エピソード サイナ

一沢

第1話

 揺れる車のトランクで背中の傷に痛んでいた。

 肩口から腰まで切り裂かれた傷は深く、血が止まらなかった。だけど、もう溢れていない。傷が治ったのではない、火であぶられ傷口が焼き爛れていた。

「痛い……」

 もう手錠は外されていた。けれど、手首の輪はそのままに結ぶ鎖だけ砕かれている。鉄の輪は強靭で冷たく、手首に傷が出来てしまっている。しかし、あれだけ引きずられたのだ、手首から先が無くなってもおかしくなかった。そう思っていた。

 裸足の足先の爪は剥がされ、親指は青黒く変色している。血は既に枯れていた。

「寒い……」

 毛布ですらない。ただの埃避けに包まった自分は、あまりの寒さに歯が閉まらない。身体中が自分の意思に反して揺れ動く。僅かでも体温を作り出そうと、そして持続させようと反応している。拳を作る為、手を握るも、やはりあまりの痛みにすぐ解いてしまう。爪は砕け、剥がされている指が何本もある。

「……ああ、痛い」

 横になる事すら辛い。やせ細った身体には肉がなく、骨が突き出ているからだ。

 車が揺れる度に骨がトランク内にぶつかり、肘やあばら、膝を削り取っていく。殴られ、鋭い革靴で貫かれ、あぶられた皮が酷く痛む。どれだけ細くなっても痛覚だけは明確に残っていた。握りつぶされた胸が痛いのは、いつからか忘れてしまった。

「痛い痛い痛い———ッ!!!」

 胸の血管が千切れていく。肉が粉々に砕けていく。噛み砕かれた先から血が噴き出す。自分よりもずっと年上の男達に散々握りつぶされたというのに、なおも痛みは心臓まで私を貫いた。これだけは価値があるな———そう、ほくそ笑んで。

「—————苦しい」

 目を閉じる。いっそここで終わってしまって欲しい。涙すら枯れた自分には、何も残っていなかった。多くの人間にいたぶられ、見世物にされ、踏みつけられた。腹の奥底が痛むのは、きっと外からも内からも抉られたから。

「……傷だらけ」

 手のひらには深い溝があった。真一文字に裂かれた手のひらは血の塊がこびり付き、周辺の肉も青く変色している。これは血が足りないだけじゃない、腐っている。視線を手首まで移すと、手錠の痕が残り、それより下は靴底の痣が克明に残っている。青い太い血管が傷つかずに放置されていたのは、私が死ぬとつまらないからだ。

「外……」

 車のエンジン音が聞こえる。排気ガスの匂いが鼻を突いている。

 いつから自分は外に出ていない。いつから日に当たっていない。目蓋を開ける事すら激痛が走るこの顔は、火以外の明かりをもう忘れてしまっていた。草の匂いも、ビルの高さも、月明かりも、記憶の奥底に沈んでしまっている。もうノイズだらけ。

「……オーダー」

 私の餌係が、いつもの様に人の眼を盗んで私を数時間嬲った後だった。

 古くから我が家に仕えていた————私の爪を剥がした————使用人が私を布に包んだ。布の摩擦にすら痛みが走った。だけど声を出す気力も体力もなかった。きっとこのまま廃棄される。食べされたゴミみたいに燃やされて塵になると悟った時だった。

「あなたはオーダーに行く————」

 意味が分からなかった。オーダーは私をこうした元凶なのに。今度はオーダーに嬲られるのだろうか。きっとつまらないだろう。こんな死に掛けで純潔ですらない、焼き爛れた肉の塊なんて。慈悲の心すら持つことはないだろう。だって、醜いから。

「———私、死ねないのね」

 止まった車の周りからエンジンの音が多く聞こえる。巨大な道路の中央辺りにいるらしい。再度動き始めた車に揺られ、肩の傷に口を閉じながら目を閉じた。

 


「起きて下さい————」

 目が覚めた。こんなにもゆっくり声を掛けられたのは久方ぶりだった。

「どうか、目を。私を見て下さい———」

 ゆっくりと目を開ける。そこには————。

「また。爪を剥がすの……」

 あの部屋で、私の爪をペンチで引き剥がした一人が立っていた。

「……もう爪はない」

 赤い鮮血が噴き出すのを覚えている。どれだけ叫んでも、やめる事はなかった。そこで気付いた。暗い部屋の奥には多くの大人の男が屹立している事に。皆、手を叩いて笑っていた。顔を見せない彼らは、三枚目が剥がされた時、自分もとペンチを使って親指の先に手をかけたのを覚えている。未だに、その光景が目に焼き付いている。

