ダウンステアーズ~使用人たちのポートレート~

乾羊

portrait 01 キドニーパイをひとくち

 いつもなら、厨房の火を熾すのはスカラリーメイドの役目だが、クリスマスの朝は違う。

 私にとってミドルトン家のクリスマスはいつだって特別で、日が昇る前に目が覚めてしまう。プレゼントを心待ちにする子供みたいに、期待に満ちた一日の始まりだ。

 暗闇の中、覚醒した私は素早く着替えて部屋を出る。

 しんと凍えた空気に震えつつ、燭台で足下を照らしながら厨房へと向かう。ショール越しに肩をさすりながら、ここに勤め始めた頃には、熱いお茶で身体を温める暇などなかったことを思い出す。久々の感覚に、自然と笑みがこぼれた。

 まだ誰もいない厨房で火を熾し、レンジを黒鉛で丁寧に磨く。続いて白木の作業台に水とカレーの砂をまき、たわしで擦っていると、だんだん寒さも気にならなくなってくる。作業を続けていると、背後できゃっと悲鳴が上がる。

「ミセス・ストー、もう起きてらしたんですか?」

「おはよう、メアリ」

 六時半きっかりに姿を見せたメアリは、お屋敷に来て三ヶ月目の洗い場女中スカラリーメイドだ。

 丸々と目を見開く彼女はまだ十四歳。口数は少ないがしっかり者で、慣れないことにまごつくことはあっても、一度犯したミスはきっちり修正してくる賢い娘だ。

 今年初めてクリスマスを迎えるメアリが、私の習慣を知るはずもない。

「アンはどうしたの?」

「起こしたんですけど……」

 私の問いかけに、メアリは眉を下げる。なかなか支度が終わらなくて、ともごもごと告げた。

 アンはメアリと同い年だが、お屋敷に勤めている期間はメアリよりも長く、すでに半年は経つ。アンの暢気な所は美点であり欠点でもある。

「今日はとびきり忙しくなるから、覚悟しておいてね」

 メアリに微笑みかけると、彼女は唇を結び、生真面目に頷く。袖を捲り上げて「代わります」とたわしを手に取った。

 それから続々とメイドたちが姿を見せ、ようやく厨房に光が射した。


 ミドルトン家のクリスマスにはプディングと、キドニーパイが欠かせない。偏食もなくメニューにほとんど口を出さない奥様が、唯一作って欲しいと望むからだ。

 子羊の腎臓を使うこの料理は好みが分かれるが、下処理を怠らなければ臭みも出ず、独特の苦みが癖になる一品である。

 トーストの香ばしい匂いが立ちこめる中、私はちらと時計を確認する。午後一時の昼食に間に合うようメイドらをせかし、私の作業のテンポも上げる。

 ブルー&ホワイトの陶器の皿にローストビーフを並べ、イチジクのソース、色鮮やかな温野菜を添える。

 均一に盛りつけられたいくつもの皿が、次々とハウスメイドや従僕の手によって運び出されていく。

 ミドルトン家はヘザーの丘に構えたペンドリー・ホールの主で、古くからレイフィールド一帯を治めている。私はお屋敷から十マイル離れたペンドリー村に生まれ、十三歳の時にスカラリーメイドとして厨房に入った。

 口数が少なく真面目な旦那様と明るく気さくな奥様、利発なお子様方、そして彼らを敬愛する使用人たちに囲まれて、もう十二年経つ。

 私が料理人コックになったのはほんの五年前だが、ペンドリー・ホールはその家格に見合わず、こぢんまりとしたお家なので、経験の浅い私と六人のメイドでも何とか回っていた。

 ただ、クリスマスの夜には恒例の使用人部屋サーヴァント・ホールでのパーティがある。ここで提供する料理は、厨房が通常の仕事の合間に拵えるため、手を休める暇がなかった。

 私はキッチンメイドのマギーの手を借りて、ガランディン用の獣肉を混ぜることに集中し、指示以外を口にしなかった。

 パーティの後始末が何日も続く憂鬱はあれど、華やかで上機嫌な匂いが漂うこの季節が私は好きだ。

 朝食、お茶、昼食とつつがなく過ぎ、短い休憩を挟んで、すぐに午後のお茶の準備に入る。クリスマスは来客が多く、奥様を始め屋敷全体が対応に忙しい。

「マギー、ソースが終わったらパイ生地に取りかかって!」

 はい、と歯切れ良い返答を聞きながら、熟してよく香るマルメロを焼いて粉砂糖をかけ、ウィスキー風味のクリームを添える。ヴィクトリアンサンドにスコーンはスタンドに、キュウリとスモークサーモンのサンドウィッチは、取りやすいよう銀の皿に盛りつけて、従僕たちに手際よく渡す。

