第3話

 篠原と瑞輝は内情はともかく、表面上は不干渉で通してきた。

 ライフサイクルもまったく違ったし、ほとんど口をきくことなく過ごしてきたのだ。

 幸いなことに、油絵の具の独特な臭いに対しても篠原は特に拒絶反応を示すことなかったし、次第に増えていく瑞輝の作品に対しても特に何とも思わずにいた。

 篠原自体、特に芸術と言われるような分野にとんと造形は深くはなかったし、瑞輝と出会うまで絵画になど一切興味がなかった。

 ある日、篠原はイーゼルにキャンバスが据えられ、瑞輝がソファーで眠ってる日にそれを見ることもなく見たことがあった。

 淡い色彩で描かれた、月。

 それに何とはなく魅かれて近づき、近くでまじまじと見つめた。

 正直、きれいだな、と思った。

 月と、この部屋からみえる東京タワー。

 よく見ると、下の方に淡くビルの影が描かれている。

 こういった絵を描くんだな、と思った。

 絵の良し悪しはわからなかったが、抑えた色彩も、淡い線も、その絵はいかにも透明感のある瑞輝らしかったし、ソファーで静かに眠っている瑞輝を横目で見ながら、篠原は心の奥底でこの静かな時間がずっと続けばいいのに、と彼は彼らしくもなく、そんなことを考えることもなく考えていた。 

 実際、瑞輝がリビングのソファーで寝起きをしていた秋頃まで、ほとんど顔を合わすこともなかったのだ。

 いつものように明け方に戻った篠原は、リビングのソファーで苦しそうに咳き込む瑞輝を見ても、一瞬いつものように不干渉を決めこんだのだ。

 しかし。キッチンで水を飲み、寝室に行こうとしたが、あまりに苦しそうな咳だったので、つい、声をかけてしまった。

 「どうした?大丈夫か?」

 「お、かえりなさい……」

 「おかえりはいいんだけどな。風邪か?」

 「みたい……せきが……と、まんなく、って……」

 「熱は?」

 「わかんないけ、ど……ない、と、おもう……」

 苦しそうな瑞輝の言葉など、篠原は頭から信じていなかった。手を伸ばして額に触れてみる、と、かなり熱い。

 「めちゃくちゃ熱あるんじゃないか!バカ野郎!って、怒鳴ってる場合じゃないな……動けるか?ベッド行けるか?」

 「でも……」

 「動けないのか?」

 「し、のはらさんの、ベッド……とるわけに、いかな、い……」

 瑞輝は苦しそうに咳込みながらも、篠原が瑞輝らしいと思ってしまう、遠慮がちなことを言った。

 「そんな場合かよ。第一俺のベッドがでかいのは知ってるだろ?最初の晩、寝かせてやっただろうが。さ、来い」

 ふらつく瑞輝を支えて、篠原は寝室に向かった。瑞輝をベッドに寝かせると、篠原はリビングから電話をかける。

 「風邪の時にいるもん買ってこい。急げよ」

 近くにいる舎弟に命じると篠原は寝室に戻った。

 「着替えた方がいいな……替えは?」

 瑞輝がかぶりをふるので、篠原はクローゼットから自分のパジャマを取り出して着替えさせた。

 「それやるよ。今若いのに言って薬とか買いに行かせたからな。なんか食って薬飲んで、寝ろ。明日医者呼んでやるから……」

 「そ、んなめいわく、か、けられないよ……」

 「病気のときにそんなこと考えてんじゃねえよ。ゆっくり養生しな」

 「……ありがとう……」

 思えば、この頃からだった。

 篠原がそれまでただ『いる』だけだった瑞輝の存在を意識し始めたのは。

 しかし、これは篠原だけのことで、篠原には瑞輝が『ここ』にいる理由がまったくわからなかった。

 それでも、瑞輝はここにいたし、ライフサイクルはまったく違っていたが、明け方に既に眠っている瑞輝の隣に滑り込み、温まった寝床の優しい感触をかみ締めて眠りにつき、目を覚ましてリビングに行くと既に目覚めている瑞輝がふと気配に気づいて顔を上げ、淡く微笑んで「おはよう」と言う。

