平安の葬儀屋

居留 守猫

第1話 禁忌の官

 ―――時は平安時代。

 飛鳥の時代より続いてきた遣唐使も終わりを迎えて久しく、蓄積された大陸の文化を糧に華々しい王朝が栄華を誇った夢の時代。

 歌を詠い、楽器を鳴らし、書をめくり恋を重ねる。

 それこそが、日々多忙を極める彼らの生きがいであった。

 いや、そうでもしなければ生きていられなかった。

 外面を取り繕い、隣で笑う邪魔者を蹴落とすために彼らは仮面を被る。

 ”正気”という名の仮面を――――















 喪儀司そうぎしという機関がある。

律令制における左弁官のうち治部省の中の一省だ。

中務省に存在する陰陽寮などは、霊や鬼が怖くて仕方がない貴族御用達の人気機関だが、残念ながらこの司は陰陽寮とは反対にとてつもない不人気機関である。

そしてその不人気の原因というのも、またこれ以上ないほどはっきりとしていた。

答えは簡単である。

喪儀司は”葬儀”を担当しているからだ。

他にも葬儀のための儀礼や用具の管理なども守備範囲に含まれている。

厳密にいえば同じ治部省に位置する諸陵寮みささぎりょうも葬儀に関わっているのだが、そちらはどちらかというと葬儀や陵墓りょうぼ管理を司る機関であるため、そちらが葬儀に直接かかわるのは皇族の葬儀の折のみである。

当時の平安貴族たちは、何よりも第一に”死”という穢れを恐れた。

そんな彼らに”死”に直接関係のある喪儀司が避けられるのは、もはや考えるまでもないことであった。





目の前で行われる法師の読経を耳に聞きながら、男はぼんやりと葬儀の様子を眺めていた。

しかしその目は深く濁り、後ろに束ねている灰色の髪も、梳いていないため全く艶というものがない。

顔色も青白く、まるで死霊がそのまま乗り移ったかのような有様である。

しかしその整った顔立ちや線の細さのおかげで、どこか幽玄的な雰囲気を醸し出していた。

男の名は下橋行重しもはしのゆきしげという。

喪儀司に勤めていた父に倣ってここに勤め、何とか今日まで真面目にやっている男だ。

行重は床に伸びている橙色の陽光に目をやった。

先ほどは膝のあたりまでその温かい光を届けてくれていたのだが、それから時間がたつにつれ大きく傾いて後退してしまい、今となっては行重の座っているところは芯から凍り付くような寒さである。