「———しません。もう、あなたには」

「……そう」

「目を閉じないで。どうか、起き上がって下さい」

 そんな気力はなかった。そして、望んで痛みを迎える筈もなかった。何度も殴られた臀部は、もう座れる形はしていない。横になっているのは、座れないから。肉を無くした部位は骨が浮き上がる。骨だけで座るのは、あまりにも痛かった。

「お許し下さい。——いえ、私の言葉を信じないで下さい。だけど、どうか……」

「反応が無いと、つまらない?」

「違います。違うのです。だけど、どうか。せめて立ち上がれる姿をお見せ下さい」

 逃げないようにと、私の脛は既に砕かれていた。脛を折られた時の絶叫を、うるさいと口に布を噛ませたのも、この人だった。だから、起き上がれる訳がない。

「………今度はどんな罰を」

「罰なんて。あなたは何も罪を犯してなどいません。あなたは、いつも笑って、」

「ふふ……」

 言われれば笑う。そう脳に染み付いてしまった。笑え、誘え、抵抗しろ。多くがこの三つだった。求められた対応に届かなければ、罰として火と殴打を。叶えば痛みを。ご褒美と言って、私を使う。反応が無ければ、つまらない———。

「や、やめて下さい。もう、その顔はおやめください。あなたは、もっと」

「もっと笑う?」

「そうでは、ない、ないのです。私は、私は————」

「じゃあ、誘う?ごめんなさい、今すぐ唾液で———」

「いいんです。もう、やらなくて。あなたは、これからオーダーに」

「————これからはオーダーの相手を?」

 切り裂かれ、乱れている髪に触れられる。今度は髪ごと皮膚を剥がされる。そう覚悟したというのに、その手はただ撫でるだけで止まってしまった。

「こんな、こんなに痛んで……あなた様の髪は、あんなにも美しかったのに」

 そう言ってすすり泣いてしまった。手を目に当て、膝をついてしまった。

「————取り返しのつかない事をしました。優しかったあなたを、私は苦しめた。許してくれとは、いいません。どうか、いつか私を裁いて下さい。どのような罰でもお受けいたします。どうか、同じ目に合わせて下さい————」

 分からなかった。何故、この人は私の前で泣いている。あれだけ無表情で私の首を絞めて、気絶したら痛みで起こしたのに。どうして、懺悔などしているのか。

 そこで、ようやく今の自分が見えてきた。私の寝床は剥き出しのコンクリートの上だったのに、今は柔らかなベットの上で、分厚い毛布が掛けられている。ずっと付けられていた手錠の輪も、いつの間にか外されて、手首には包帯が巻いている。

「オーダー……?」

「許し難い事は承知しております。オーダーが家主様を連れ去り、今の当主様にあなたの血を知らせてしまった。理解、しています。だけど、もうこれしか考えつかないのです————。この愚か者の言葉を、今だけは信じて下さい」

 オーダーが私の血を知らせた。そうか、今まで知らなかった。

「……オーダーに、私を渡して、どうする気?お兄様とお母様は?」

「家主様の事も、当主様の事も、奥方様の事も、どうかお忘れ下さい。もう、あなたは自由に————自由に生きて下さい。もう、あの家に縛られる理由などないのですから」

 私が自由?自由とは、一体なんだ?

「食事なしの罰は、まだ続いている筈」

「思い出して下さい。あなたは、もう13歳。もう中学生になるのです。本来ならもっと早く、早くに初等部にお送りする筈だったのです。この愚か者には時間が見つけ出せなかった。ご当主様に、側近の使用人、ご学友の方々がいない日は、今日しかなかったのです。明日、試験があります。それに参加し、合格して下さい」

