28:運命というものはなくて、大体は自分の行動の結果
――ふふ、きー君、かわいいな。
椿の太ももは、妙に落ち着くような心地のよい柔らかさだったから、代吉は『ずっとこのままでいたい』なんて思ったりもした。
だが、自分が外で眠ってしまったことも代吉は思い出して、がばりと起き上がる。すると「わっ」と椿が驚いた。
「結構よく寝てしまった」
「急に起きないでよビックリするからさ。……体調どう?」
「体調は大丈夫だが……それより、膝枕までさせてしまって……なんだかすまなかったな」
「……本当にね。連絡きたから急いでここまできたらきー君は倒れてて、桜咲さんがきー君の肩を揺すって『起きて起きて』って言ってて、それで、うちがどうにかするからって言って、花曇先輩とちょっとだけ色々あったけど、とにかく、きー君風邪引いたら駄目だから膝枕してた」
椿の説明はイマイチ要領を得ない感じではあったが、代吉は椿との付き合いが長いのもあって、なんとなく全体像くらいは掴めた。
(要するに……追いかけてきたら俺が倒れていて、桜咲も困惑していたので上手く対応したという感じか)
と、代吉は椿の説明を平易に咀嚼する。
「俺が眠ってた間に、色々なんとかしてくれた、ってことだな」
「う、うん! そうそう!」
代吉に理解して貰えたことが嬉しかったらしく、椿はにこにこしながら何度も頷いていた。
だが、椿がそうした可愛い姿も一瞬だけであり、すぐにその表情を一転させ、今度は口笛を吹きながらいつもの憎らしい態度となった。
「きー君はザコだからねぇ、うちがいないと何もできないのだ~」
いつもの代吉ならば、こうした椿の言動には若干の反発をするものだが、しかし、今ばかりはどうにもそうした態度を取れなかった。
椿には桜咲の捜索を手伝って貰ったり、こうして介抱までさせてしまったりと、代吉は色々と申し訳なさを感じていた。
代吉は苦笑しつつも、「そうだな。ありがとう」――そう素直に椿に感謝を伝えた。すると、そうした代吉の態度が予想外であったのか、椿が「うっ」とのけぞった。
「急にそうやって優しくなって、ズルいんだよなぁ、きー君は」
椿は耳まで真っ赤にして、ぷいっと横を向いた。こうした椿の反応は、代吉が想定していたものとは明らかに異なってもいた。
(いつもの椿なら、『そうそう、うちに感謝しなよ~』とか言うハズなんだが……)
首を傾げて怪訝に思う代吉は、しかし、椿が桜咲と似た雰囲気を放っていることにすぐに気づいた。
そして、以前にもちらりと脳裏をよぎった、『もしかすると椿は俺のことを……』という予感に再び襲われ始めた。
ただ、桜咲との一件も終わったばかりであることから、今の自分が少し過敏であるというのも代吉は感じていたので、一呼吸を置いて冷静であれるように努めることにした。
(椿が俺のことを、なんて……考えすぎだよな。椿は単に俺と昔のような兄妹としての距離感で過ごしたい、と思っているだけかもな。昔の椿が今と同じような感じだったとしたら、遊んで欲しくて構って欲しいのか、と俺も思うだろうしな)
その解釈は、代吉なりに腑に落ちたし得心もできる推察であった。
だが、それは同時に、椿が‶きー君〟ではなく‶お兄ちゃん〟と呼んでくるようになるのでは、という懸念も代吉に与えた。
椿との距離感を考えて線を引くところは引かねば、と代吉は思う等して、いつもの自分の遠回しなやり方を模索しようとする。
もっとも……そのやり方の結果が桜咲の一件でもある、と身を持ってしったばかりでもあることから、代吉は最善を求めて別の方法を選ぶことにした。
だが、いきなりにやり方を新しくしても大抵の人間はろくなことにならないし、それは代吉とて例外ではないのである。
代吉は、今までの逆をやった方がいいかもしれない、と迷走した。
