月の雫

常盤 陽伽吏

第1話

 その日、篠原は珍しくかなり酔って帰ってきた。両脇を佐賀だの田村だのというらしい舎弟たちに抱えられ、足元もおぼつかない様子で戻って来たのだ。

 時間は深夜。2時を少し回ったところ。

 篠原にしては珍しく早い時間の帰還ということになるが、リビングにいた瑞輝にとってはそれがどうしたといった感じでしかない。

 だから、瑞輝は例によって出迎えもせず、チラリと視線を上げただけだった。

 その瑞輝の視線は舎弟たちの視線と一瞬ぶつかるが、しかし彼らは何も言わず、ことさらに瑞輝の存在を無視するが、瑞輝の方としても彼らに構われる気など毛頭ないので、気にもならなかった。

 「兄貴。しっかりして下さいよ」

 「大丈夫っすか?」

 舎弟たちに支えられるようにして、篠原が寝室に消えるのを瑞輝は半ば以上呆れて見ていた。

 まったく、ヤクザの世界と言うのは分からない。上下の関係がとてつもなく厳しいかと思えば、それでいてあっさり造反する者もいるらしい。要するに、力社会なのだろうが、その力というのが瑞輝には理解しがたい暴力と金。そして人脈という数の力。

 篠原という男はそれらのすべてを持っているらしく、彼の属する組織のナンバー2の座にいるらしい。

 らしいというのが、そもそも、その篠原と瑞輝とは縁もゆかりもない赤の他人だ。瑞輝は篠原のマンションに寝起きしているが、もちろん、ヤクザではない。

 一緒に暮らしているのではなく、と言って拉致監禁されているというわけでもない。拾われた捨て猫がなんとなく居着いてしまったように、ただ、ここにいるだけ。特にかまうでもなくかまわれるでもなく、まともに口をきいたことすら数える程しかない。そんな自分自身にでも何故こうなったのかよくわからない暮らしが始まってもう半年近くにもなるだろうか。

 篠原が寝室に消え、舎弟たちが部屋を出て行って静けさの戻ったリビングで、再びスケッチブックに目を落とした瑞輝が自分の世界に埋没する一瞬前、寝室からの呼び声が彼を現実世界に舞い戻らせた。

 「瑞輝ぃ。水、持ってきてくれよ」

 「水?」

 篠原が瑞輝に何かを頼むのは、珍しい。いつもはほとんどその存在を無視しているのが常だった。それもそうだろう。ただそこにいるだけの、捨て猫に等しい者に何かの見返りを求める者などいないのだから。

 しかし珍しいなとは思いつつ、酔っ払いを相手にしていても仕方がないので瑞輝はミネラルウオーターのボトルを取り出し、グラスに注いで寝室に運んだ。

 「はい。水」

 「ああ」

 篠原はグラスを一気に飲み干すと、その高そうなグラスをいきなり瑞輝に放って寄越した。

 床は、フローリング。

 瑞輝が慌てて駆け寄って、やっとのことでグラスを手に受けたのでグラスは割れずに済んだ。

 「ちょっと、何する……」

 言葉は、最後まで発せられなかった。

 とっさにグラスを掴んだ瑞輝の右手首は篠原の左手に強く掴まれて、篠原の、空いた右腕に瑞輝の小さな顔を抱え込むように引き寄せられて。

 瑞輝が我に返った時には、酒とタバコの味がする篠原に深いキスをされていた。

 「ん……んんっ」

 我に返った瑞輝の抵抗など物ともせず、篠原は唇を重ねたまま、手早く、いっそ見事なほどに手早く、瑞輝の衣服を剥いでいく。

 大き目の、篠原の物なのだから当然だが、大き目のTシャツがあっと思うまもなく脱がされ、また唇が塞がれる。あらわになった胸の突起を痛いぐらいになぶられ、その手が下腹部に及んだ時、篠原の頭を押しのけて瑞輝は叫んだ。