「試験?」

「オーダーの試験は、最低限の読み書きと運動能力さえあれば。そして年齢さえ揃えば資格を授与されます。例外は、罪を犯し、送致、有罪を受けている者です」

 やはりわからない。そんな事を説明して、何の意味がある。

「だから、どうかお立ち下さい。そして文字を思い出し下さい。そうすれば、あなた様はオーダーになれる」

「……オーダーに?」

 ぼやけていた視界が、ようやく鮮明になってきた。高い白い天井には、明かりが煌々と輝き、あの火しか明かりのない部屋とは全く違っていた。過去に自分の使っていた部屋を思い出す。試しに視線を右に動かせば、明るい日が窓に降り注いでいる。

「試験には難しい漢字も、複雑な計算もありません。本当に、オーダーは最後の拠り所なのです。この場所を逃せば、もう行き場はないのです。私も、すぐに戻らねばならない。だから、どうかオーダーと成り、名前を奪われて下さい」

「名前?」

「あなたの苗字です。オーダーは、人権の一部を制限される制度があります。銃や剣を扱う、本来なら非合法な組織だからです。名前を奪われる代わりに、あなたには多くの権利が与えられる。逮捕権、銃保持許可、刀剣保有許可、帯銃帯剣許可」

「銃?」

「オーダーには、一般科目以外に、銃を使用する授業があるそうです。そして、オーダーの試験料は既に振り込ませて頂きました」

 言っている意味が、少しわかってきた。私にオーダーになれと言っている。そこは理解した。だけど、何故?どうして私がオーダーにならなければならない。

「オーダーになって、どうするの?」

「オーダーは銃を持てる。ご自分の身を守る為に、銃を扱えます。そうすれば————ああ、分からないのですね。本当に———」

 また泣いてしまった。わからない、私に何を求めているのか、何もわからない。鳴けばいいのか?笑えばいいのか?抵抗して、手籠めにされればいいのか?正直、混乱している私がいる。再度、手を見るとやはり血の塊が手のひらに固まっている。

「今は何も考えないでいいのです。オーダーは、犯罪の可能性がある組織には絶対に靡かない独立捜査機関です。あなた様の事が知られれば、オーダーは決してあなたを手放す事はしません。あなたは、オーダーに保護され、いつか犯罪を取り締まる側になる」

「犯罪?ああ、やはり私は悪い事をした」

「……いいのです。今は、それだけで。どうか私めの話に従って下さい」

「従う?ああ、言う事を聞けと。じゃあ、私は何をすればいいの?」

「……今は、起き上がって下さい。そしてシャワーをお使い下さい」

 そう言って、私の爪を剥がした人は、私にタオルを渡した。

「水。飲んでもいいの?」

「いいえ、お飲みにはならないで。すぐにご用意します。シャワーは飲むものではなく、身体を洗い流すものです。痛いかもしれません。しかし、その血と体液をお流し下さい」

 せっかくの水なのに、ただ身体を流すなどもったいない。

 だから、私は砕けた足も無視しゆっくりと起き上がる。やはり脛から痛みが走る。痛みだけで吐き気を催すも、吐き出すものはずっと前からなかった。いや、あるにはあったが、過去にそれをして、顔に吐き出して酷く嬲られたのを思い出す。

 指し示された部屋へ入ると、汚れていないタイルを久々に見る。いつも、私の血と体液で汚れていたのに。————ふと、違和感を覚えた。だから、扉を開ける。

「あの、どうして見ないの?どうして時間を測らないの?」

 いつもシャワーの時間は3分。そして、知らない男達は、いつも————。

「……いいんです。何時間でも、いえ、申し訳ありません。湯舟を溜めておくべきでした」

「湯舟?お風呂なら顔を———何時間でもいいなんて。どうして?」

 それから、何も言わなくなってしまった。わからない私は、とりあえずシャワー室に戻り、ハンドルを捻って水を出す。数日振りのシャワーはとても冷たくて気持ちが良かった。言われた通りに、血を流し身体を擦って体液や汚れを洗い流す。

 貰ったタオルを使い身体を拭き、ひとまずシャワー室から戻る。

「お上がりになりましたか。では、」

 言いながら私の髪にタオルを被せた。傷が付かない様にタオル越しにするのだと悟り、目を閉じる。だが、拳は振り下ろされない。何故?そう思って目を開けると、

「何故、どうして、こんなに冷たいのです……。お湯は?」

「お湯?お湯は許可がないと」

 まただ。また跪いてしまった。私の髪に触れ、今度は腕に触れる。

「もう一度、シャワー室にお入りください」

「何故?もう身体は流したのに」

「お湯を使い、備え付けのシャンプーや石鹸をお使い下さい」

 言いながら立ち上がったその人は、私と共にシャワー室に入り、服のまま濡れる事も構わずにハンドルを使ってお湯を流した。湯気と共に流れるお湯のしずくが腿に当たると、とても暖かかった。だけど、火であぶられた箇所に当たると、酷く痛んだ。

