6 ジルベール騎士爵代行 アニエス その4
夕闇が王都シリエットの尖塔を紫色に染める頃、私は他の騎士見習いたちと共に、王宮の奥深くに佇む壮麗な礼拝堂へと導かれた……この時代の権力者は、自分の館の中に礼拝堂を用意することを是としている……教会と仲が良いですよ、というアピールのためだ。
館の使用人が持つ燭台の明かりが、長い石の廊下に揺れる影を落とし、これから始まる儀式の厳粛さを際立たせている。いよいよ、騎士叙任式に向けて行われる「徹夜の祈り」が始まるのだ。
礼拝堂の重厚な扉が開かれると、ひやりとした神聖な空気が肌を撫でた。
内部は想像を絶するほど荘厳で、高い天井は星空を模した紺碧のフレスコ画で覆われ、磨き上げられた大理石の床は、壁際に並ぶ無数の蝋燭の光を鏡のように映し返している。
祭壇には金糸で刺繍された布が掛けられ、その上には巨大な十字架が鎮座し、両脇のステンドグラスからは、沈みゆく太陽の最後の光が色とりどりの帯となって差し込んでいた。
空気には、古くから欠かさず焚きしめられてきたであろう乳香と、蜜蝋の甘い香りが満ちている。
ううむ、さすが王宮。
金のかけ方が違う。
私たちは司教の指示に従い、祭壇の前に等間隔で並べられたクッションの上に膝をついた。簡素な白いリネンのローブ越しの石床の冷たさが、これから始まる長い祈りの時間を予感させる。
周囲の騎士見習いたちは皆、祭壇の前で緊張と敬虔さが入り混じった表情で固く目を閉じ、両手を組んでいる。
結構な大所帯だ……当然と言えば当然だが、サーモ伯爵が先導を務める以外の騎士見習いたちも来ているのだろう。
私もまた祭壇の前に自らの剣と盾……父、ダミアンが使っていたもののおさがり……を置くと、深く頭を垂れ、静かに祈りの姿勢をとる。
「主よ、我らが剣を汝の正義のために。我らが力を弱き者のために。我らが命を王と王国のために捧げんことを」
司教の朗々とした声が礼拝堂に響き渡る。
我々は沈黙の中で神への祈りを捧げる。
祈りは、騎士としての自覚を持つためのものであり、騎士の使命と神の意志を結び付け、過去の罪を悔い改め新たな人生を神に誓うのだ。
さて、私はいかにも敬虔な信徒でござい、という具合に祈りの姿勢は崩さないまま、その実、内心では全く別のことを考えていた。
この壮麗な礼拝堂、厳格な儀式、神聖な雰囲気……これらすべてが「騎士」という特権階級の権威を維持するために必要な装置なのだろう。
人々に対して、騎士がただの腕っぷしの強い乱暴者ではなく、神に選ばれ、道徳と秩序を体現する特別な存在であると見せつけるための、壮大な演劇だ。
いやまあ、それが必要だというのは解る。
人が意識を切り替えるには、こういったイベントというのは必要不可欠である。
前世において、わざわざ金と時間を使って入学式なり入社式なりを行っていたのも、その式を通じて「今日から自分はこの組織の一員となるのだ」という意識を持たせることが重要なのである。
明確な線引きを行うことで、当人に自覚を促すのだ。
そして、対外的にも必要な儀式であることは疑いようもない。
荘厳な礼拝堂で騎士としての宣誓を行い、一晩中祈りを捧げる姿は、正しく騎士の姿として相応しいという印象を周囲の人間に与えるわけだし。
反対に、あまりに見すぼらしく簡潔かつ杜撰な方法で、まるで流れ作業でハンコをつくように騎士として叙任されたとして……そんな騎士を果たして、末端とはいえ仮にも貴族だと他の貴族らが認められるかというと怪しいし、そんな騎士に従う領民がいるのかというとそれも怪しい。
斯様な厳かな儀式により洗礼されたのだから、貴族たちは騎士のことを自分たちの仲間だと認めるわけだし、領民たちは自分たちの領主のことを誇りに思うことが出来るようになるわけだ。