 「いったい何のつもりだよ!」

 「セックスするんだよ。知らないのか?」

 「俺、男だぜ?!」

 「そうか。じゃあ確かめてみるか」

 言うなり。篠原は瑞輝のパンツを下着ごと剥ぎ取った。

 「確かに男だな。ちゃんと付いてる」

 からかうような口調。

 「篠原さん!」

 「形はいいが、さて、ホントに男かな?」

 腰をがっちりと押さえられた瑞輝が抵抗する暇もなく、篠原は瑞輝の中心を口に含んだ。

 初めての経験。

 体の中心から湧き出る強烈な波が瑞輝をさらった。

 「あ……あぁっ」

 悲鳴なのか快感なのか、瑞輝にはもう自分でも分からなくなっていた。もともと性欲が強いほうではなく、自分ですることもめったにないのだ。そこをゆっくりと弄られ、味わったことのない浮遊感にさらわれる。

 反応しているのが自分でも分かった。しかし篠原が瑞輝のその反応を楽しんでいることにまで気が回らない。

 口の中で転がし、舌を這わせては反応を待つ。今、瑞輝は篠原の思うままだった。

 「あ……んっ」

 思わず、声がもれる。篠原の技巧はたくみだった。

 「どうだ?いいか?」

 「ん……」

 「そうか。もうイキそうか?」

 「う……ん……」

 「いいぜ、イケよ」

 言って、篠原は瑞輝自身を締め上げた。とたん。篠原の口中に苦いものがほとばしった。篠原はそれを余すことなく飲み干した。

 「な……なんで……なんでそんなことできるんだよ!」

 「さてな……」

 篠原は口の端からこぼれたものを手の甲でぬぐいながら言った。

 「……だが、これで終わりじゃないぜ」

 言って、篠原は性質の悪い笑みを浮かべた。

 瑞輝は一瞬、逃れようとした。が、篠原はそれを許さなかった。

 嵐のような時間を、瑞輝はただ意識もせぬまま、喉が涸れるほどの悲鳴をただ上げ続けていた。


 「……寝ちまったなあ……」

 どの位の時間が過ぎたのか。

 嵐にのまれた小舟のようにただ波に翻弄され続けた瑞輝が、ようやく事が終わったのだと自覚して、細い息を吐いた途端。篠原がそう言った。

 「まさか、お前と寝る日が来るとは、思ってもいなかったぜ」

 こんなことになるなどと、思ってもいなかったのは瑞輝の方だ。

 体中痛くないところはないと言ってもいいくらいだったし、とても、『寝る』などという表現が許されるような状況ではなかった気がするが、ぽつりと落とした篠原のこの言葉に瑞輝はあえて反論をしなかった。

 口を開くのも億劫なくらい疲れきっていたし、第一、そんなことに反論してどうなるのかと思ったというのが本音だった。

 『寝る』と言おうと『犯す』と言おうと、その行為が行われたことに変わりはない。

 「……体、大丈夫か?」

 問われたが、瑞輝には返事のしようがなかった。痛いと言えば、体中のどこもかしこも痛い。特に篠原の猛るモノを受け入れさせられた箇所は焼け付くように痛む。口を開くどころか、瞬きさえも億劫なほどに体は辛いのだ。