「———は。申し訳ございません。痛みますか?」

「平気。火もお湯も、もっと熱いし痛かったから」

「……失礼ながら、私にはこれが限界です。どうか、ご自分で身体をお洗い下さい」

「ん?自分で?」

 言うな否や、外に出て行った人には疑問しか浮かばなかった。

 仕方ないと、昔の様に石鹸やシャンプーを使って身体を再度洗浄する事にした。なんとなくわかってきた。過去にとても身なりが良い大人がお兄様に連れられて来た時、私を見て「こんな汚いのが相手か?」と指さした。

 だから、女性の使用人————私の髪を引っ張って引きずった————を使って身体を隅々まで綺麗にした。あの時も石鹸やシャンプーを使ったが、傷に染みてとても痛かったのを覚えている。だけど、もう痛みには慣れたものだ。

 つい長居してしまった。慌てて飛び出すと、その人はまた私の頭にタオルを乗せる。仕方ないと受け入れてると、優しく髪の水分を拭き取って、腕や足にも沿わせる。わからなかった。人が手を頭に乗せるのは、振り下ろす為ではないのか?

「それで、今日は何をすればいいの?あなた?」

「オーダーの問題集を用意しております。どれも、とても簡単な物ですので、あなたなら思い出せば、問題なく解けるでしょう。さぁ、まずはお着替えを」

 と、言いながら鮮やかな服と白い下着を手渡した。

 前によくわからない服とも言えない布を着せられたのを思い出し、受け取る。

 下着は若干きつかったが、問題ない。そして、しっかりと厚手で長い袖は傷を隠した。お湯を浴び、服を着ると今まで寒かった肌が一気に温まるのを覚える。

「では、席に付いて下さい」

 指示された椅子に座ると、やはりお尻が痛かった。骨盤に直接痛みが走るのがわかる。だけど、この程度なら我慢できた。あのギザギザ、ゴツゴツした椅子とは比べ物にならない。机の上に広げられた本には、文字と数字と羅列していた。

「わかりますか?五十音図は、覚えていますか?」

「わかるけど、どうして?もうお前には必要ないって言われたのに」

「これからは必要になります。ゆっくりと思い出して下さい」

 分かるには分かるが、数年振りの本に私は嫌悪感とも言えない違和感を覚えた。

 しかし、オーダーになる為には、これが必要との事でどうにか文字を思い出し、声に出してみる。1ページ全て正解とはいかなかったが、これは合格ラインとの事。

「おぉ、流石です。文字は形として、音としても覚えていたのですね。しかし、まだ不安定な部分はあります。次は私の真似をして、再度文字を思い出して下さい」

 それから一時間程、文字や数字の思い出しを行った。確かに、簡単ではあったが久しぶりのペンに手が痛む。握り方を忘れているのですね、と正しい持ち方を知らされる。しばらく、食べ物か柔らかい肉しか触ってきていない所為だ。

「ああ、懐かしい。昔は、こうやってお教えしておりました」

 嬉しそうに頭を撫でてくる————。

「ど、どうされました?」

 思わず叩き落としてしまった。

「あ、ごめんなさい。手が勝手に———」

「———いいのです。そう、これからもそうであって下さい」

 反射だった。罰を受けると思い目を閉じるも、この人は何もせずに「次の問題を」と言ってくる。頭だけは守ろうと思っていた過去が戻ってしまった。もう、しばらく忘れていたというのに。———それからも、この人は私に問題を解かせ続けた。