それに、恐らくだけど……この世界には神様が居るしな、客観的に見てちゃんと祈っておいた方が良いだろう。
いや前世にもいたかもしれないが。
そうでなければ、前世の記憶を持つ私のような存在がここにいる筈もなし……少なくとも私は、神の存在は確信している。崇拝するかどうかはともかくとして。
とにかく、この儀式が必要であるということは解る。
不可欠であるということは重々承知している。
しているのだが。
しかし、この演劇はあまりにも金がかかりすぎる。
この礼拝堂を維持する費用、儀式で使われる祭具や衣装、そして司教たち聖職者への潤沢な寄進。
これらすべてが騎士たちや、あるいは我々を支える領主なり領民の負担となるのだ。
例えば、騎士見習いたちが儀式の際に身に着ける白いチュニック。
リネンで作られたこれは、それだけならそこまでは高価な代物ではない……のだが、儀礼用だからと刺繍を入れたものにすれば途端に跳ね上がる。
祭壇に捧げる剣や盾など、語るに及ばずだ。
剣の一振りでも、鈍らではない物を用意しようと思うと、貧乏な騎士だと数か月分の月収くらいは余裕で消し飛んでいく……本当に普通の剣でそれだからな、文様とか家紋とかを入れようとすると値段は鰻登りだ。
鎧とかになると余裕で年収を超える……もはや前世における黒塗りの高級車と価格と変わらん。そこそこ裕福な騎士でも真っ青になる出費である。
前世の記憶によれば、まさしくこのように儀式と装備がどんどん高尚で高価なものになっていった結果、経済力のない中小の騎士階級は没落していくんだよなぁ。
代わりに金で雇われ、より実利的な戦い方をする傭兵たちが戦場の主役となっていった……という流れだった気がする。
勿論、金がないから騎士になれない、なんて状況を防ぐため、王宮や教会は被服や装備の貸し出しや援助を行ったり、あまりに粗末すぎなければ高価な礼装でなくても受け入れる、とはしているが……とはいえ、貧相な身なりは名誉に直結してくる話だからな。
歴史は繰り返すというが、前世とは違う文明や文化を築いている筈のこの世界でも同じ道を辿っているのかもしれないな、と、どこか冷めた頭で分析してしまっていた。
金、金、金、それでも騎士か!と怒られてもね、現実は変わらんからね。
そう考えると、今回の叙任式にかかる費用を快く引き受けてくれたサーモ伯爵には、改めて感謝の念が湧き上がってくる。
サーモ伯がいなければ、私は今頃、この荘厳な礼拝堂の床に膝をつくことすらできなかったのだ。
女の騎士叙任というだけで既にクソデカいハードルだというのに、こんな貧乏騎士に援助さえしてくれるとか、聖人か何かか?
サーモ伯が本当は私のケツを狙っているとか、そういう話の方がまだ安心できるし、捧げるしかないよなっていう覚悟はできているが。
四つん這いになって犬の真似しろと言われたらやるしかない。ワン、ワンワン!!
ともかく、ここまで色々と世話をいただいている以上、私は立派に騎士となり、その務めを果たさねばならぬ。
……ふと、突き刺すような視線を感じた。
祈りが始まって数刻が経った頃だろうか?
叙任式に参加する騎士見習いたちや、聖句を述べる司教と、状況は変わっていない。
普段から好奇や畏怖の視線を浴びるのには慣れている。
私のこの規格外のクソデカ体躯と、女でありながら騎士を目指すという立場は、どこへ行っても人々の目を引く。
しかし、今感じている視線は、それらのどれとも質が違っていた。
それはまるで、獲物を狙う獣のような……いや違うな。
強いて言うならば、ねっとりとした絡みつくような害意だ。
侮蔑や嘲笑は数えきれないほど受けてきたが、明確な敵意を向けられるような心当たりはない……いや、父の軍役のために代理で戦に参加したり、あるいは野盗退治の際に向けられることはあるが、まさかそんな連中の関係者がこの場にいるとは思えん。
一体、誰だ?