「きゃっ!」

 目まぐるしく動く厨房に突如、甲高い悲鳴が上がった。私が顔を上げるのと同じくして、派手な音を立ててパンが床に落ち、ソースが跳ねるのが目に入った。

「何やってんのよ、アン!」

 すかさず怒鳴ったのはマギーだ。彼女の一喝を受けたアンの肩がびくりと跳ねて、身を縮める。エプロンを握りしめるアンの手は、怯えたように細かく震えていた。

「……すみません」

「これで何度め!? 気をつけろって何回言わせるのよ!」

 か細い声での謝罪に、マギーの眉が鋭い角度を描く。厨房にはマギーの大音声だけが響くが、アン本人の顔には反省よりも不満が色濃く表れていた。

「ちゃんと謝ってるじゃないですか。それに、急に動いたのはマギーさんで……」

「あたしのせいだっての!?」

 アンの態度にいきり立つマギーが、レンジの傍にあったアイスクリームマシンに八つ当たりするに至って、私は咄嗟に声を張り上げた。

「二人ともやめなさい!」

 にわかに険悪になった二人の間に割り込んだ一喝に、アンがぱっと顔を輝かせ、マギーが腰に手を当てて小さく舌打ちをした。私がどっちのミスなのか判断を下すよりも早く、涙を浮かべたアンが手を突き出した。

「ミセス・ストー! あたし、パンが指に当たったんです。きっと火傷しました。見てください!」

 訴えるアンの手は、確かに赤く腫れている。怪我をしているとなれば、放っておくわけにはいくまい。

「……分かりました。ミセス・ミラーに薬をもらってきなさい」

 メイドを統括する立場にある家政婦ハウスキーパーの名を出すと、アンは跳ねるように厨房を出て行った。

「マギー、悪いけど片づけておいて」

「……分かりました」

 抑えた声で彼女は従い、黙々と汚れた床を拭き始めた。この一幕を静観していた厨房にはすぐさま活気が戻ったが、私はため息をこぼさずにはおれなかった。


 母もまた、ミドルトン家の料理人だった。六人の子供の面倒に明け暮れる日々を送っているが、今なお料理が好きで、新しく料理本が出たと聞けば我先にと求めている。

 おかげで、生家には各国の料理本と手書きのレシピが大量にある。休日には実家に戻り、手垢のついたレシピ本を元に、母と二人あれこれ試行錯誤するのが楽しみになっている。

 いずれは独立し、自分の店を持つ夢を抱いた若い頃の母は、ロンドンのとあるお屋敷に勤めたものの、同僚使用人と関係したという謂われのない中傷を受け、追い出されてしまったと聞く。紹介状もなく、故郷にも帰れず、遠くレイフィールドに逃げてきた母を受け入れたのが、ミドルトンの奥様だ。

 母の腕は確かで、先代の奥様にもずいぶん贔屓にされていたそうだ。母の結婚を聞いた時も、お屋敷は出ずに結婚後も留まって欲しいと懇願されたほどだという。

 結局、母はレイフィールドで出会った恋人との生活を選び、今は幸せな家庭を築いている。

「リネット、ミドルトンの奥様にロンドンのお屋敷を紹介してもらいなさいな。本格的に勉強するなら、やっぱりロンドンが一番よ」

 レンジの灰を掻き出し、炭を足しながら告げる母の声には、いまだ燻る後悔がちろりと覗く。休みの度に聞かされる台詞に、私は笑う。

「まだ早いわ。私はまだペンドリー・ホールの厨房のことを覚えるだけで手一杯よ」

 そういなすと、母は「そんなの、レイフィールドだろうがロンドンだろうが一緒だよ」と呆れる。この一連の流れを、ここ数年繰り返していた。

 ミドルトン家の前任コックが別のお屋敷に移るというので、私が後釜を勤めることになった日の夕食のメニューは、奥様の希望でキドニーパイだった。

 昔にメモした手順と母の味付けを記憶から引っ張り出して(前任のコックは作り方を知らなかった)、作ったキドニーパイは、母の味と寸分違わない出来だったが、料理人としての初仕事に動揺していた私は、午後の休憩も落ち着けなかった。

