揚屋寒月うわの空
牧野三河
第1話 寒月
「寒月殿や。起きておるか」
「はい」
さらりと障子が開き、住職が入って来た。
ふわりと袈裟を揺らして、書見をしていた若者の後ろに座る。
「そろそろ嫁取りは致しませぬか」
「しませぬ」
「良い話ですぞ。150石のお武家様のお嬢様で。寒月殿を婿養子に迎えたいと」
「興味ありませぬ」
寒月と呼ばれた若者は、すっと本の頁をめくる。
近田七郎右衛門俊之。数えで24。
七郎右衛門と言っても七男ではなく長男。兄弟も居ない。
俊之は400石という裕福な旗本の家に産まれたが、父の切腹により家は取り潰された。俊之が家を継ぐ事は許されず、近田家は無くなった。
母親は実家に戻る際、俊之もと言ったが、商家である。俊之は断った。
武家が商家にというプライドではなく、商家で忙しく働きたくなかったのだ。母にも周囲にも、武家が商家になどと言いはしたが、本音は面倒だな、と感じただけ。
取り潰しと聞いた時も、ほっとしている自分がいる、ということをはっきり自覚していた。小うるさい武家務めなど、真っ平御免だと思っていたのだ。
なので、父が切腹した時も、何故とは聞かなかった。
周りはそうした俊之を粛々と受け入れ、潔い武士と見ていた。
俊之も父には悪いとは思ってはいたが、これは好機と捉えていた。
そうして、さて自由にはなったが、日々のたつきをどうしようかとふらふらしていた所、慶安寺という寺の住職、箒庵に拾われた。
檀家であったし、近田家は寄進も多くしていたので、箒庵は困った俊之を憐れに思い、どうかと言われ、俊之は喜んでついて行った。
寺では俊之が望んだ生活が待っていた。
掃除や洗濯などは寺男がしてくれるし、飯も質素ではあるが出してくれる。
箒庵は読書家で、大量の本があり、俊之は日々読書で過ごしていた。
慶安寺では子供に読み書きを教える事をしているので、それを仕事と手伝っている。
最初だけは面倒だとは思ったが、始めてみれば子供と遊ぶようなもので、働くのは面倒な俊之も、そう悪くはないと感じている。
ぱらりと頁をめくる。
読み書きの日ではない時は、ほぼ1日中、この薄暗い書庫に引きこもって、本を読むか寝ているか。もはや布団さえも、この書庫に置いてあるのだ。
「夢中になっておられるが、それは」
「史記です」
「天道、是か非か」
俊之は明かり窓を見上げ、
「さて。見ての通り私は地を這っておりますゆえ、天の道などさっぱり。仏に近い箒庵殿には、天の示す道が私よりも見えるはずでは」
「これはまた。されば私に見える天道は、此度の嫁取りを是と見ておりまするとお応え致しましょう」
「智者の千慮にも必ず一失あり。如何に賢き天であれども、その道、一失やもしれませぬ。御仏も修行時代には一失ございましたとお聞きしますが」
「これは手厳しい。疑いだすときりがございませぬな。寒月殿は御仏さえも疑っておられる。信ずるは難し、疑うは易し、と言ったところでしょうかな」
寒月は俊之の俳句の号。
上手くもなく、好きでもないが、付き合いで出た句会でつけられたのだ。
それを知っていて、箒庵がからかうように「寒月、寒月」と呼び、寺の中では定着してしまった。
「ま、嫁取りの話はもう宜しかろう。どうせ断ると分かっておりました。さて、少しは町に出て、世を学ぶのは如何。現世は本では学べませぬ」
「私は、ここにおります方が余程に勉強になります」
そう言って、読みかけの史記を取り上げる。
「若者が部屋にこもるは良くないと存ずる。女遊びでもしてきては如何か」
女遊び。
坊主からこのような勧めがあるとは、と、俊之は思わず吹き出して、
「ふ、ふふふ。箒庵殿、ご冗談を。坊主が女遊びを勧めるはどうかと」
「女色を知れば嫁も欲しくなりますゆえ」
「そのような目的で嫁取りなどありえませぬ」
「が、色欲なくば人は絶える。違いますかな」
「その通りです」
「欲を知りて律する事が大事でございますぞ。ここにおりたい、本だけ読んでおれば良い、これもまた欲。無欲はまた怠惰にも繋がる。寒月殿は無欲を律しておられぬ」
「私、怠惰で多いに結構でございます」
俊之は史記を指差し、
「知識を日々頭に積み重ね、その知識、何の役にも立たせずと死ぬ。全く本望でござる」
「ふむ。寒月殿はそれで結構でしょうが、私は結構にございませぬゆえ」
「何故」
「厠に行く時しか部屋を出ぬお侍を飼っておる、などと後ろ指を指されております」
「・・・」
