第1話 天使の輪なんて その②

夢と自覚しながら見る夢を、明晰夢というのだと漫画か何かで読んだことがあった。


今、現実世界の私の瞼の裏でリバイバルされているこの情景こそ、まさにそれなのだと、確信していた。


夢の世界というと、どうにもふわふわした場所を想像しがちだけれど、私の見る夢はどこまでも現実に則していて、遠く隔絶された場所から、他人事たにんごとを眺めているような、冷たい感触のする夢だった。


「お、落としたよ」


甘い声音に呼び止められて振り向くと、胸元の辺りまで伸ばされたつやつやした黒髪を揺らして、緊張した面持ちで私を見つめる女の子がいた。

女の子のちっちゃな手には、クマのワッペンの貼り付けられた、私の黄色のハンカチが握られている。

涼しげなすみれ色のワンピースは、毎日一緒に寝ているうさぎのぬいぐるみに負けないくらいに、白いすべすべした肌をしているその子によく似合っていた。


「あ、ありがとう…、えっと、きさいえさん」


その子が胸元に括りつけていた赤いチューリップの名札を見て、私はその子の名前を知った。


「いーえ。よかったら、お友だちになって。みしろさん!」


こぼれそうなくらいに大きな瞳を、目一杯に弧の字の形にして微笑むきさいえさんの笑顔は、とても眩しくって、私はすぐさま彼女の虜になった。


                 ◇


昔のことを思い出すと、どうにも気分が悪くなる。胃液がせり上がってきて、体が先に拒否反応を起こすのだ。それがたとえ、温かな思い出のひとかけらであったとしてもだ。


汗でべたつく前髪を持ち上げながら、私は起きる。いやだいやだと駄々をこねる心を抑えつけて、部屋のカーテンをしゃっと、勢いをつけて押し開く。


昨夜は鬱陶しくてしょうがなかった四月の春の陽気は、ほんのちょっぴりのこととは言えど、私のために前向きな気持ちを保つように励ましてくれているように感じた。


二階建てのマンションの前の通りは、森閑としているけれど、それでも朝練に向かうのだろうか、ぽつぽつと制服姿の学生の、気だるげに歩く姿が窺える。


行かなきゃならない。


途端に義務を感じた自分を、それは違うよとたしなめる。


行けるようになったんだよ。


そう考えて、私はいそいそと支度を始めた。そんな言葉が気休めにもなるかどうかとか、重くなるばかりの心は、見て見ぬ振りして。

              







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る