 夕食後、食器を下げに来たメイドに、奥様がお呼びだと告げられた時には、心臓が縮んだ。こんなことはめったにない。きっと、不手際があったのだ。

「奥様、お料理がお気に召しませんでしたか……?」

 私は重い足取りで奥様の元に赴き、開口一番にそう尋ねた。

 尋ねてから、発言の許可をもらっていないことに気付き、さらには、エプロンを替えないまま奥様の前にいることに頬を染めた。せめて見苦しくないようはずすつもりが、なかなか上手くいかなかった。

「そうじゃないのよ、リネット。怖がらなくても良いわ」

 慌てる私を、奥様が軽やかに笑い飛ばした。わざわざ立ち上がって、私の肩を宥めるように撫でる手の暖かさに、ようやく落ち着きを取り戻した。

「今日のキドニーパイは本当に美味しかったわ。ここだけの話、何年も食べられなくて辛かったのよ。貴女の料理、私は好きよ。これからもよろしくね」

 奥様の言葉に、緊張の解けた私は腰を抜かし、そのまま立てなくなってしまった。

「まあ! 大丈夫!?」

 へたり込んだ私を支えきれずに、あたふたとする奥様を、私は見上げた。

「はい……はい、大丈夫です、奥様!」

 興奮して、私は力強く叫んだ。私の料理が初めて認められたのだ。なんて素敵なことなんだろう!

 もっと美味しい物を作りたい。奥様のためにできうる限りのことをしよう。腕を上げて、素晴らしい料理人になろう――私の決意は熾のように燃え続け、いまだに落ちる気配はない。

 母から教わることは沢山あり、奥様も尊敬している。ロンドンのお屋敷へ向かうまでもない。私はこの愛するレイフィールドを、離れるつもりなどなかった。


 階下での午後のお茶の時間が始まると、家政婦ハウスキーパーのミセス・ミラーが私を呼び出した。

「アンの怪我は大したことなかったわ」

 彼女の言葉に、私は胸を撫で下ろした。薬をもらった後、すぐに洗い場に戻ってきたアンの表情は暗かった。よほど酷いのかと気がかりだったが、状態を尋ねる暇もなかったのだ。

 ミセス・ミラーはお部屋でお茶を取って行きなさい、と私に勧め、素直に従った。

 料理人以外の上級使用人は、他のメイドたちとは別室でお茶の時間を過ごすことになっている。そこに私も混ざることになった。

 手際良く用意された席に着くと、執事から丁寧な給仕を受けるのだが、どうもまだ物慣れない。

「アンは注意力が足りないわね。遅刻も多いみたいだし」

 一杯目のお茶を飲み干したミセス・ミラーが口火を切り、私は同意する。半年間見てきたがアンは手際も、物覚えも良くない。いつも同僚のメアリに聞いてばかりだった。

「ミセス・ストー、ついでに言っておくけれど、食事をお出しするタイミングが遅れがちです。これはアンのせいばかりではないわ。厨房は貴女の管理下にあるんですからね」

「申し訳ありません、ミセス・ミラー」

 家政婦は全てのメイドの頂点に立つ存在だが、厨房だけは別だ。

 家政婦と料理人は同じ上級使用人であり、対等な関係を築くのが常ではあるが、ミセス・ミラーは私がスカラリーメイドの時分からミドルトン家を仕切る女性だ。対等と見なされるのが烏滸がましいほど、年季が違う。

「分かってるのなら良いわ。注意力が足りないと言えばハウスメイドの……」

 職務熱心が過ぎるミセス・ミラーは、この日の休憩も屋敷中のメイド評価を満足するまで延々と語った。

 苦々しい思いでお茶を終えた私は、足早に厨房に戻る。その途中、聞こえてきたのは「ミセス・ストーのアン贔屓にはうんざりよ!」というマギーの憤慨だ。

 ドア越しでも大きく響くマギーの怒声は、ミセス・ミラーの忠告を待つまでもなく、頭痛の種のひとつだった。

「あんな役立たず、ここじゃなきゃとっくにクビよ。バカの一つ覚えみたいにミセス・ストー、ミセス・ストー! やってらんないわよ。ミセス・ストーもお優しくていらっしゃること。本当に料理人コックに向いてるの?」

「やめなって。聞こえるわよ」

 窘める他のキッチンメイドの声にも、どこか嘲笑を含んでいるように聞こえるのは、私の心がざらついているせいだ。粉が上手く混ざらずだまになるように、出来事ひとつひとつの手順や加減を間違えているのだ。

 私はノックしかけた手を下ろし、ぐっとお腹に力を込めると、無言で厨房のドアを開く。私の唐突な帰還に、お喋りに興じていたマギーたちがぎょっとして口を噤む。そして、まるで見計らったかのように、厨房に隣接した洗い場からアンが飛び出してきた。