行重は今度は棺に納められた遺体の方へ目線を向けた。

始めは悲しげにすすり泣いていた誰かの声も今となっては静まり返り、ただただ停滞した時ばかりが過ぎていく。

亡くなった貴族は民部省の高官を務めた事もある実力者だったようだが、半年ほど前から体のあちこちに痛みを抱えていたそうだ。

典薬寮から薬師を呼んで薬を含ませてみるも、なかなか容態は改善せず、最後は息苦しさを切実に訴えながら悲痛な死を迎えたのだという。

さあ、と風が吹き、太陽の光が遮られたことで場の空気がうんと暗くなる。

この家は悲しみと寂しさで包まれていた。

無くなった亭主はきっとこの家の者にとって頼りになる人だったのだろう。

だからこうしてわざわざ葬儀を開こうという流れになったのだ。

それだけでも、亡くなった彼にとっては救いである。

この都に住んでいる人の多くは、こうして弔われることもなく賽の河原に投げ捨てられる。

鳥がその死肉を啄んだり風にさらされることで、ゆっくりと人の原形をなくしていくのだ。

そうならなかっただけ、この男は恵まれている。

立場にも家柄にも、そして周りの人間にも。













「行重、行重や」

しわがれた声が喪儀司の中に響くのを遠くに聞いて、行重はのっそりと起き上がった。

そのままがりがりと頭の後ろを搔いて、そのままのろのろと目線を御簾の向こうへと投げかけた。

まだ日が頂点に登っていないのを確認して思わずため息をつく。

こんな時間に起こしやがって、と心の中で毒気づくのは勝手だが、悪いのは確実に勤務時間中に居眠りをこいていた行重である。

「ここですぅ」

と変に間延びした声を張れば、すぐに足音がこちらへ向いた。

そして右の角から姿を見せたのは、この喪儀司を統括する頭、喪儀頭だ。

統括する頭と言えば聞こえはいいが、蓋を開けてみればもう腰の曲がった爺である。

この頭の名は、月方古芳つきかたのふるよし

行重が喪儀司に入るきっかけとなった父親ではない。

父・行昭ゆきあきはもうすでにこの世におらず、この喪儀司の中で下橋を名乗る男は行重一人になってしまった。

古芳がよちよちと足を動かして行重の傍に来ようとしたため、行重は慌てて姿勢を正した。

いくら枯れ枝のように萎びてしまった爺だとしても、落ちてくるげんこつは岩のように痛い。

「行重や」

掠れていながらも深みのある声で、古芳は言った。

「はい」

「先日の葬儀はご苦労であった。遺族の方々も感謝していらした」

「そうですか」

それはそれは、と行重は丁重に頭を垂れた

こんな職業についていても、やはり人に感謝されると指先に血の通うような心地がする。

喪儀司に勤める中での数少ないやりがいである。

「良い。こんな爺に下げずとも」

古芳に促されて、行重はゆっくりと頭を上げた。

穏やかに見えてうつろな瞳に、血色の悪い青白い頬。

だらけた態度と無頓着な髪のせいでだらしない男と見られがちな行重だが、実は黙っていれば恐ろしいほどの美丈夫なのだ。

その顔を見るたびに、古芳は、もし生まれた家が家であれば白皙の貴公子として尊ばれただろうに、と度々思ってしまう。

それに、行重の造作のない所作は依頼先でも評判である。

少しでも身なりを整えてくれさえすればさぞ見栄えがするというのに…

まあそれさておき、と古芳は咳払いをした。

「儂がお前の所に来たのはそれだけではない。本題の話があるのだ」

「お聞きしますよ」

行重はその場に座り直して、古芳の言葉に耳を傾ける姿勢を取った。







世に聞こえた陰陽道の達人、賀茂忠行かものただゆきが亡くなったのは突然の事ではなかった。

そう、賀茂忠行といえば、僅か一代にして陰陽道の天文、暦、陰陽の三道を習得した稀代の天才である。

その飛躍のため帝の覚えもめでたく、よく宮中に呼ばれては”射覆”をさせられていたそうだ。

射覆とは、箱や袋、布などで覆われたものを、中を見ずに当てる術のことだ。

特別な力など持たない一般人にはそんなことを問われてもさっぱりわからないが、しかしこの忠行、数多くある術の中でもこの射覆を一番得意としていたらしい。

そのためどんなものを上にかぶせようと、誰も見たことがないようなどんなに珍しいものを差し出そうと、いつも決まってぴたりと言い当ててくる。

その見事な当たり様に帝は喜び、忠行に全幅の信頼を置いていた。

だがしかし、それも忠行が病に倒れるまでの事だった。