 「瑞輝?」

 「……平気」

 しかし瑞輝はあえてそう応じた。

 問い掛ける篠原の声音があまりに気遣わし気で、苦しいとか辛いとか、言ってしまったら彼をひどく傷つけてしまう気がしたからだった。

 おかしな話だとぼんやりと思った。傷つけられ、苦しめられたのは瑞輝の方なのに……

 「べつに、自慢こいてるわけじゃないんだが……ほんとに大丈夫なのか?」

 「平気だって……」

 「……怒ってんのか?」

 問われて。

 瑞輝は考えを巡らせるより先に笑ってしまった。

 怒っていないとでも思っているのだろうか。

 いや。実は瑞輝は怒ってはいない。しかし篠原の怒っていないはずがないと言わんばかりの口調につい、笑ってしまったのだ。

 「おいっ!」

 「ごめん。でも、俺、別に怒ってなんかいないよ」

 「ホントか?」

 「ホント。ね。タバコ、くれない?」

 「タバコ?お前タバコなんか吸うのかよ」

 そう言いながらも篠原は、サイドボードに置いたラッキーストライクのパッケージから一本を取り出すと、自分で火を点け、一服深く吸って瑞輝の唇に咥えさせた。

 瑞輝はゆっくりと煙を吸い込んだ。

 本当に久しぶりだったので、煙にむせて、咳き込んでしまう。

 「大丈夫か」

 「……だいじょう、ぶ……」

 篠原が背中をなでてくれる。その手が暖かい。

 「無理すんなよ……お前にタバコは似合わねえよ」

 瑞輝の手からひょいと取り上げたタバコを篠原がうまそうに吸い、吸殻を灰皿で押しつぶすのを瑞輝はぼんやりと眺めていた。

 「……のど、渇いてないか?」

 「え?」

 「待ってろ」

 言って、篠原はさっさと身支度を整えて、寝室を出て行った。

 同居を始めて半年になるというのに、瑞輝は篠原が裸でいるところを見たことがない。そういうだらしがないことが嫌いなのだろうと勝手に思っていたが、そういえば行為の真っ最中でもシャツを着たままだというのはどういうことなのだろう。

 しばらくして戻った篠原は、グラスとミネラルウオーターのボトルを持っていた。

 「ほら」

 「……ありがと……」

 受け取るために体を起こそうとしたが、うまくいかない。と見ると篠原がすかさず手を貸してくれた。

 「……篠原さんって、マメなんだね……」

 「まあ、下っ端からの叩き上げだからな。若い内は上の人間の小間使いみたいなもんだからよ」

 「そう……」

 水を飲み干して、もう一杯飲むかとの問いにかぶりを振って、瑞輝は深いため息の後にこう言った。

 「……篠原さん、ゲイだったんだね」

 「バカぬかせ。俺は……」

 「じゃあ、さっきのはどういうこと?」

 素朴な疑問。

 男が同じ男を性欲の対象にする。それがゲイというのではないのだろうか。

 「俺、女じゃないよ?」

 「分かってる。そんなことは」

 それはそうだろう。

 やせっぽちで、筋肉などどこにあるのか分からないような体型だが、それでもこうして肌を曝していれば、瑞輝の性別など一目瞭然だった。

 篠原はベッドに腰を下ろし、瑞輝の小さな顔をのぞきこんだ。

 小さくて、きれいな顔だ。

 かと言って女っぽいところはまったくない。ただただ造作がきれいで、表情がないこともあってどこか人形のようで。

 それでも。

 瑞輝は間違いなく男なのだ。

 篠原はため息をついた。

 「俺は、男を抱いたのはお前が初めてだ」

 吐き捨てる口調で篠原は言った。

 「俺は年少から数えりゃ人生の半分は塀の中で暮らしてんだ。それでも、一度もなかったんだぞ」

 「なんか……篠原さん、怒ってる?」

 「怒ってねぇよ」

 口では怒っていないと言いながら、しかし篠原のその態度や発せられる雰囲気からは怒りや戸惑いしか感じとられなかった。

 「もう、寝ろ」

 言って、篠原は立ち上がった。

 「体、えらいんだろ?横になってな」

 「篠原さん?」

 問いかけると篠原は瑞輝の髪をそっとなで、それきり振り返ることなく寝室を出て行ってしまった。

 それを追う気力も体力もない瑞輝はぼんやりとその後姿を見送った。

 瑞輝には分かるはずもなかったが、篠原は酔いに任せて瑞輝を抱いて、その酔いが醒めた今、心底混乱していたのだ。

 後悔は、ない。

 それでも、たった今さっき。女のところから戻ったばかりなのに、何故、いくらキレイな顔をしているからとは言え、同じ男であることが間違いない瑞輝を犯すように抱いてしまったのだろうかという疑問はあった。

