二話

 中学生になる頃には既に希死念慮があり、以降消えたことがない。ひどくなる一方だ。ずっと、今も、自分は世の中に不要な人間だと思っている。

 気が付くと「死にたい」と考えているし、朝起きて天気がいいと「死にたいなぁ」と思う。それが日常と化している。

 だからいつ死んでも大丈夫なように、私は中学生の時から遺書を用意している。御守りのようなものだ。

 別に大切な言葉を伝えたい相手などはいない。昔は、責任の所在をあやふやにするための文面だった。今は、遺品整理に困らないような事務的な内容になっている。

 ただ、死んでまで迷惑をかけて、と言われたくなかった。


 わかりやすい困りごとは専らコミュニケーションであったが、今は様々な特性が周知されていて、当てはまる兆候は幼少期からたくさんあった。

 まず五感の全てが鋭敏だった。

 聴覚。

 昔から、先生の言っていることがわからなかった。指示を無視して動いてしまうこともあった。

 そもそも人の喋っている言葉が聞き取れなかった。ざわざわした音を全部拾って、すぐ隣で喋っている友達の言葉も耳に入らない。

 あまりにも私が聞き取れないというので、耳鼻科で検査したこともある。しかし、方法は健康診断と同じ、小さな音が聞き取れるかどうか。これは聞き取れる。むしろ音には敏感で、大きな音が怖かった。結果は当然のように問題がなく、ストレスだろうと診断された。

 会話がうまくできなかった原因はこれも大きく、幼少期仲良くしていた友達は、片耳が聞こえない子だった。お互いに聞き取りが苦手だったので、会話しやすかったのだ。

 テレビは密閉型のヘッドホンをつけて見ていた。他の音が耳に入ると、それがただの生活音でも、何を言っているのか聞き取れなかったからだ。

 大人になってから聴覚情報処理障害(APD)というものを知ったが、これも具体的な治療法はない。

 音響や体調によっては映画館が耐えられず、いつもライブ用の耳栓を持っている。

 視覚。

 なんだかいつも眩しくて、曇っていても信号が見上げられなかった。これは運転免許を取得する際にかなり苦労する部分となった。尚、身分証代わりに運転免許は取ったが、安心してほしい。ペーパードライバーである。ADHDは運転に向かない。当時はマイナンバーカードなどなかったので、身分証として運転免許が最も有用だったのだ。

 外はだいたい眩しいので、写真を撮ると、私だけいつも顔が歪んでいたりする。屋外だといつも不機嫌に見えていたのだと思うと、だいぶ凹む。

 スーパーにいくと、ライトが眩しくて肉や魚のコーナーは見られなかった。見ると目の奥がずきずきする。けれど視力検査では、乱視と近視以外に問題があったことはない。

 パソコンの彩度や明度はいつも最低まで落としている。共用パソコンだと、設定を元に戻すのを忘れると怒られるし、他人が使ったあとは目が眩んで暫く気持ち悪かった。最近ではアニメやドラマもほとんどをパソコンで見るのだが、彩度を落とすと暗いシーンはほぼ真っ暗になり何も見えない。しかし彩度を上げると、暗いシーン以外が目が眩んで見れない。地味に困っている。

 嗅覚。

 化粧品や香水の匂いが駄目だった。酔って眩暈を起こすので、デパートの一階に入れなかった。化粧品の匂いが詰まっているからだ。電車で隣に香水のキツイ人が座れば、退くしかなかった。

 これに関しては、アレルギー鼻炎の影響もあるのか、大人になってからは多少緩和している。化粧をせずに社会には出られなかったので、慣れるしかなかったというのもある。しかし今でも、やはり臭いのきついものは苦手で、夏場の電車ではよく酔っている。