しかし、今は「徹夜の祈り」の最中だ。
ここで僅かでも姿勢を崩したり、周囲を窺うような素振りを見せることは、儀式への冒涜と見なされるだろう。
ま、この場でいきなり襲い掛かってくるわけじゃあなかろう。
感じる気配は1人……くらいか?まあ居たとして少人数だ。無視するか。
私は努めて平静を装い、内心の疑問だけを静かに深めていく。
その視線は私の背中に冷たい針を突き立てるかのように、執拗に私を捉え続けていた。
やがて、ステンドグラスから差し込む光が黄金色に変わる頃、長い夜が明けた。
司教が祈りの終わりを告げると、あちこちから安堵のため息が漏れる。
周囲を見渡せば、他の騎士見習いたちは一様に疲労困憊といった様子で、青白い顔で肩を落としたり、立ち上がろうとしてふらついたりしている。中には、そのまま床にへたり込んでしまう者もいた。
無理もない。この時代は徹夜で起きていることなんて本当に稀だからな。
何せ、夜中に活動しようにも灯が無いし、明かりを維持するというだけでも、それなりに金が飛んでいく……夜通し起きていても疲労がたまるだけならば、日が落ちれば寝て夜明けとともに起きるのが、生物学的にも経済的にも、とても正しい。
まあ私は一晩中、同じ姿勢で起きていることなど平気ではあるのだが。
あの児童虐待おじさんである父ダミアンの常軌を逸した訓練に比べれば軽い軽い。
騎士たるもの三日三晩は不眠不休で戦えるようにならなければならないとか、どこの漫画や小説に感化されたのか知らん妄言を吐いてきたからな。
まさか前世のブラック企業勤務自慢みたいなことを今世で聞くとは思わなんだ。
お陰様で20歳という若さも相まって、三日三晩はキツいが一日二日程度なら大丈夫だ。
身体を動かしてるわけでもないし、思考を絞っていたから部分的に脳も休めているだろう。
私は何事もなかったかのようにすっくと立ち上がり、軽く体を伸ばす。
その平然とした様子が、またしても周囲の驚きと、どこか不満げな視線を集めた。
儀式は続く。私たちは礼拝堂を後にして沐浴場へと案内され、そこで聖水で体を清めるのだ。
これは、これまでの罪や穢れを洗い流し、新たな騎士として生まれ変わるための儀式だ。
湯浴みとは違う、身を切るような冷たさが意識を覚醒させる。
ここばかりは、私は一番最後にやることになる……流石に男性だらけの場所で肌を晒せというのは、何より教会が許さんのだろう。
そして、いよいよ騎士叙任の「叙任の儀式」だ。
国王陛下から直々に肩を剣で打たれる栄誉を授かる、騎士叙任式においてメインとなるイベントがやって来る。
王宮のホールで、多数の貴族も見守る中で儀式を行うわけだ。
私たち騎士見習い一同は王宮の一室、儀式を待つための控室に集められた。
そこで私は、再び己の置かれた立場を痛感させられることになる。
他の騎士見習いたちは、皆一様に、この日のために誂えたであろう真新しい衣装に身を包んでいた。
鮮やかな色の地に金糸や銀糸で家紋が刺繍されたチュニック。
体にぴったりと合ったタイツ。
ビロードや絹でできた優雅なマント。
腰には装飾が施されたベルトを締め、胸や肩には磨き上げられた軽装の鎧を輝かせている。
いずれも裕福な家柄の者たちなのだろう、その出で立ちは誇りと自信に満ち溢れていた。
流石に彼らは上澄みも上澄みだが……そうでなくても皆、装備の一式は揃えている。
先に言った通りハレの舞台なのだ、ここで金を使わずいつ使うの?今でしょ?
