彼の囀る声

宮且(みやかつ)

第1話 愛 まばらに しかし確固として

目を覚ますと、ふんわりした香水のにおいがした。

甘やかで、鼻腔をくすぐるような優しい香りに、またとろとろと眠たくなる。けれど、香りをまとったひとを探したくて、薄目を開けた。ぼんやりとした視界の中を探すと、かたちよく浮いた肩甲骨につるりと垂れた黒髪が目に入った。手を伸ばして触れたいが、寝起きの体はずっしりと重い。

「なつこさん…」

寝起きのかすれ声でそう呼ぶと、黒髪の持ち主がこちらを振り返る。二人分の体温と湿気を吸った布団が動き、俄雨のあとがにおい立つように、香水とシャンプーの混ざりあった香りが流れてきた。きらきらするような長いまつげが縁取った目は、三日月形に細められている。

「今日のはるとくんは早起きね」

ぽすん、とスマートフォンが枕元に落ちる。まばゆい光源は、メールの送信画面を開いていた。

「お仕事中でしたか…?」

「もう済んだよ」

甘い声が寝起きの耳をくすぐる。耳から侵入してきた砂糖のような甘さに、全身が緩み、安心感から手足が温かくなる。

「後で少し出かけてくるけど、お昼には帰ってくるから」

「はい…」

手のひらが伸びてきて頭を撫でてくれた。頭蓋骨を押し包むように開いた指が、後頭部に添えられ、くすぐるようにあやしている。はるとの長めの前髪を掻き上げ、額ににじんだ汗を、その柔らかな指と手とで、ぬぐい取ってくれた。じきに手のひらは額を離れ、代わりに、はるとの頭と腰とに絡められた腕が、くっとちからを入れて抱き寄せてくれる。深い胸元の谷間に顔をうずめると、まぎれていた眠気がどっと押し寄せてきた。

低く心音が聞こえる。白く滑らかな夏子の素肌に頬を押し付けた。二度ほど深呼吸すると、夏子の胸に埋まって、浮遊するようなまどろみに身を任せた。

夏子は、その豊かな乳房の隙間で眠る少年を、いとおしそうに見つめる。

はるとの額に貼られたガーゼ。乳房に添えられた指先に、幾重にも巻かれた絆創膏。

まだ薄くなりかけで、赤紫からゆっくりと黄緑へと変わっていく過程の痣。

先日骨折した左腕は、骨を戻して固定しておいたら、元通りになった。小さな唇から覗く白い前歯も、折れた翌々日には再生していた。

夏子の胸で眠る少年は、限りなくひとのかたちをしていた。

けれど、夏子は彼をひとであるとは認めていなかったし、かと言って、ひとではないなにかとして恐れているわけではなかった。

彼女の胸中を支配するのは、張り裂けんばかりに湧きいずる慈しみと、狂おしく猟奇的な愛情であった。

身震いする程に感じるはるとへの愛情は、堕落に等しく彼を甘く漬け込むと同時に、笑う姿、喜ぶ姿、泣く姿、苦しむ姿、考えうる限りの、彼の挙動を渇望していた。

また、はると自身も、それを夏子の愛情であると知っていた。

二人の形容しがたい関係性は、友情に近くもあり、親子のそれにも似ている。

しかして、それは世間には伏せられた、じっとりと絡みつくような営みであった。


蓮見夏子が、彼を拾ってきたのは、もう半年前のことになる。

まだ残暑の残る日の夜。ひなびたひまわりの植木鉢を横目に、夏子は自宅への道を歩いていた。経営するガールズバーの店舗へ顔を出す、週二回ほどの出勤日だ。

雑務を片付け、常連客へ挨拶をしているうちに終電を逃し、自動車で出かけなかったことを後悔しながらの帰路である。

コンビニの袋を、ジェルネイルの指先に下げ、パンプスのヒールを鳴らして歩く。高い身長から流れるように落ちる黒髪は、湿った夜風を受けてさざめいていた。

タイトスカートに包まれた腰を揺らして、歩みを進める。開きっぱなしのスマートフォンを目で追って、配車やシフトの再確認をしていた。

視界の端にうずくまる塊をみて、夏子は歩みを止めると、ゆっくりとそちらに顔を向けた。

もし相手が変質者ならば、そのまま踵を返し、コンビニまで走り抜ける自信が彼女にはあったし、硬いスマートフォンを握りこんで、相手をひるませる腕力も持ち合わせていた。必要ならば、高い身長とよく通る声を利用して威圧することもしただろう。