 触覚。

 ちくちくする服が駄目だった。アクリルの服が着られないので、冬はもこもこした服に憧れた。いつも綿100%の服を探していた。

 タグも苦手なので、ちまちまとニッパーで外したり、気にならないものを探したりしている。最近は布に直接印字された肌着が増えて助かっている。

 味覚。

 これは大きく困ったわけではないが、酸味や苦味に敏感だった。臭みにも敏感で、スーパーの肉は獣臭くて食べられなかった。子どもにしては珍しく、生クリームやマヨネーズも駄目だった。油分が駄目だったらしい。

 ジャンクフードの影響で、このあたりは大人になってから割と改善されている。ただ今は胃が弱いので、油は少々苦手め。たまにストレスで胃炎や過敏性大腸炎を起こす。


 他に大きな特徴として、起立性調節障害があった。

 低血圧で、意志に関係なく毎日朝起きられず、遅刻ギリギリになることや欠席が多かった。比較的成績が良かったにも関わらず、内申に響いたのはこのあたりが大きい。

 保健室の世話になることも多く、当時の保健室というのはあまり親切な場所ではないので、余計に心理的負担が大きかった。

 立ったままの朝礼ではまず眩暈を起こす。また、体育祭の練習では軍隊と言われるほどの中学校に通っていたため、体育祭期間中はしょっちゅう保健室行きになっていた。

 ちなみに平成だが、やはり炎天下、休憩や水分補給は自由に取れなかった。 

 起立性調節障害は小児に多く見られる特徴らしいが、大人になった今でも残っていて、午前中は基本的に体調が悪い。起きて一時間以内に朝食を取ると自律神経が整うらしいが、起きて二時間程度は胃腸が働かないので、朝食は食べないか、出先で食べる。

 夜更かしは得意で、完全なる夜型。本人の体質に合わせるなら、明け方に寝て昼頃起きるのが一番合っているのだが、世の中の生活と合わないので無理やり朝型生活にしている。そのため慢性的な不眠症で、睡眠導入剤が手放せない。

 ぐっすり眠れたことがない。常に体調が悪い。元気な状態というのがわからない。休日は半日以上、下手すると一日中ベッドから起き上がれない。

 

 当人は大変困っていたので、これらの問題は学生時代常に親に訴えていたが、当時はただのわがままだと捉えられていた。今もそうだと思っているだろう。

 欠席が多いため中学の先生が睡眠障害を診てくれる病院を教えてくれたこともあったが、自分で予約の電話をしたら初診が半年待ちだった。学生の半年は大きい、卒業までに治療の見込みがないため諦めた。

 成績は良かったので、学業面で怒られることはほとんどなかった。それも、問題視されなかった原因かもしれない。

 学習で問題が起こったのは、高校の数学だった。数学だけが、異常に成績が悪かった。

 発達障害は得意不得意が分かれやすい。けれど私が女子だということもあり、理数は苦手くらいにしか思われなかった。

 数学教諭が、生徒に嫌われていたのもあったかもしれない。数学教諭が、というより、他の科目でも生徒になめられている教師が数名おり、学級崩壊になりかけていた。

 端的に言うと、高校は治安が悪かった。

 その治安の悪い高校に進んだことで、私の精神は決定的に壊れることになる。

 

 高校生の頃、いじめのようなことがあった。不登校になりかけたが、そんなことは許されず、引きずるようにして学校に連れていかれた。その時初めて、心療内科にかかった。心のどこかで、プロに対する期待のようなものがあった。親や先生とは違うことを言ってくれると思った。アドバイスを受けたら、現状が変えられるような気がした。

 そんな魔法の言葉はなかった。心療内科の医師の言うことは、学校の先生と同じだった。あなたが変われば、周りも変わる。つまり、いじめられる側に問題があるから、こっちがまず変化しろ、と。

 今後もカウンセリングを受けるなら、何時間いくら、と金額を提示された。アルバイト代では継続的にそんな金額は払えない。セカンドオピニオンも受けたがどこも同じ感じだった。改善するとは思えなかったので治療は諦めた。


 親に理解されず。教師に理解されず。医師にも理解されず。

 私は全部諦めた。自分のことは、自分でなんとかするしかない。

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