 それにひとこと挨拶を返して。

 それ以外は会話らしい会話がなくても、毎日瑞輝はそこにいたし、以前と比べるとどこがどうと言うほど明確ではなくても、瑞輝の方もどこかが変化しているのは明らかだった。

 透明。

 篠原から見れば瑞輝はそう言った存在だった。

 ヤクザという、どっぷりとドロ水に浸かりきった篠原からみれば、瑞輝はあまりにも透明で、穢れていなかった。

 『これ』に魅かれてしまえば『ヤクザ』の自分は終わりだと、それも分かっていた。

 わかっていたのに。

 それでも、とうとう篠原は瑞輝につかまってしまった。

 柔らかく。

 無垢な、瑞輝に。

 篠原は柔らかく、無垢な、瑞輝をそっと抱き寄せ、その体に唇を埋めていった。

 きっと、消えうせている。

 そう信じて疑わなかった瑞輝がここにまだいて、抱きしめることができる。

 それでもう十分だ。

 柔らかな、シミ一つないきれいな体を、今度は篠原はそっと、これ以上は優しく出来ないほどに優しく、口付けて丁寧な愛撫を加えていった。

 瑞輝は、目を閉じて素直にその愛撫に応えていた。

 少なくとも篠原には、そう見えた。

 それで、もう、十分だった。

 「瑞輝……」

 「ん?」

 「体、大丈夫か?」

 問われて、瑞輝はくすくす笑った。

 「そればっかりだね、篠原さんは」

 「いや、しかし……」

 「大丈夫だよ。前の時は……本当言うと、ちょっと、本当の本当は、結構辛かった。驚いたって言うか、心構えなかったし。でも、今度は……大丈夫。平気だよ。そっとしてくれたんでしょ?」

 「それはそうだが……やっぱ、最初の時は、キツかったか?」

 「だって」

 瑞輝は微笑う。

 「いきなりだったし、ねぇ」

 「……すまん」

 真正直に謝られて、瑞輝はまたくすくす笑った。

 その、可愛らしさときたら。

 「お前。笑うとやっぱ、かわいいのな」

 「え?」

 「イヤ。マジで」

 からかっているのかと思ったが、篠原の表情はひどくまじめで。

 「お前が笑ったのって、初めて見た気がするな」

 まじめに、そしてひどく嬉しそうに、篠原は言う。そんな事を言われてしまうと、瑞輝としては浮かんだ笑顔を無意識に引っ込めざるを得なかった。

 表情のこわばってしまった瑞輝を見て、篠原は微笑う。

 「いっつも、その顔だもんな」

 髪にふわりと口付けて、篠原は瑞輝を抱きしめた。こうしてしまえば、瑞輝がどんな表情を浮かべていても、分からない。

 「お前。女、知らんのだろう?」

 「……うん」

 「やっぱりな。いきなりが男か。キッツイよなぁ」

 自分がしでかしておいてのこの言葉。

 しかし瑞輝はそれが逆に篠原らしくて、やっぱり笑ってしまった。

 「イヤじゃないって言ったの、ホントなんだなぁ」

 瑞輝の笑みを受けて篠原はしみじみとつぶやいた。

 「俺な。正直言って、お前がここにまだいるって、かけらも思ってなかった。だって、お前がどっか出て行ったって、俺には探しようもないんだし。あんな目に合わされて、お前がここにまだいるなんて、思えなかった」

 あの時は俺も相当酔っていたし、と篠原は続けた。

 「お前がいるの見て、目を疑ったぜ、マジで」

 言葉の羅列。

 篠原が紡ぐ言葉が瑞輝の耳にただの音の羅列にしか聞こえなくなり、いつしか瑞輝はゆったりとした眠りの翼に包まれていた。

 「……寝たのか?」

 目を閉じて、安らいだ表情で静かに眠る瑞輝を腕の中に見つけた篠原は苦笑した。

 「この、篠原さんの一世一代の告白を子守唄にするなんざ、お前くらいだぜ、瑞輝。でもなぁ……どうやら俺は、お前のそういうとこに惚れちまったらしい。おかしいよな。篠原さんが、恋だとさ。それも、こんなガキに。第一、男じゃねぇかよ。妙なもんだよなぁ。いくらキレイな顔だからってさ。おい。俺がな。この結論出すまでどれだけ悩んだかお前、知らんだろう。にこりともせずに俺の気持ちかっさらっちまうんだからな。この、悪魔め」

