってわかっちゃいるけど、それとは別に、お前ってどっか危なっかしいんだよな。放っとけねぇって言うか」
「ごめんね、心配かけちゃって……」
「気にすんな。俺が勝手に心配してただけだ。お前はちゃんとした奴だ。俺みたいなヤクザに心配かけるようなことに巻き込まれやしねぇよ。本来ならな」
篠原は瑞輝の小さな顔を両手で包み込んでキスをする。
「かわいいな、ホントに。こうしてお前にキスできるだけでも、ホントにシャバっていいよな」
「篠原さん……」
「せっかくこうやって会えたのによ、お前、いったいどうしたんだ?」
「俺……俺ね、ずっと篠原さんに会いたくて仕方なかったんだ。それで、なんでこんなに会いたいんだろって、ずっと考えてて……それで、思ったんだ。俺、篠原さんのこと、好きなんだよ」
瑞輝の、この、思ってもいなかった言葉を聞いて篠原は硬直した。
まさか……
瑞輝は今、なんと言った?
「俺ね……篠原さんが好きなんだ」
瑞輝は、何を言っている?
篠原は、瑞輝の本心を受け止めかねて、混乱していた。
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