けれど、夏子はどれをすることもなく、膝を折ってその塊の前にしゃがみこみ、もっとよく見ようと、一房垂れた前髪を耳にかけた。

小さなうめき声を発するそれは、前夜から出された指定ごみ袋の中に下半身を埋め、まるでごみ置き場から生まれたばかりのように、上半身をアスファルトに押し付けていた。

「ん…」

てろんとした目が夏子を見ている。少年は、薄い唇を開いて、何事かを夏子に伝えようとした。細い指をくねらせてしゃがみこんだ夏子の黒髪に触れる。

夏子はその指を握った。

眠たそうな目が、半月状に歪んで、夏子に向かってふにゃりと笑む。夏子も、きゅっとあがった吊り目をたわませると、少年を抱き起こした。

彼の纏う着古したパーカーとジャージからはいやなにおいはせず、夏子は、まるい唇を寄せると、彼の頬に押し付けた。少しすすけたような汚れがついていたが、夏子は気に留めることはなかった。

ふらふらとしながら夏子に手を引かれ、少年は歩き出す。

長身にヒールを合わせた夏子よりも、随分と低い位置に肩があった。長い前髪で見づらいが、年の頃は十五、六のようにも見えるが、時折周りを見渡す仕草のせいか、驚くほど幼くもなる。

その足は、靴を履いていなかった。アスファルトを彼が歩くたびにひたひたと音がするような気がした。

少年は、エレベーターに乗る間も、おとなしくしていたし、夏子が玄関のロックを外す間も、なにも聞かずに立っていた。

帰宅してまず、夏子は彼を風呂に入れた。

彼の身体は冷えていたし、夏子も一日の汗を流したかったのだ。

湯船に浸かり、足の間に座る少年に名前を尋ねても、首を振るばかりだった。夏子は、自身の長い髪を洗う間も、少年のぱさぱさした髪の毛をシャワーで流す間も、彼を呼ぶに適した言葉を考えていた。

ひょろんとした体躯には、ぶつけたのかいくつか赤紫色の痣ができていた。理由を尋ねても、名前と同じように、わからないと彼は返した。

バスタオルで身体を拭きながら、いまだ夏子は彼を呼ぶべき名前を思いつくことができないでいた。固有名詞がないというのは、不便なもので、夏子としても、拾ってきたものには是非ともなにか名前を与えてやりたかった。室内の本棚に並んだ背表紙に視線を滑らせる。仰々しい字面は、彼には不釣り合いに思えた。

隣のCDラックに目を移す。洋楽邦楽混在する中で、ひとつのアルバムに目が行った。

Haltと書かれたタイトルを手に取りスマートフォンで意味を確認した。少し発音して、近い語感のHurtを調べる。

夏子はにっこりと笑うと、優しい声で彼を呼んだ。彼は首を傾げたが、夏子が彼への呼び名であると教えると、口の中で何回か発音してうなずいた。

はると、というのは、夏子が一番最初に彼に与えたものとなったが、由来となったふたつの単語の意味を、はるとは知らずに笑う。

かくして、小さな怪異の種は、安寧の地を手に入れ、湿った土の上で芽吹き始めることとなる。


夏子は、この半年の間に、当時所有していたマンションを手放し、少し駅から離れたガレージつきの一軒家を購入していた。

それは突然に現れたはるとを守るためでもあったし、彼との生活音を他人に聞かれたくないからでもあった。

時に白痴のように拙いはるとを、世間から殆ど断絶させたかったのだ。そして、彼の特異な体質も、夏子との営みも、人目に触れなければさしたる問題ではない。

十三代目クラウンアスリートが、シャッターの向こう側にゆっくり消えていく。

マフラーから唇を覗かせて息を吐くと、白く靄になった。

ガレージを後にしコンクリートの通路を歩く。ひゅうと抜ける風が、耳にあたって切り付けられるようだった。暗い色のコートの裾がはためいて、シーム入りの黒いストッキングがちらりと見えた。鍵を差し込み、室内へと身体を滑り込ませる。

