寺は燃えているか
里見詩情
第1話
『即身成仏義』なる本を始めの数頁だけ読んで辟易し、己の汗の不快なにおいを嗅ぎながらブックオフへ売りに行く。三十八度の真夏の炎天下、チャリの籠にその一冊、ただ一冊、だけを、ぶち込んで、忌々しいそれを売り飛ばしに、行く。片道十三キロ近くの道を、わざわざ汗水垂らしながら、生暖かい風を受けながら、捨てに行くような心境で売り飛ばしに行く。田舎の悪路を走るチャリの籠の中で、タイヤが大粒の砂利を踏み潰す度に『即身成仏義』は跳ね回り、痛んでいく。俺にはその行為が必要だった。己の力でそいつを痛めつけ、己の力で捨て去らねばならなかった。ような、気が、した。まあドブ川に捨ててもいいし、燃やしちまってもいいような気もしたが、少しでも金になるならば、というせこい考えを思いつき、売り飛ばしに行く道中、聖典と言ってもいいようなそいつを痛めつけることを思いついた。ただ、それを俺は、「己の力」で売り飛ばしに行かねばならない、と、思った。
俺という人間の半分は、まあ懇願してなったもんでもねえが「聖職者」という身分によって成立している以上、己の半分を占めるであろう思想とやらを、もしかすると人々を救ってきたかもしれぬ思想とやらを売り飛ばす以上、痛みを感じねば、苦痛を感じなければ、ならぬような、気が、した。いや、間違いなくそうなのだ。それが俺なりの落とし前だと感じていた。なんともまあ都合がよく、そこまで重大に考えている割には大した苦痛でもないような気もするが。
田んぼ道の中で、俺は、これから売りに行くほど嫌だった『即身成仏義』の中身を思い出していた。嫌すぎて頭から離れなかったから思い出していた。即身仏ではなく、即身成仏。この世の肉体のまま成仏する、それすなわちこの世において仏となる。「この世で救われる」ということ。
確かに、たしかに、この世すら救えない奴にあの世など救えるものか、と思っていた。思っていた。そうすると、その思想は画期的だったやもしれぬ。昔も昔、平安時代ならな。だが、それは達成されたのか。何が変わる。誰が変わった、のだ。そう、思えてしまう。確かに、確かに、俺はそれを、即身成仏を達成しなければならぬ立場ではある。しかし、歴史の中で誰が達成できたと言うのか。
そんなことを考えちまう俺には、教義否定をする俺には果たして、祈る資格が残されているのか。人類について祈る資格が。人類のためになんぞ祈りたくは、ないのだが、なかったのだがな。だが、俺は祈らなければならなかった。それは聖職者だからというわけではない。過去の俺は使命感のようなものから人類のために祈っていた、ような気もするが、今となってはそういうわけでもなかった。
ただ一人のために祈りたかった。昔別れた彼女ただ一人のためだけに、俺は祈りたかった。俺の全てを捨ててもいいと思い、愛した、あの、彼女。その人のためにだけ、その人の幸福とやらのために、俺は祈りたかった。幸せに、幸せとやらに、なって、ほしかった。どうしても、ほしかった、のだ。しかし、俺と彼女の道は、生活は、とうの昔に分かたれた。いや、分かたれたのではない。俺が、他でもない、この、俺が、「もう別れよう」と言った。言った、のだ。いったの、だ。言っちまったのだ。ならば俺の「愛」とやらを彼女に向けることも、彼女からの「愛」とやらが俺に向けられることも、俺が、おれ、が、おれという現象が、否定したのだ。しかし、俺はまだ彼女へ、愛しているとは絶対に言えないが、絶対に言ってはならないが、愛を、向けていた。
そうして全人類を愛することに、彼女を愛することも含まれているのだとしたら、と考えた。彼女を愛することは、俺が、己自身が、否定したが、全人類へ愛を向け全人類のために祈ることはすなわち、禁じたはずの、人類のうちの一人たる彼女へも愛を向けるという行為になり、それが、彼女への愛が許される唯一の道だとしたならば、と俺は考えた。
だが、もう俺の中に「愛」なんていう感情は残されていなかった。かつて、彼女と別れた時に、俺の中の「愛している」という感情は忘れてきてしまったのだ。いや、正確に言うならば、別れたその日その時、に、俺の「愛」とやらは全て、一方的かもしれないがとにかく彼女の中に置いてきてしまったから、俺の手元には、もう存在していなかった。
そう言いつつ全人類のために祈ることしか、愛することしか、俺には残されていないが、ならば殺したいほど嫌悪している人間のためにも、俺は祈れるのか。愛せるのか。ということも大問題だった