 言って、瑞輝の形の良い鼻をちょんと突く。

 瑞輝は、完全に寝入っているのか、小さくうぅんともらしただけで、篠原に擦り寄るように顔を埋めてしまった。

 「とうとう、俺も年貢の納め時ってやつか?悪魔に魅入られたんだからな」

 甘い言葉も、微笑みもない。

 そんなものは数え切れないほど接してきた女達で十分に経験済だ。

 媚も、脅えもない。ただまっすぐに篠原を見返してくる無垢な瞳。

 それが新鮮で。

 そして。

 気付いた時には恋に落ちていた。

 手元に残ってくれたこと。それだけで十分だ。

 愛されようとは思わないし、この恋心を瑞輝に伝えようとさえ思わない。

 逆にもし瑞輝が篠原に恋をしたら。

 きっと、篠原にとっての瑞輝は無価値になる。

 このとき篠原は確かにそう思っていた。

 篠原修二という32歳のヤクザの、これが初恋だなどとは、誰にも、当の相手にであってさえも、告げることなどできない。そんな思いだった。


 瑞輝が目を覚ました時。陽はすでに高かった。ベッドには瑞輝一人で、隣に誰かがいた温もりはすでになかった。

 ベッドを降り、脱ぎ捨ててあったパジャマ……これも実は篠原のものなので、瑞輝にはかなり大きい……を着てリビングに向かう。

 すると、そこには既にスーツ姿の篠原がいた。

 「よう。目、醒めたか」

 「……おはよ」

 「ああ。腹減ったろ?メシ食いに行くぞ。着替えてこい」

 篠原は徹底的に外食らしい。

 瑞輝が転がり込んだ当時は本当に冷蔵庫の中にはビール以外何もなかった。今では瑞輝がコンビニで弁当を買って食べたりするのでちょっとした調味料や小さな鍋くらいはあるが、基本的に食材はない。

 「何食いたい?」

 「お腹は減ってるんだけど……食欲ない」

 瑞輝はポツリ言う。

 体調が悪いのかと、篠原は慌てた。

 「食欲ないって……調子悪いのか?」

 「あ……ううん……」

 慌てた様子の篠原の言葉に、瑞輝は彼自身も慌てて言う。

 「大丈夫だよ」

 「そうか。だったらいいんだけどもよ……でも、ちょっとはなんか腹に入れた方がいいぜ。そうだな……」

 篠原はふっと時計を見やった。

 「この時間なら、もう開いてるな。中華食いに行こうか」

 そんなヘビーなもの!