玄関先には、かかとのとがったミュールやパンプス、ショートブーツに混じって、小さめのスニーカーが一足転がっている。形の悪い蝶々結びが片方ほどけていた。

夏子は、パンプスのストラップを外そうと身をかがめ、そのついでに、広がった靴ひもをきれいに結わえた。

「なつこさん…!」

板張りの床を素足がぺたぺたと歩いてきた。夏子が顔を上げると、ぼさぼさの髪の少年が、嬉しそうに笑っていた。

「ただいまぁ。はるとくん、お昼ごはんはもう食べた?」

胸元に顔をくっつけてきたはるとを両手でぎゅっと抱きしめながら、夏子は聞いた。

「ううん、まだ…!」

「じゃあ何か作るね」

夏子は言って、はるとの頬から手を離した。かじかんでいた指先が、はるとの体温を吸って柔らかくなっていた。

居間に入ると、つけっぱなしのストーブのにおいがして、暖かい。カーペットにはゲーム機とスマートフォンが、テレビ前の座卓には、らくがきをされたコピー用紙が散らかっていた。夏子を待つ間、はるとは暖かい部屋に転がって、一人遊びにふけっていたのだろう。

食卓の椅子に引っ掛けてあったエプロンをつかみ、頭からかぶる。後ろ手に蝶々結びを作り、冷蔵庫を開いた。

タッパーに入った冷や飯とたまご、数切れあった鍋の残りの鶏肉を取り出す。野菜室に入っていた人参も掴み出し、ピーラーを当てた。

カウンターに顎を乗せて、はるとがわくわくした風にこちらを見ている。人参と鶏肉を刻み、炒めると、芳しい香りが広がる。はるとが少し身を乗り出して、鼻を鳴らした。

「なにをつくるんですか…?」

夏子は答えない。冷や飯をフライパンにあけ、ケチャップを和えて更によく炒める。時折、よく火の通った米粒が、ぱちりと音を立てて跳ねた。木杓文字でかき混ぜ、むらなく仕上げていく。夏子は、おこげになった部分を木杓文字に乗せ、はるとの前に差し出す。

「お味見して」

ほくほくと湯気を立て、焦げ付いたそれは、いかにも熱そうで、はるとは少しためらったような視線を夏子にむける。

「ほら。こっちの味が変わっちゃうでしょう?」

夏子に急かされ、はるとはおずおずと木杓文字の上のものを口に入れる。

焦げた米と、熱された木杓文字が、舌と唇をそれぞれ焼いた。思わず顔をそらして逃げてしまう。夏子はそれに、数回息を吹きかけてから、自分の口に入れた。木杓文字をフライパンに戻し、味見はしてくれないのかと、はるとに尋ねる。

はるとは、ひりつく唇を赤らんだ舌で舐めながら、再び差し出された木杓文字に口をつける。薄皮を焼き直され、味もよくわからない。素直にわからないと首を振ると、夏子は再び木杓文字に米を乗せて、はるとに差し出した。無言で、再度を唇を焼くようにと。