椿のからかいに対して、いっそのことドン引きさせる返答をすることで少し距離感を調整しよう、等という結論に代吉は辿り着いてしまった。
「それで、うちの太ももの感触はどうでしたかねぇ? 中々味わえないよ~中等部女子の太ももってやつは♥」
「そうだな……柔らかくて、なんだか女の子の匂いがした」
普通の女の子であれば嫌な顔をするであろう返答をした代吉は、けれども、穏やかに微笑んでいた。
これで目的を果たせるハズだ、という達成感と安堵で満たされた顔でもあった。
代吉は想像もしていなかった。
自分の言い方が、あくまで、相手がこちらを異性として認識していない場合のみ効果が強く発揮される類のものである、ということを。
逆に相手がこちらを異性として見ている場合には、効果も同じく逆になる可能性が高い、ということを。
相手に『自分は異性として見られているのだ』と感じさせ、そうした方向での関係性の進展を匂わせている、と捉えられても仕方がなくなる、ということを。
椿は急に俯いてもじもじとなり、恥じらっていた。
それはどう見ても妹としての反応ではなく、性差を意識して恋愛感情に苛まれる女の子のものだった
代吉はぎょっとした。
「椿……?」
「今度は……きー君の方から」
椿は瞳を潤ませながら、代吉の顔を数秒ほどじっと見つめてから、そっと瞼を落として目を瞑った。
例えるならば、それは‶キス待ち顔〟であり、さしもの代吉も椿が自分に向けている感情の種類を知ることになった。
代吉の思考はぐるぐるになった。
どこで椿からこうした感情を向けられることになったのだろうか? と、今さらながらに考えたりもするが、その答えは出なかった。
なんにしても、桜咲との一件を上手に流せたかと思っていたら次は椿で、そうした現実が代吉に重くのしかかる。
だが、そんな代吉に救いはやってきた。
椿が呼んでいたという叔父――つまり譲治がやってきたのだ。譲治は自身で運転する黒塗りの高級車を動物園の入り口に横づけし、窓を開けて椿に声をかけてきた。
「椿! 代吉くんが大変って、どういう……なんだ気持ち悪い顔して。俺が聞き間違えるか何かして、本当はお前の方が大変とかそういう話か?」
助かったと代吉の頬は緩むが、椿はぷるぷると震え、憤怒の表情で譲治の元へと向かうと何やら親子喧嘩を始めた。
――パパ! なんでくるの⁉
――なんでくるのって、お前が俺を呼んだんだろうが。
――そうじゃなくて!
――それ以外の理由なんて俺にはないんだがな。これが年頃の娘ってヤツなのか。気持ち悪い顔を親戚の男の子に晒して、挙句にこうして招集に応じたパパに悪態……どうしてこんな風に育ってしまったのか。代吉くんに迷惑かけてないだろうな? お前も代吉くんの過去とか経緯を知っているだろうに、まったく。
――迷惑なんてかけてないっての。
代吉の目には親子喧嘩が長引きそうにも見えていたが、しかし結果的に、それはただの杞憂となった。
口論がエスカレートする前に、譲治が話題を変えて先に矛を収めたからだ。
――まぁ、なんでもいい。それより、代吉くんと会えると思ってな、そのうち渡そうと思っていたんだがこの前の出張土産……帰りの便を少し変えて、スコットランドで一回降りてな、そこで買ったんだ。紅茶。
――え? 紅茶? きー君そんなお茶が趣味とかじゃなかったと思うけど……。
――俺なりの気遣い、ってヤツだ。それより、代吉くんがよければ送ってくがどうするって、これ渡すついでに聞いてきてくれ。
――自分で聞きなよ。
――少しくらいはパパのお願い聞いて欲しいんだが? 疲れた体にムチを打って、こうしてお前の呼びかけに馳せ参じてきたんだし。
――しょうがないな……。
椿が何やら贈答品のような箱を持って代吉のところへやってきた。
「叔父さん……元気そうだな」