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仕方なしに、俊之は寺を出て来た。
日はまだ高く、1日のほぼ全てを書見に費やしている俊之には、ただ外を歩くだけでも少々辛い感じがする。
「あっ! お侍様!」
一瞬、自分の事かな、と思ったが、通りには幾人も二本差が歩いている。
自分ではないな、と歩いて行くと、ぐっと後ろから帯を掴まれた。
「!」
驚いて、一瞬、刀の柄に手を掛けたが、手を外しながらゆっくりと顔を後ろに向け、
「何をなさる」
「慶安寺のお侍様」
「如何にもそうですが。手を離してもらえませんか」
「あ、失礼しました。私、そこのまんじゅう屋の」
「ああ・・・」
寺にしょっちゅうまんじゅうを届けてくれる、羽屋という店の者か。寺を出てすぐの所にある。俊之も何度も食べているまんじゅうだ。皮が柔らかくて美味い。
「で、何か私にご用でも」
「いえ、あの、外で見るのは珍しいと思って・・・」
「そうですか」
「あの、お急ぎでなければ」
「申し訳ない、急ぎなのです」
「あら、そうですか。残念」
「おお、そうだ」
俊之が振り返り、
「お女中、箒庵殿から女遊びをして参れと言われたのだが、どこか良い店を知りませんか?」
女中が驚いて、
「は!? 箒庵さんが!? 女遊び!?」
「如何にも。無欲は怠惰の元ゆえ、私に少しは色欲を知って参れと叩き出されたのです。ここなれば良い遊び場という店は知りませんか? 帰ったら箒庵殿に聞かれましょうし、明るいうちに帰りたいので、急いでおるのです」
「え、ええっと・・・さあ・・・?」
「あいや、女遊びを女のそなたに聞いても分かりはしませんか。適当に聞いて参ります。それでは」
俊之がくるりと振り返ると、またぐっと袖が引かれた。俊之が迷惑そうな顔で振り返り、
「まだ何か?」
「あ、あの、心当たりが無い事もなく!」
「おや。そうなんですか? では、お教え下さいますか」
「まずはお茶でも」
と、女中が店先の長椅子を指差す。
「ああ、結構です。金は持ってませんし」
「女遊びをするのに!?」
「金は持っていますが、私の金ではなく、箒庵殿が出してくれた金。女遊び以外に使っては申し訳もありません」
「では奢りますから。準備も必要ですし」
「準備?」
「はい。ですから、お茶でも飲んでお待ち下さい。おまんじゅうも奢りますから」
「ううむ、分かりました。分かりましたから、手を離して下さい。往来ですよ」
羽屋の女中にぐいぐい引っ張られ、俊之はまんじゅう屋の前の長椅子に座った。
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「どうぞ」
「感謝致します」
出された茶とまんじゅうは奢りと言ったが、些か遠慮を感じ、まんじゅうには手を伸ばせない。準備とやらを終えたら、さっさと行こう。
「して、準備とは」
「吉原に行きますと、葦津(よしづ)というお店がございますから。そちらに、うちのおまんじゅうを持って行って下されば、女遊びが出来ます」
は! と俊之が口に運んでいた湯呑を止め、
「ああ! そうでした、そうでした。女遊びと言えば吉原でしたね! うっかりしていました」
「・・・」
「で、そのよしづという店は吉原のどこに」
「揚屋町という通りです。門を入って、右側のふたつめの通り。あの細長ーい葦(あし)という字に、津波の津で葦津。看板が出てますから」
「ありがとうございます」
俊之は女中に軽く頭を下げて、つ、つ、と静かに茶をすする。
女中がそれをじっと見ている。
「なにか」
湯呑を置き、盆を抱えた女中を見ると、目が合った。
「あの、お名前を聞いても?」
「近田七郎右衛門俊之と申します」
「近田様とお呼びしても?」
「俊之で構いませぬ。それと、私、侍ではなくただの浪人者です」
「ご浪人さん? てっきりお勉強にお寺にいるのかと」
「近田家は取り潰されましたので」
あ、と女中が口に手を当てる。
俊之は手を振り、
「構いません。私、堅苦しい武家暮らしにうんざりしておりましたので、丁度良かったのです」
「あの、私、みつと申します」
「おみつさんですか。改めて、お世話になっております。まんじゅうは寺でいつも頂いております。美味しいですよ」
「ありがとうございます」
そこで会話が止まり、俊之は通りに目を戻した。
おみつも頭を下げ、店の中に入って行った。
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