今までの苦労と疲労が積み重なったのだろう、と人々は彼を哀れんだ。

またある者は幽鬼の仕業だと言ったり、またある者は誰かが毒薬を飲ませたのだとまで話を飛躍させていたが、それはまた噂話として。

そんな周囲の心配もよそに、忠行は日々着実に弱っていった。

もう臨終の一週間前にもなれば、起き上がることもままならず、目を開けて水を舐めるだけで精一杯だったとのことだ。

そして家人の必死の看病にもかかわらず、最期はついに骨と皮だけになってこの世を去ってしまった。

その命、なんと四十あまり。

あまりにも早い死だと嘆いて、その夜忠行の屋敷では、誰かのすすり泣く声が止まなかったという――――







「悲しいことですね」

「ああ。だが、悲しんでくれる人がいるだけ、良い人生だったのだろう…」

古芳の言葉に、行重も静かに顎を引いた。

形あるものは形なきものへ。

また、形なきものは形あるものへ。

命は、持っている限り、いつか必ず尽きる時が来る。

しかしその死を悲しみ、悼む者が一人でもいれば、旅立つ者もきっと心穏やかにゆけるというものだ。

だから、大勢の人にその死を悼まれる忠行も、きっと冥土でも語りつくせないほどの充実した人生を送ったに違いない。

二人はしばらく黙っていた。

そして再び口を開いたのは、古芳の方だった。

「そこでな、行重。お前に忠行様の葬儀を任せようと思うのだ」

「は?」

穏やかに故人を追悼していたところに思わぬ仕事を吹っ掛けられ、行重は思わず聞き返していた。

ようやく休めると思ったのに、まだ仕事が降って来るのかという不満がなかったわけではない。

しかし意に介さず陰険な声を出してしまったのは、他の理由があった。

陰陽寮に勤めていた忠行は、陰陽師である。

陰陽師と言えば、都の邪を祓い、人々を鬼の手から守るのが役割だ。

排他的な性格の行重のところにあまり情報は回ってこないが、それでも陰陽師がなんだか妖しい集団だということはわかる。

そんな職に就いていた人間の葬儀など、できればやりたくない。

つつけば鬼が出るか蛇が出るか、分かったものではないからだ。

もしかしたら、法師の念仏で遺体に眠っていた邪が目を覚まし、行重に飛びかかって来る――――なんて、こともあるかもしれない。

きっとこの思考をどこぞの貴族に聞かれでもしたら、『喪儀司のくせに怖いのか』と嘲笑を買うのだろう。

しかし、いくら喪儀司でも鬼は怖いし、暗いところには近づきたくない。

死を扱っているからといって人外と一緒くたにされては、困る。

「お断りしま――――」

「まあ、聞け。話はまだ終わっておらぬ」

行重は早急に断ろうと頭を下げながら言った。

しかし、それに被せるようにして古芳が喋りだす。

「実はだな、忠行様は行昭と親交があったようなのだ」

「父上と?」

そんなの、今までに聞いたことがない。

行重の疑問をよそに、古芳は続けた。

「細かいことは儂も知らなんだ。しかし、忠行様はお前の事を知っておったようだぞ」

「はぁ」

「遺書に、葬儀のことは下橋行昭が息子、行重に仔細を任せよと書いてあったそうな」

そう言って、古芳は行重の肩を強く叩いた。

そうして立ち上がる老爺を、行重は呆然と見ている他なかった。

下橋行昭。

行重の父は語らない人だった。

行重を置いて逝くときも、唇をきゅっと結んで、能面のような顔で死んでいった。

そんな謎の多い人だった父が、まさかあの忠行と関わりがあったとは。

そしてさらに、子の行重のことを忠行に話していたとは。

行重は大海の上に突然投げ出された気分だった。

父を喪った時の喪失感とはまた違う。

新たな壁が急に目の前に現れたような心持だ。

まだ事態がうまく飲み込めていない行重をちらりと見やった古芳は、普段に似合わず力強い声で言った。

「依頼を受けなさい。これは命令だ」

行重はしばらくじっと唇を結んでいた。

しかし、やがて前に手をつくと、深々と頭を下げたのだった。

この依頼を受ければ、何か父について話を聞けるかもしれない。

もう忠行本人はこの世にいないが、その息子が何か聞いていることがある可能性だってある。


「賀茂忠行様が喪儀、謹んでお受けいたします」


その言葉を口に出した瞬間、自分の中に何か新しい風が吹いた気がした。

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