 事が終わった後の瑞輝の反応も、篠原の想像とは大きくずれていたことも篠原をなおさら混乱させた。拒絶でも許容でもない。

 無反応。

 拒絶ならまだいい。

 瑞輝は篠原をまったく相手にしていないのだろうか。そうとしか思えなかった。

 篠原は暗いリビングで深い溜め息を落とした。ソファーに開いたままのスケッチブックが置かれていた。

 瑞輝のものだ。

 身の回りのものなどほとんど持たない瑞輝だが、絵を描く道具だけはふんだんに持っている。広いリビングの片隅には布を被せたキャンバスまで置かれていて、そこだけを見るとここが自分の部屋ではないような、奇妙な錯覚に陥る篠原は苦笑を浮かべた。

 苦笑を浮かべて、そしてそのまま自嘲の笑みに変わる。

 分かってしまった。

 篠原は、あの小さな少年に恋してしまったのだ。

 自覚した、そのとたんに終わってしまった恋。

 この片恋こそは、絶望的だ。

 気づかなければ良かったのに。それでも、篠原はこの片恋に気づいてしまった。

 気づいてしまって、そして、同時にそれが報われないことに気づいてしまった恋。

 瑞輝は決して篠原に心を奪われることなどないだろう。

 永遠の片恋。

 ましてや篠原はその恋する相手を無理矢理に犯したのだ。

 手に入れるどころか、ここを出て行ってしまうのではないかと芽生えた疑問は、やがて確信に変わった。

 変わったとたん。

 篠原はその場から逃げ出した。

 彼は荷物をまとめて出て行く瑞輝の姿など見たくはなかった。

 みっともなくも引き止めてしまう自分など、考えただけで寒気がしたのだった。

 瑞輝が、どこか、彼の知らない、探しようもない瑞輝自身の世界に帰ってしまうのならもう仕方がない。

 だから、篠原は自分のマンションに帰れなかった。瑞輝がいても、いなくても。

 万が一にも瑞輝がそこにいれば、篠原は自分を抑えることなどできそうもなかったし、どうしよもないほどにみっともなく、縋りついてしまいそうで。

 何一つとして怖いものなどない篠原が、怖くて、怖くて。

 一人でいることが、そのことそのものが怖くて、ずっと女の元にいた篠原がマンションに戻ったのは一週間もすぎた頃だった。

 「……瑞輝……」

 一週間。

 篠原はマンションに戻らなかった。

 戻って、来られなかったのだ。

 逃げ出した篠原がどうしていたのか。

 女のところを泊まり歩き、彼にとっては一世一代の覚悟で瑞輝ではない他の男にも手を出してもみた。

 瑞輝など、ただ顔がキレイなだけではないかと無理に思い込もうとして、新宿2丁目でもトップクラスの美形と名高い少年とコトに及ぼうとしたのだが、結果は惨憺たるものとしか言い様がなかった。

 役にたたなかったのだ。

 やっぱり瑞輝だけが特別だったのだとの思い知らされて。

 と同時に、あんなことがあったうえで篠原が一週間も戻らなければさすがに瑞輝もマンションの部屋から消えているだろうとの思いで、やっと戻ったその部屋に。

 まるで何事もなかったかのように、当たり前に瑞輝がいて、篠原は混乱してしまったのだった。

 「……お帰り」

 リビングのソファーに座って、あどけない瞳で篠原を見返す瑞輝。

 そのひざにはスケッチブックが広げられていた。

 この半年の間に当たり前になったその光景。

 その、当たり前の光景。

 篠原が帰ってこようと帰ってこなかろうと、もしかすると瑞輝には何一つ影響しないのではないかとさえ思ってしまう。

 篠原は、いっそ、瑞輝がいなければ思い切れたのにとさえ思った。

 何故、今もここにいるのか。

 この一週間。

 篠原はずっと瑞輝のことばかり考えていた。

 永遠に報われることのない片恋。

 そのことばかりを考えて、今、この時に瑞輝はどうしているのだろうか、とずっとそのことだけが頭から離れなかった。

 その瑞輝が、今、ここにいる。

 いて、くれた。

 その、想像もしていなかった事態に喜びはもちろんあるのだが、それよりも篠原は正直混乱していた。

 絶対に姿を消していると思っていた、いや、半ば信じていたというのに、瑞輝はそれを裏切ってここにいた。

 篠原は、一瞬、かける言葉もないほどに混乱したまま、ただ、そこにいる瑞輝を見ていた。

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