 瑞輝が異を唱えるより先に篠原は言う。

 「中華粥」

 「え?お粥?」

 「ああ。美味くて、消化もいいんだ。俺は二日酔いの昼はこれに決めてる。酒の肴もあるし、ちょうどいいだろ?」

 何がどうちょうどいいのかは分からない。しかし篠原に食事に誘われるなど初めてのことで、でもその勝手さが妙に篠原らしくて、瑞輝はまた笑ってしまった。

 篠原の身勝手さは、どういう訳か瑞輝を怒らせるどころか、つい笑いを誘ってしまうらしい。

 クスクス笑う、瑞輝のかわいらしさに内心たじろぎながら、篠原は平静を装って言う。

 「ほら、着替えてこいよ」

 言われるまま、瑞輝は寝室に取って返してクローゼットを開けた。

 着の身着のままで篠原の元に転がり込んだ瑞輝に替えの服などあるはずもなく、数少ない瑞輝の衣装は見かねた篠原が買い与えたものであった。

 シャツとジーンズ。それにダッフルコートを羽織って、準備OK。

 篠原は、趣味が良い。

 買い与えられた衣服はどれも瑞輝によく似合っていたし、サイズも申し分なかった。

 しかし、当の瑞輝は着る物に頓着しなかったし、サイズが違う篠原の物を着ていても気にしなかった。

 篠原にしてみれば、報われないこと、この上なかった。


 「おいし……」

 篠原お勧めの中華粥を一口食べて、瑞輝が言った。

 「だろう?」

 そう言いながら、篠原は中華粥を食べるわけでもなく、ビールを飲んでいる。

 「これ、何?レタスと……この茶色いの」

 「ホタテの干したやつ。それを戻したやつだよ。うまいだろ?」

 「うん。おいしい」

 瑞輝が笑顔で応える。

 かわいいなぁ……と、篠原は内心そう思いながら、表面上は落ち着いて言う。

 「それで腹が落ち着いたら、何か他のも食っていいぞ。今の時間は点心ぐらいだが、ここはうまいぞ」

 あまり大きくはない店。

 しかし篠原は常連らしく、店主がわざわざ挨拶にやってきていた。

 「それ、何?」

 ビールを片手に何かをつまんでいる篠原を見て、瑞輝が言った。

 「えびシュウマイ。食うか?」

 「うん」

 皿を差し出すと、瑞輝はひとつ取って口に運ぶ。

 「おいしい」

 「気に入ったか?」

 「うん。すごくおいしい」

 瑞輝が笑う。

 頼むから、無防備にそんな最終兵器を繰り出してくれるなよ……と、篠原は内心思った。

 無表情の時とここまで変わるかというほどに、印象が一変する。そのくらくらするような笑顔に篠原は内心たじろぎながら、必死で平静を装って言う。

 「夜はメニューが増えるんだ。また、夜にも連れてきてやるよ」

 「……でも、篠原さんって、夜は忙しいでしょう?」

 「お前にメシ食わすくらいの時間はあるさ」

 「って、言うか……」

 「何だ?」

 「篠原さんは、彼女がいるんでしょ?夜はデートの時間じゃん?彼女を誘わなきゃいけないだろ?」

 どかんと、突然のピンポイント爆撃。

 箸を置いて軽く見上げてくる瑞輝の表情からは意図がつかめない。

 しかし篠原も駆け引きについては百戦錬磨だ。心の動揺は隠してあえてさらりと応じてみる。

 「『彼女』はいねぇなぁ……女はいるけどよ」

 「どう違うの?」

 「彼女ってのは、要するに恋人って奴だろ?俺のシノギは女だから、女はいる。だがなぁ、それを彼女とは呼ばんだろ」

 「シノギって?」

 瑞輝は専門用語にきょとんとして訊ねる。

 「稼ぎのことだなぁ……俺はヤクザだぜ?稼がにゃならん。女コマして稼がせて……なんぼの世界だからな。俺はクスリはサバかんし、ヤバ気な仕事にも手は出さん。俺は女で食ってんだよ」

 「ジゴロってやつ?」

 「お前のセリフとも思えんな。よくそんな言葉知ってるもんだ」

 「知ってるよ、それくらい……」

 「中身、知らんだろが」

 一言で篠原は切って捨てた。

「それに、俺の場合ってのはジゴロとは言

わねぇな。俺みたいなのは、女衒って言うんだよ」

 「どう、違うの?」

 素直に、瑞輝は問う。

 「どうって……説明するのは難しいな。ただ、女衒の方がタチが悪い」

 「そうなんだ……」

 「そうなんだよ。お前にゃ分かんねぇだろうけどな。しかしなぁ……考えてみりゃ、こうしてお前とゆっくり話しすんの、初めてだな」

 「そういえば、そうだね」

 篠原がさりげなく、全く違う話にすり替えたのに瑞輝は気づかなかった。言われてみれば、確かにそうだな、とまんまと篠原の誘導に乗ってしまう。

 普段のライフサイクルがあまりにも違っていて、こうして二人で食事をすること自体が初めてだった。

 篠原はいつも徹底的に外食で、マンションで口にするのは水かビールくらいだ。

 一方で瑞輝はコンビニ弁当が主食だ。

 食事に誘われたのも初めてならば、二人で同じテーブルに着くこと自体も初めてのことだった。

 瑞輝には隠してはいるが、彼に惚れている篠原は、目の前の瑞輝を独り占めしながら、幸せに浸っていた。

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