鬼神の雑貨屋さん

新四季

プロローグ

 ぬるりとした風に乗って、血と焼けた匂いが流れてくる。周囲には崩れた瓦礫と焦げた木材が無秩序に転がり、日はとうに落ちているというのに空は灼けた大地を映すように赤黒く染まっていた。視線を下に落とすと目の前に映る自分の手は小さく、泥と血で汚れている。それを見つめながら『ああ、またか』と僕は呟いたつもりだったが、喉からは声が出なかった。


 これは夢だ。十年前の記憶の焼き直し。


 ゴルディア帝国の侵略を受けた僕の街は一夜にして灰になった。後に聞いた話では、それは帝国魔術師が行った実験の一環だったという。


 『魔力蓄積反応試験』。帝国は魔法の新しい応用可能性を模索しており、特定の地域を標的に選んではその住民を犠牲に実験を行っていたのだ。


 魔法陣が街全体を覆い、そこから放たれる莫大な魔力の奔流がすべてを焼き尽くした。僕の住んでいた家は街のはずれで魔法陣の範囲からわずかに外れていたために形が残っていたが、街は言葉の通りに消失し、後に残ったのはかろうじて燃え尽きていない残骸だけだった。


 街に住んでいた友達も、彼らと一緒に遊んだ公園も、お使いついでに買い食いをしたカフェも、揚げ物の屋台でおまけを入れてくれたおばちゃんも、もう誰もいない。




 父さんと母さんは戦士だった。僕が生まれるずっと前に空を覆うほどの巨大な怪鳥を仕留めて街の危機を救った英雄だ。当時の僕にとっては両親の存在は何よりの誇りで、その物語を寝る前に何度も母さんに聞かせてほしいとせがんだ。


 でも、英雄も人間だった。


 両親は二人とも街に現れた魔法陣の調査へ向かい、そのまま炎に飲まれて消えた。


 すべてを失った僕は途方に暮れ、燃え残った瓦礫の中で震えているだけだった。


「あっれー?この辺だったと思うんだけど……」


 その時、場にそぐわないのんきな声が聞こえて僕は思わず身をすくめた。瓦礫の影から声のほうを覗き見るとそこにいたのは帝国人の少女だった。


 顔は見えないが、言葉のイントネーションと腰上まである長い銀髪は間違いなく帝国人のものだ。

 ラフなキャミソールとひざ下くらいのスカートを履いている。休日のショッピングに行くような格好で彼女は戦場のど真ん中にいた。


 この時の僕の思考は『にげなきゃ』だった。幼い子供にも備わっている本能が全力で警鐘を鳴らしていた。

 あの少女は帝国の軍人や魔術師とは別種の恐ろしい底知れない気配を放っている。


 そして、その直感は正しかった。


「第一村人はっけーん!」


 僕が目をそらして逃げ出そうとした瞬間、その気配を敏感に察知したのか、少女はまるで瞬間移動したかのように目の前に現れた。大きな真っ赤な瞳が、泥と煤まみれで震えている僕を映し出す。


「ほら、そんなに怯えなくていいから。ちょっと訊きたいことがあるんだけど……」


 凍り付いた僕に構うことなく彼女は肩から下げていた小じゃれた白いバッグの中から何枚かの紙を取り出した。首をかしげながら『どこにやったっけなー』と乱暴に漁るからハンカチや何かの瓶がぽろぽろと地面に落ちている。


 ようやく見つけ出した一枚の紙を僕の前に広げて指で一点を指し示した。この町の地図だ。


「えーっと、ここ!ここに行きたいんだけど場所分かる?どこ見てもおんなじ風景でさぁ」


 僕は地図を見ていなかった。僕の目は彼女の顔に釘付けだった。


 コロコロとよく変わる表情、すっきりとした目鼻立ちをした美しい少女だ。けれど、僕が驚いたのはそこではなかった。


 彼女の額の両端に生えている、冷たい刃のような一対の角。それが帝国人である以上の恐怖の根源に他ならなかった。


「お、おに……」


 口から勝手にこぼれた言葉は、父さんと母さんが恐ろしげに語っていた『鬼神族』への畏怖そのもの。人に似ているが、人を遥かに凌駕する怪力と魔法を操る種族。あの両親でさえ一度も勝てなかったと言うほど、圧倒的な存在――鬼だ。


「『お前の子供が悪いことをしたら食い殺してやる』って脅かされたの。それで私たちは剣を捨てて逃げたのよ。だからいい子でいなきゃね」


 昔、母さんが笑いながらそう教えてくれた。今思えばただの子供だましだったのかもしれない。けれど、そのときの僕にとっては『英雄さえ歯が立たない化け物』がいるという恐怖を初めて知ったのだ。


 赤い瞳、鋭い角、焦土と化した街に似つかわしくない笑顔――すべてが悪夢のようで、僕は声も出せない。何も言えないまま彼女の顔を見つめているうちに、視界がぐらりと揺れた。


「え? ちょ、ちょっと! 大丈夫?!」


 少女の悲鳴まじりの声が遠ざかる。わずかに伸ばされたその手を見届ける間もなく、僕の意識は暗闇に沈んでいった。

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