「ミセス・ストー! マギーさんたらひどいんです!」

「アン、また余計なことを!」

 涙ぐむアンと、目角を立てるマギーをそれぞれ見据えてから、私は息を吸う。

「アン、怪我が軽く済んで良かったわ。今回はたまたま大事にはならなかったけれど、火を扱う厨房での不注意は、貴女の命を危険にさらすの。今後は良く気をつけなさい」

 私の言を受けて、アンの表情に不満が過ぎる。居心地悪そうにしながらも、唇を尖らせた。

「でも、今日はマギーさんが……」

「甘えないで。アンは一生皿洗いをするの? それとも救貧院に戻るの?」

 ミドルトン家のメイドは、ほとんどが救貧院出身だ。昼は働き、夜の空いた時間や半休に、奥様から読み書き計算を教わる。見栄だけの慈善家が多い中、奥様は本物のレディなのだ。

 救貧院での生活は陰惨を極める。屋根のある部屋で眠ることが出来るだけでなく、まともな食事にありつけて、教育も施されるミドルトン家での生活は、救貧院とは比べものにならないだろう。

 アンは唇を噛みしめて洗い場に引っ込み、マギーが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「マギー、貴女もね。手抜きの仕事はすぐに分かるわよ。人を罵る前にするべきことがあるでしょう」

 なるべく冷静な口調で告げると、マギーの顔色が変わった。さっきまでの怒気はなりを潜め、わずかに神妙な色が宿る。

 水を差された厨房はしんと静まり返る。この気まずい沈黙を割り、時計の鐘が鳴る。ちょうど時計の針が十七時を指していた。それを確認した私は手を鋭く叩いた。

「さあ、ディナーの準備よ! ぐずぐずしないで!」


 ディナーの始まりを告げるのは、透明な琥珀色のコンソメスープ。アントレは鳩のパテ、ラムのミントソース、ヨークハム。舌平目は香草と焼き上げて、バターをひとかけら落とす。口直しの氷菓の後は、ロースト・チキンとロブスターサラダ。数あるデザートの中、この日の主役になるのは勿論、クリスマス・プディングだ。

 ディナー準備前の叱責が効いたのか、アンとマギーだけでなく、他のメイドたちの表情もきりりとし、遅れを出すことなく済んだ。

 夜の九時を過ぎて、無事に仕事を乗り切った使用人たちが、それぞれ一張羅を着込んで階下のホールに集まった。

 いつもは殺風景な部屋を綺麗に片づけてから生花で飾りつけ、沢山の燭台とランプが煌々と灯っていた。この賑々しい空気に、特に若いメイドたちがはしゃいでいるが、今日は咎める者もいない。

 やがて階下にやってきた旦那様と奥様は、ディナーの正装のままであり、まぶしいほどの気品を漂わせていた。常日頃つましい生活を信条とするお二人には敬意を感じているが、やはりこうした特別な装いを見ると、いっそう誇らしく感じる。

 ちらと周囲を確かめると、皆もそうであるらしく、目の輝きが違っていた。アンやメアリなどは普段、見かけることもない(彼女たちはまだ奥様の授業を受けたことがなく、メニューに使われるフランス語を教えるのは今のところ私の役目だった)からか、二人そろってぽかんと口を開けていた。

 旦那様は皆に日頃の感謝を述べると、ひとりひとりにプレゼントを配る。それが終わるとダンスだ。

 軽快なカドリールの音楽が流れ始めると、旦那様がミセス・ミラーにダンスを申し込み、奥様は執事のエスコートを受け、中央に進み出て一曲踊った。

 それからは無礼講だ。私も請われるままに何曲か踊ったが、宴が酣になるにつれて壁際の椅子に腰掛けた。中央ではしゃぐメイドや従僕たちを眺めていると、側に奥様がやってきたので驚いた。席を譲ろうとした私を制し、耳もとで囁く。

「リネット、こんな時だけど、ロンドンのお屋敷に勤める気はない? ここよりもっと広くて格式のある家よ」

 どうかしら、と問われ、私は俯いた。

 使用人は入れ替わりが激しい。五年と経たずに次の屋敷を紹介されて出て行く者が大半だ。十年も残っているのは私を含め、数えるほどしかいない。

「まだ、ここで学ぶことがありますから……」

 そっぽを向けたマギーとアンの姿を視界に収めつつやんわりと断ると、奥様は困ったように笑った。

「本音を言うと、リネットを手放すのは惜しいの。だけど、貴女はここに留まるべきではないわ」

 ……私の中に、もっと多くの人に食べてもらいたいという欲がないとは言わない。独立して店を持つという夢の熾火は都度、灰の中から顔を出し、私ならできると、背中を押してくれる人たちの期待に応えたい。