さて、では私の格好を見てみよう。
私の格好は、もう比較するのも烏滸がましい程に……ハッキリ言えば、あまりにもみすぼらしかった。
私は普段から使い古している厚手のギャンベゾンを身に着けている。肩に掛けたマントと、腰に締めたベルトは、父ダミアンが使っていたものを拝借したものである。革には無数の傷が刻まれ、布地は色褪せていた。
それは歴戦の証と言えば聞こえはいいが……飾らずに言うなら、騎士とか言うより山賊と言われたほうがしっくりくる装備である。
この華やかな場においては、何を取り繕うと、ただの貧しさの証明でしかない。
私の身体に合うサイズの儀式用の衣装などあるはずもなく、そもそも一式揃える金もなし。
流石にサーモ伯爵もそこまでは面倒を見きれなかったようだし、私としても強請る訳にもいかん……そもそも現時点で返せんレベルの恩義を受けているのだ、ここで装備一式贈呈なんぞされたら逆に怖いわ。
魂かなんか要求されるんじゃないか。
しかし、こう、場違いさが凄い。
さながら黒塗りの高級外車が集まる駐車場に、丸太と有刺鉄線を取り付けて塗装が剥げて何か植物を車体に巻き付けたジープが乗り込んできたかの如し。
案の定、侮蔑を含んだ視線が一斉に私に突き刺さる。
囁き声が聞こえ、くすくすという嘲笑……あるいは、私に対する怒りが部屋の隅々から湧き上がった。
「物乞いが紛れ込んだのか」「あれで騎士になるつもりか」……おい聞こえてるぞ。
だが嘲笑よりも「そんな格好で叙任式を受けるとか何考えてるんだ」という怒り声の方が、私にとってはダメージがデカい。
私もそう思います……何もかも貧乏なのが悪いんや……。
クソっ、しかし何故我が領は貧乏なのか。
ダミアンの野郎は
代行からちゃんとした騎士になったら、一回我が領の検地でもしてやろうか。
……そもそも、そんなに土地が肥沃でない可能性もあるか。
私は半ば現実逃避気味に、思考を自身の領について巡らせていた。
だが姿勢はこれぞ騎士と言わんばかりに背筋を真っ直ぐに伸ばし、揺るぎない視線で正面を見据える。
態度だけは威風堂々としておこう、ぶっちゃけ何言われても殆ど事実なので反論する気力も起きぬ。
その時だった。
一人の騎士見習いが、取り巻きを数人引き連れて、私の前に進み出た。
見覚えのある顔だ。テネブルシュール家の長男、ギヨーム。サーモ伯爵の領地へ向かう道中で見かけた、あの無表情に会釈をしてきた男だった。
しかし今、彼の顔には隠そうともしない侮蔑の色が浮かんでいる。
「これはこれは、ジルベール卿。まるで戦場からそのまま来たかのような、勇ましいお姿ですな」
ギヨームはねっとりとした皮肉を込めた声で言った。その目は私の色褪せたマントから、使い古されたギャンベゾンまでを嘗め回すように見下している。
「それとも、儀式用の衣装を買う金も尽きたと? さぞかし、かの偉大なるサーモ伯爵閣下も、ご自分の庇護する者がこれほど見窄らしい格好で叙任式に臨むとは、お嘆きでしょうな」
この野郎、解りやすくマウントを取りに来やがったな……。
【騎士道】
騎士にとって「主君への忠誠」「教会への信仰」「女性への奉仕」は三大原則であり、遵守すべき規範であるが、実際には、もっとも騎士に求められる要素とは「腕っぷしの強さ」であり、暴力が重視される。
ただし、だからこそ規範を守る騎士が尊ばれる。
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