はるとは、ためらいながら舌の先端を覗かせた。じくりと痛む傷口を、自ら深くして、おいしい、と小さな声で言った。

夏子は満足そうに笑うと、チキンライスを皿に盛り、ボウルに卵を割り落とす。

解きほぐしたたまごをふんわりとするようにフライパンで炒り、まとめると、チキンライスの上にのせ、菜箸で割った。

崩れ落ちるように広がった黄色い垂れ幕を見て、はるとは唇の痛みを忘れて唾を飲んだ。二人分の皿をはるとに持たせ、テーブルに行くように夏子は言う。

席について待ちかねたような視線を向けるはるとの前に、スプーンとコップを置き、夏子は手を合わせるように言った。

随分と早口のいただきますのあとに、はるとは湯気を立てるオムライスをスプーンでほぐす。熱さに涙をにじませながら、すきっ腹に食事を詰め込んだ。

「そんな焦ったら、やけどをするよ」

夏子は、赤くただれたはるとの口の端を見ながらゆっくりとたまごを崩し始めた。

「そういえば、お風呂の掃除、しておいてくれた?」

夏子が尋ねると、はるとが一瞬びくりとし、オムライスを掻き込む手をとめた。

「あ…あの、う…」

「まだなのね?」

気まずそうに、はるとの目が泳ぐ。そもそも、今朝出かける時に言いつけてなどいないのだ。夏子は、眠ったはるとを起こさないようにベッドから抜け出し、朝の家事を済ませ、身支度を整えて出かけたのだ。時折、彼に家事を言いつけることはあったが、それは毎日させているわけではなかった。書置きでも残しておいたなら、従順なはるとは、夏子の希望に沿って、拙いながらに家事を済ませておいてくれただろう。

「あ…うっ…。あのあと…おきられなくて…。なつこさんいなくなって…またねちゃって…」

「そう」

意に沿えなかったのは、当然である。

口ごもるはるとの表情に視線を向け、夏子はふっくらとした唇を半月状にした。切なさすら覚え、濃ゆいまつ毛に縁どられた瞳は潤んでいた。

最初から、自主的になにかすることなど望んでいないのだ。唇を舐めながら夏子は思う。

夏子にとって、はるとは白痴であればよく、夏子に対して、愚かなほど実直であればよい。理不尽とも思える言葉に、はるとが失敗してしまったのかと怯えるたびに、そうではないと訂正し、喜ぶ姿を見るのはたまらなく嬉しかった。

「食べ終わったら一緒にやりましょうね」

夏子がそう言うと、はるとは、ぱあっと表情を明るくし、再び食事をほおばった。

夏子ははるとに、尾を振り、じゃれつく犬のような愛らしさ以外を期待することはなかった。そしてはるとも、夏子に愛されるためだけにここにいるのだと思っていた。

夏子は、身悶えするような愛情を、暴力的にまっすぐに、ひとに向けたのは初めてであった。

恋愛関係における、愛を感じたことがないわけではない。

けれど、それはどこか別世界のもので、フィルタを一枚隔てて、画面の向こうの男女が、睦言をささやきあっているように感じていた。

それがどうだ。

はるとという、出自もわからぬ、ひとであるかすらも怪しい少年を一目見た時に、夏子は今までにない深い愛情を覚えたのだ。

理由などなく、不合理とも思えるその選択を、彼女は一度たりとも後悔したことなどなかった。性を金に換え続けていた夏子にとって、それは驚くべき変化であった。眼前で食事を貪る少年が、夏子の庇護の代償に返すものは、信仰じみた信頼だけだ。

夏子の注ぎ込む灼熱のような思いを受けて、胎動するように怪異の子は育つ。

じきに、平皿の中身はなくなり、代わりに、胃袋を満たされ、幸せそうに食後のお茶を飲むはるとがいた。

夏子も、注いだ冷茶で喉を潤した。

はるとが来てからというもの、自炊する回数が増えていた。元々、料理が苦手なたちではなかったが、一人であるということに甘んじ、出来合いの総菜やインスタントで食事を済ませることが多かった。

けれど、こちら半年間は、日を重ねるごとに、出来合いのものが食卓に上ることは減っていた。それは、大切なものに手ずから食事を作り、与える喜びを得、はるとが嬉しそうに食べる姿を見て楽しむためでもあった。

食器を洗いながら、夏子は、変化したものを思い出す。女ひとりだった生活に、一番多く増えたものは、車の模型だった。はるとは、とかく車を好み、かわいいかわいいと与えられた模型を手に喜んでいた。