 そして、気付けば窓の外が暗くなった頃、この人が苦しそうに言った。

「申し訳ありません。私には、もう時間がありません」

「時間?では、帰るの?」

「はい。ですから、明日はあなたひとりで試験会場に向かって頂きたい」

 言いながら私にスマホを見せた。そこには、地図が映し出されている。

「明日の午前10時。この試験会場に向かい、テストを受けて下さい」

「そうすればいい?」

「はい。そうすれば、あなたは晴れてオーダー。もう家に戻る必要はありません」

「どうして?」

「考えなくていいのです。あなたは、オーダーとなり、あなたの人生を取り戻して下さい。私に出来る事は、これで最後です———」

 わからない、と首を捻っている私に、

「このホテルは、出来る限り試験会場に近い場所を選びました。会場はこの目の前のバス停から迎える筈です。おおよそ30分程度。きっと多くの子供が向かうでしょう。その人の波に付いて行って下さい。————そして、これをお渡しします」

 苦々しそうに。胸ポケットから黒い塊を手渡した。

「銃?」

「ええ。銃です。ですが、その時が来るまで誰にも見せてはいけません」

 重い鉄の塊は私の手にはとても大きかった。重くて、つい落としそうになると下から両手で支えてくれる。まただ、再度手を振り払ってしまう。

「ええ、それでいいのです。鞄は用意しておりますので、後で隠して下さい。それは————いずれあなたのお兄様は向けるべき銃。ただの銃と思ってはいけません」

「お兄様に?」

「あの方は————いえ、あの家は何か底知れない事をしようとしている。私には、到底止める事はできません。しかし、その銃とあなたならば、必ずや」

 それだけで止まってしまい。その人は「出来る限りの復習をして下さい」と去ってしまった。あまりにもあっけなく行ってしまった所に、私はただひとりだった。

「ひとり?監視は?今日は、誰も来ないの?」

 急な事態に、また混乱するも、言われた通りに問題集を解き始める。徐々に頭の記憶が開かれていく。ペンの握り方も思い出し、文字と数字の楽しさを思い出し始めた。まるで自由だった。求められるままに問題を解き、考える時間がとても楽しかった。思うままにペンを走らせていると、扉が叩かれる。

「今日の相手?」

 と思い。ドアを開けるとワゴンを押した女性が立っていた。

 基本的には男性が私を嬲っていたが、女性の時も時々あった。過去にはリボンばかりの服を着せられたのを思い出す。しかし、女性はワゴンを押しながら入室すると、「お時間と成りました為、運ばせて頂きました。後で回収するので、食べ終わったらドアの外に置いておいてね」と言って、出て行ってしまった。

「これ、なに?」

 柔らかな布とカバーに隠された何かは湯気を上げている。気になったが、罰を与えられると思い手を出さずに再度机に着くと、良い香りが鼻に届く。

「———罰なら後で受けよう」

 しばらくワゴンの周りを歩きづつけ、我慢できなくなった私はカバーを外した。そこにはアルミホイルで巻かれた何かがあった。匂いの発端はここだとわかり、手で開く。そこには、蒸された魚と切られたレモンが待ち構えていた。

「ああ、久しぶり。そっか、これはご飯だった」

 しばらく、パンか匂いのキツイカリカリしか食べていなかったから、調理された食事、温かな食事は久しぶりだった。だけど、これは誰の為?そう考えて離れるが、どうしても気になった。魚の白い美しい色とレモンの芳醇な香りに、頭が絆される。

「———あの人は帰っていった。なら、これは私の?」

 自分への言い聞かせだった。だけど、手が伸ばせなかった。

「ああ、そうだ。フォークとナイフ————」

 銀色に輝く食器に触れた時だった。自分の顔が映し出された。

 広いテーブルと輝く銀食器。自分の為に用意された一通りの食事。与えられていた部屋と柔らかなベット。大好きだった人形に、友達だった人。そして———。

「————忘れてた。そう、私は」

 名前をしばらく呼ばれなかった所為だ。自分の、この数年間前の記憶を取り戻した。そうだ、自分はあの家で当主の娘として生きてきた。ずっと楽しく、あの時まで過ごしてきた。使用人と朝の挨拶を交わすのが楽しかった。わからない問題を尋ねるのが、あの人達に頼るのが嬉しかった。———だけど。

「………私、本当は愛されていなかった」

 家族は私を視界にも入れてくれなかった。お父様もお母様も、私を無視し使用人に常に押し付けていた。だから私は、あの人達に甘えていたのだ。私の好意をあの人達は返し続けてくれた。だけど————オーダー、が来て変わってしまった。