全ての人類のために祈れないのならば、全ての祈りを捨てることが、人類崇拝への殉教になり得るのだろうか。「平等」の名の下に全ての祈りを、愛を、捨てることは、「平等」という名の下に全てを愛さない、祈らないことは、人類への恒久的愛情表現たり得るのか。たり得るのか。
そんなことを、暑さで蒸しあがり腐りそうになる脳で考えていた。チャリは風化しそうなひなびた街中へと差し掛かっていた。アスファルトからの照り返しが、俺の思考能力を一層奪っていく。だが、だが、それでも。俺は、俺は考えねばならなかった。それが、一つの思想を捨て去ることへの責任なのだ。
そうか、と俺は考える。もうこの世では、この世において凡人たる俺が考え付くような方法では、彼女どころか全人類の幸せを願うことは無意味に近いのだろう。達成できないのだろう。ならばあの世か来世に行ってからの救い、愛を待つのか。だがやはり、この世すら救えないような奴に、あの世なんかが救えるのか。救えるのか。それを考えるのは俺が宗教者だからなのか。であれば、俺は、何かを救わなければならないのか。
しかし、救いとはなんだ。幸福のことか。ならば幸福とはなにか。幸せか、福か。ならば幸せとはなにか。福とはなにか。そもそも救いなんて誰が求めているのか俺には分からない。だが求めている、求められている、ような、気がする。いや、気がする、ような、そんな軽い感覚で語るべきことか。ことなのか。
あの世とはなんだ。来世とはなんだ。輪廻か。六道輪廻のことか。ならば六道輪廻の本質的根源的意味価値概念存在形而意図は、なんだ。
愛とは、なんだ。祈り、とは、なんだ。俺にはもう全てが分からないから全てが分からなくなってくる。
目が回って来る目が回って来る。暑さのためなのか、ということすら考えられない。正確には少しは頭をかすめるが、原因なんぞもう分かりゃしない。
そのうちに田舎の最果てみてえな場所に突っ立っていやがるブックオフが見えてくる。いや、それが本当に中古屋だったのか、もう分からないが、本能で店の中へと吸い込まれるように入って行く。そこで二十分くらいクーラーにあたりようやっと人間性を取り戻す。
そうして俺は、冷静になった俺は、彼女が二年前に死んでいたことを、思い出した。いや、死んだというのは比喩で、本当は風俗で働いているらしい。だからこそ、俺は彼女を死んだことにして、己の精神安定を保っていた。なぜかはわからないが、そうしなければ俺の精神は崩壊しそうだったのだ。そうして俺は、この世の救いもあの世の救いも、俺にとっては救いなんかではなかったのだったことを思い出した。即身成仏が救いであるならば、この世の救いとやらからあぶれた人間はいないのか。そもそもあの世だって救えたかどうか、坊主の俺にも、いや、坊主だからこそ俺にはわかりゃしねえ。あの世もこの世も、救えたかなんてわかりゃしねえし、そもそも「あの世」とはいったいなんだかわからねえ。「この世」だって結局なんだかわからない。やっぱり何もわからない俺は、『即身成仏義』をレジへ持って行く。
だが、俺の手放した「教え」とやらは、百円の価値があった。俺は寺という場所、環境、関係性、によって育てられてきたが、なぜそれを否定する。その百円を見ると、そんな考えが浮かぶ。この百円も、教えとやらの値段ではないのか。
しかして、店を出るとその百円は暑さのせいですぐに缶ジュースへと変わってしまう。そんなしょうもないことすら俺は不幸だと断定し、俺は不幸だ。俺は不幸なんだ。という暗示によって、またしても俺にとってだけ都合のいい世界観を構築し、不幸に酔っている。救ってほしい。救い、救い、救い。救い、が欲しかった。俺は不幸であることを頼りに、精神の安定を図っているが、それならば不幸であることの自覚は救いなのか。悲劇の主人公であることもまた救いであるのか。いや、そんなはずはない。ないんだ、と強く、強く、思考を矯正する。慰めが、慰藉が、必要な場合もあるかもしれねえが、俺は根源的な、根本的な、「救い」とやらの核心を求めねばならなかったはずなのだ。それはわかっている。わかっている。わかりきっている。何故かはわからねえが、何故そんなことをしなけりゃならねえのかも、そもそも全てがわからねえことも含めて、それでも。それでも、それでも、それでも、今の俺には昔の彼女が風俗嬢になり、二年前に死んだと思い込み、十三キロ先のブックオフへ自罰的に向かい、その果てに得たものは何もなく、また危機的な気温の中をチャリで帰らなければならない。しかもそれらの行為には、何の意味もない。
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