 でも、料理人になるには、味の善し悪しだけでは足りないのだ。部下を律せない料理人に、責任ある厨房を回す資格など、ない。

「結論は焦らなくて良いわ。貴女の一生のことよ、よく考えて。ね?」

 私は奥様の真剣な眼差しを、そっとかわすことしかできなかった。


 私は人目を盗んでパーティに浮き立つ使用人部屋サーヴァントホールを離れ、厨房に足を踏み入れる。灯りをつけると大量に積まれた食器類が姿を見せた。急に現実が蘇り、どっと疲れを覚えた。

 余ったミルクを温めて蜂蜜を垂らし、窓近くの丸椅子に腰を下ろす。ふと銀盆に残ったアントレーを摘み、豚や鳥の旨味が絡む複雑な味を舌に乗せる。想像通りの出来映えに頬がほころぶ。

 そうしながら、蒸かしたてのジャガイモの素朴な味を想った。真冬の朝、寒さに震えながらこっそり食べるほくほくとした食感は、また別格だ。

 白く曇ったガラス越し、降りゆく雪の静かさを捉えたくて耳を澄ましてみると、階下の明るい音楽と笑い声がかすかに厨房まで届いていた。

「ミセス・ストー」

 細い呼びかけの声に振り向くと、メアリだった。

「どうしたの?」

 私が促しても、メアリは口にするのかを迷っているのか、俯いていた。大丈夫だと宥めるよりも早く、メアリは意を決したように顔を上げた。

「あのっ……お屋敷を辞められるのですか?」

 問いかけてから、メアリはあわてて頭を下げた。

「すみません、ミセス・ストー。奥様との内緒話を聞いちゃって……」

「良いのよ。お話があるというだけで、まだ決めてないわ」

「そうですか」

 メアリは笑ったが、どこかぎこちない。まだ言いたいことがあるのか、立ち去る気配もない。私がメアリにミルクを勧めると、彼女は「いただきます」とちょこんと隣に腰かけた。

 メアリは熱いミルクを息を吹きかけて冷まし、一口含む。ややあって「美味しい」と呟く少女の顔からは緊張の色が溶け消えていた。

 メアリもまた、この静けさを味わうようにしばらく窓の外を見ていた。そのふっくらとあどけない輪郭を眺めていると、私がお屋敷に入ったばかりのことが思い出されて、懐かしかった。

 私の視線はあからさまだったのか、メアリがふとこちらを向いた。口を開く。

「わたし、いつかミセス・ストーみたいな料理人になりたいんです」

 そう告げるメアリの目は澄み切っていた。昔、母に同じ台詞を言ったことを思い出す。私も、こんな曇りのない眼差しをしていただろうか。

「だからもっと教わりたい。ミセス・ストーが、お屋敷から居なくなってしまうことを考えるだけでも寂しい。……でも、わたしも奥様と同じ意見です。ミセス・ストーは、本当に料理がお好きなんですから」

 メアリの励ましと優しさとが、私の中に染み込むまで時間がかかった。

「……ありがとう、メアリ」

 はにかんだ彼女は、恥ずかしさをごまかすためか、皿に残ったキドニーパイを勧める。私の道を定めた、記念の一品。今もまた、私の傍らに寄り添うようにそこにある。

 一切れ残ったそれをメアリと分け、お互いにひとくち含む。細かく刻んだ肝臓のこりっとした食感、口の中に残るほど良い苦み……うん、良い出来だ。

 示し合わせたようにメアリと二人、顔を合わせて微笑む。余韻を味わっているうちにパーティはお開きになり、メイドたちが興奮した様子で厨房に戻ってきた。

 山のような食器類を片づける仕事が明け方近くまで続き、長いクリスマスの日の最後を飾った。


 がらんとした厨房をつぶさに眺める。拭き清められた石床と作業台、真新しいペニー銅貨のような鍋の群。見慣れて久しい、整然とした私の原点。

 数時間後にはまたスカラリーメイドが火を熾し、レンジを丁寧に磨き上げる。厨房の火は一日も欠かすことなく燃え続け、料理の出来を左右する。

 私は別れを惜しむように、ひととき瞼を閉じる。しんと闇に沈む厨房はまるで、私に早く行けと促すように冷たい空気を吐き出していた。私は厨房に背を向け、燭台の灯りをそっと落とした。

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