夏子の家事を待つ間も、テレビ台に並べられた模型をつついては、何事か納得するように頷いていた。

「じゃあお風呂掃除、手伝って」

濡れた手を拭きながら夏子が言うと、はるとは模型をテレビ台に戻し、風呂場へ向かう。

普段から掃除をしている浴室は、改めて掃除をするにしても、湯船を軽くこするくらいしかすることはないのだが、湯船に入って掃除をするはるとの横で、夏子も膝を折って、四隅を磨いた。

撥水機能のおかげで、二月とはいえ、凍えるような寒さはなかった。はるとはどうだろうかと、湯で指先を流しながらのぞき込むと、特に気にした風もなく、手に持ったスポンジで湯船をこすっていた。けれど、水濡れで冷えたつま先は、赤く色が変わっていた。

「なつこさん…!できましたよ…!」

誇らしげに、はるとが言う。夏子は一言褒めてから、泡まみれのスポンジを受け取り、床に置くと、シャワーヘッドをつかみ、湯船に向けた。

ひねったコックが、きゅ、と、音を立てる。

「うあっ…!」

きんと冷えた冷水は、湯船の中にいる少年へと降り注いでいく。

驚いて転げたはるとは、洗剤の泡をひっつけながら、湯船の中に倒れこんだ。

夏子は何も言わず、彼の頭からつま先へ、刺すような冷水を何度も往復させた。

「あ…ぁ…。う……ひっ…」

額に貼ったガーゼが、水分を含んで剥がれ落ちた。

濡れた衣服に体温を吸われ、全身を震えさせながら、はるとの見開いた目が、夏子を見ている。夏子はその表情に思わず目を細めた。

紫色に冷えた唇が薄く開き、悲鳴を漏らしている。たっぷりと時間をかけて夏子は彼の身体を冷やしていった。

流し込まれた冷水が、排水口へと渦を巻いて落ちていく。

再びコックをひねって水を止めると、はるとの歯が噛み合う音がかちかちと聞こえた。

「寒い?」

夏子の唇が甘くささやく。うっとりと官能的ですらある声音は、彼女が芯から悦びに打ち震えているのを露わにしている。はるとが小さく頷くと夏子はにっこりと微笑んだ。

「あ゛ぁぁぁ……」

シャワーから吐き出された湯を顔面に浴びて、はるとは低く叫び声をあげた。その湯温は、熱湯と呼ぶ程ではなかったが。冷え切った身体には、爛れるような痛みを与えた。

もうもうと立つ湯気の中ではるとは転げ回り、赤らんだ顔面を両手で覆う。

その顔面に向かって、もう一度冷水を浴びせてから、夏子は彼を湯船から引き揚げた。

ぐしょぐしょになった衣服を脱がせ、柔らかいバスタオルをかぶせた。

濡髪を拭いてやると、かたかたと震えながらも、はるとは嬉しそうな顔をした。

夏子は冷たい身体を引き寄せ、背中を手のひらで叩いた。

タオルに包んだはるとを抱き上げ、暖かい部屋へと連れていく。

ストーブの前で、はるとを膝に入れ、温めてやりながら丁寧に髪を拭いた。

ゆっくりと体温を取り戻していく身体を抱き包み、夏子は深く息を吸った。はるとの前髪を手のひらでかきあげると、剥がれ落ちたガーゼに隠されていた大きな生傷が露わになる。それは、固くぎざぎざしたもので擦過した痕だった。夏子が深々とおろし金で摩り下ろしたそこは、二日前には、ぞろりと肉が剥げ、薄らと白い骨が覗いていたように思う。

「あとで絆創膏、やってあげるからね」

夏子はそう言うと、血の滲む傷に唇をつけた。

夏子は、彼の身体についた傷跡に触れながら、狂おしそうに息を吐いた。

はるとへの愛情を注ぐのと同じように、彼を虐待することが、彼の望む愛情のかたちなのだと、夏子はよくよくわかっていた。



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