「お父様がいなくなった。お母様は何処かへ行った。残ったのは———」

 ご当主様。兄がそれになった時、全てが変わった。

 部屋に鍵を付けられ、何故と振り返った時だった。

 気付けば服を剥ぎ取られ、あの暗い部屋で手錠を掛けられていた。あまりの暴力、空腹、狂気に絶望した。毎日繰り返されるライターの火と熱い鉄の棒と刃物、鞭と拳に恐れて記憶に蓋をしていた。自分は、昔からこういう扱いだったのだと。

「———ああ、傷だらけ」

 手を見つめる。切り裂かれ、ペンを握りしめた所為で血が滴り始めた手だった。足も黒く変色し、脛が砕けている。痛みに慣れ過ぎて痛みを忘れてしまっていた。

「そう、この長袖は傷を隠す為」

 服を脱ぎ、シャワー室に入る。自分を映す鏡は何も容赦はなかった。

「傷だらけ」

 火傷、打撲、切り傷を中心に身体中をありとあらゆる傷が覆っていた。自分で自分を気遣うなんて、久方ぶりだった。自分を抱く為に腕を回すも、その腕すら深い傷が刻み込まれている。試しに一番身近な傷———数日前に踏みつけられた腕の内側に触れてみる。

「————痛いッ!!」

 脳が麻痺しそうだった。あまりの痛みにしゃがみ込んでしまった。

「…………こんなに痛かったなんて」

 下着を脱ぎ、再度鏡の前に身体を晒す。左胸に残る、手の形のうっ血痕。青黒く変色している胸は、決して快いものではなかった。千切れる寸前まで握り潰された記憶が走馬灯の様に過る。暗い部屋から連れ出された時だった。兄の部屋に突き飛ばされた私を待っていた兄は、私の腕を掴んでベットに引き上げ————。

「痛かった……」

 軽く触れてみる。酷い鈍痛が胸どころか肺にまで届いた。全神経が連結している気がした。歯を食いしばり、痛みに耐えながら鏡を見続けた。

「………許さない」

 右腿の火傷は兄の友人が付けたもの。ライターとタバコを押し付けられた痕。

 左わき腹の巨大なうっ血跡は、若い男性の使用人が私を蹴り飛ばした傷。両腕に残る爪の食い込みは、私の餌係の使用人が私の乱暴し、抵抗しなかったからつまらないと残した証。そして、背中に今もうずく巨大な切り裂き傷は、兄が骨董品の軍刀で残した所有権。指も、手の甲も、爪も、胸も、脛も、足の親指も、股も、腹の奥の痛みも、異物感も———全て全て奴らに残された傷。何もかも思い出した。

「………許さないッ!!」

 自分が化け物になった気分だ。目を見開き、血走らせ、牙を剥き、砕けた指と無い爪で拳を作る。到底、自分は少女とは言えない。私は、あの家の人間だ。狂気に堕ち、人間を食い物にする徹底的に狂った家系の血族だ。だけど、私はそれを超える。

「殺すだけじゃない。何度も殴って、何度も嬲って————」

 私は狂った。言葉と文字と数字を取り戻した私には問題集など要らなかった。

 シャワー室から戻った私は下着を整え、服を着、用意されている食事をナイフとフォークを使い口に運ぶ。完全に思い出した。何度も教え込まれた食事の手順をただ取り戻した。魚の味を思い出した、レモンの酸味を取り戻した、なお足りない私はワゴンも放置し、鍵も掛けずにホテルの外に飛び出す。

 止める声も聞こえたが、私は何も感じなかった。裸足のまま飛び出した私は、その足でチェーンのレストランへと踏み込んだ。銃を入れた鞄をあさり、数枚の紙幣を手に机を占拠し、ただ焼けた肉を頼んだ。ハンバーグにチキンソテーにステーキ。

 胃袋がエネルギーの塊を欲していた。運ばれる端から全てに喰らい付き、全てを飲み込んだ。そして、通報されたオーダーが私を保護する。

 当然だ。翌日、試験があるとは言え、裸足の小学生がファミレスで一人豪遊しているのだから。何処から来た?どうやって来た?ゲートはどう掻い潜った?そんな事を行政区とやらの一室で聞かれたが、私は置いてあった菓子に飛びついた。

 渡されるお茶を飲み干し、治療してくれる足も無視し、ただ食事を続けた。

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