「元気も元気だよ。あと百年は生きるんじゃない?」
「さすがにそれは無理だと思うけどな……」
「あと、これパパから。スコットランドで買ってきた紅茶で、海外出張のお土産なんだってさ」
「そういえば、叔父さんが最近欧州との合同開発で出張がどうとかって、椿も前に言ってたな」
「それ。それと、きー君がよければ送ってくけど、だって」
有難い提案ではあるものの、そこまでして貰うのもなんだか悪い気がしたこともあって、代吉は断ることにした。
「いや、大丈夫だ」
代吉が短くそう伝えると、椿は「そっか」と言ってくるりと踵を返した。そして、椿は譲治の高級車のドアの前に立つと振り向き、代吉に向かって投げキッスをしてきた。
「だーいすき♥」
実父である譲治の前での椿のそうした行動は、まぁ本心からであるのもそうなのだろうが、さすがに今はからかいの要素の方が強くあるのが代吉にも理解できた。
「叔父さんが呆れてるぞ! 冗談もほどほどにな!」
代吉がそうたしなめると、椿は手を軽く振って、そのまま高級車に乗り込んだ。代吉への挨拶のつもりなのか、譲治はクラクションを一度だけ鳴らして帰っていった。
一人残った代吉は貰ったお土産を見つめた。譲治がお土産としてスコットランドで買ってきた紅茶――それを聞いて、代吉はこれが自分宛ではないことを察した。
これはエレノア宛なのだ。
代吉は、譲治が自分に特別な思い入れを持っている、ということを本人から直接教えられたことがあった。佐古家の直系は自分と弟だけで、そんな大事な弟の子だから元々自分が後見人をやろうと思っていた、と。
だが、色々とあってそれが叶わなくて、と頭を下げられた。
つまり、そんな思い入れのある代吉のことを、今しばらくどうぞよろしくお願いします、と譲治はエレノアにそう言いたくて、けれども直接は行けないから代吉を通して渡したいに違いなかった。
それはとても日本人的な情緒からの行動で、エレノアがそれを正しく理解できるのかはわからないが……。
ともあれ、代吉はマンションの自室に帰宅してから、隣のエレノア宅を訪ねて茶葉を渡した。
「代吉どこか行ってたです? お買い物です?」
「俺の叔父からのお土産ですね」
「代吉の叔父さん……? これスコットランドの紅茶……? ワタシはお土産を貰うようなこと、なにもしてないですけど?」
「まぁその、俺の面倒を見てくれていたことへの感謝、ってことで」
「感謝? よくわからないですね~。嫌ならそもそも最初から引き受けませんから」
叔父の気遣いはどうにも上手くは伝わらなかったようで、エレノアは「なぜ感謝の品を渡されるのかわからない」といった感じだった。
日本に長く住み、ある程度は日本の文化的側面の理解も深まってはいるのだろうが、それでも少しの情緒の機微、という部分については難しいようだ。
こういった部分については、恐らく産まれも育ちもずっと日本である娘の幸子の方が敏くありそうでもある。
というか、実際に幸子の方が普通に理解していた。エレノアから後ろからひょこりと出てきた幸子は紅茶の箱を奪うと、
「ママ、こういうのは、『ん』って言ってもらってやるのが正解ってなもん」
「幸子~! そんなことないと思いますよ~?」
譲治を知っている代吉は、幸子の方が正解だろうな、と思った。『よくわからないので』と突き返されたら、譲治は逆に困ってしまう性質の人間だからだ。
とにかく渡すものは渡せた。
代吉はその後、お風呂で改めて疲れを癒しつつ、ベッドに転がって再び寝入るのであった。
少しだけ頬を寂しさを感じる代吉であったが、それは恐らく、心地の良い温もりだった椿の太ももの感触がいまだ残っているせいだった。
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