蓮白という男。

 少年は自身のらすうめき声で、意識を取り戻した。

 昨晩までの気だるい身体の感覚はさっぱり消え失せていて、全身は暖かい布団に包まれている。


「ここは……」


 布団から、あたりを見回した。たった六畳の小さな部屋。申し訳程度にきつねうどんの描かれた掛け軸が下がっているが、それ以外は何もない。

 少年は寝ているうちにはだけた襟元えりもとを寄せながら立ち上がった。そして障子を開く。そこから見えるのは木、木、木、木。つまり此処ここは森の中。

 ここで眠ることになるまでの経緯いきさつを何とか思い出す。


 寺を出た。街に降りた。そしたら黒い靄のようなものに付きまとわれるようになって、しばらくは気にせず過ごしていたが、身体のけだるさを感じるようになる。そしてある日気づけば腕を食われていた。左腕がむしゃむしゃと。そしてついに危機感を覚え、山を逃げることになったのだ。


 少年が左腕を見ると、それは包帯に巻かれていた。手を握ったり開いたりしてみるが、問題はない。まるで元に戻ったようにきちんと動く。


「……いったい何が起きてるんだ?」


 誰に聞かせるわけでもない呟きが室内に溶けていく。


 そうしていると、ふすまが静かに開いた音がした。音の方へ目を向けると、そこに膝をついているのは、はなだ色の着物を身にまとった男性──男性?

 少年は彼の顔をまじまじと見つめた。年のころは二十初めに見えるが、月代さかやきもなくまげも結っていない。女のように長い髪を緩く束ねているだけだ。それに目元には赤い紅が差されていた。体格は頼りないが長身で、充分じゅうぶん男として成り立っている。


 やけに綺羅きらびやかな人だ、と少年は思った。しかしそれを見透かしたように、男性は眉を上げて目を細める。


「感謝の一言くらい、欲しいものだね」


 少年は驚きつつも、そこに平伏した。いおりの前に倒れてからの記憶がない。つまりここまでは彼が運んできてくれたのかもしれない。


「こ……この度はどうも助けていただきありがとうございました」

「全く。君の腕を作るのには随分ずいぶんな労力がかかったし。それこそ……この島国へ生身一つで渡った時くらいには」


 訳の分からないことを言って、それからにやり、と男性は妖艶ようえんな笑みを見せた。いちいちなまめかしい男だ。どこかの歌舞伎役者かと勘違いしてしまうくらいには顔も整っているし、所作も上品である。


 男性はひとしきり嫌味を言い終えた後に、脇に隠れていたおけを持って部屋に入ってきた。桶には新しい包帯と布巾、それから軟膏なんこうが入っていると思われる手のひらに乗るほどのつぼが並べ置かれている。


「手を出して」


 おずおずと左腕を差し出すと、彼は慣れた手つきで包帯をほどき始めた。


「少年、名前は?」

「俺は……恵次けいじと言います」


 この名はあまり好きでない。聞き馴染みが無く、寺の出身にしては妙にあか抜けた名前だからだ。

 しかし彼はからかうことなく、興味もなさそうに相槌あいづちを一つ打っただけだった。貴方が聞いたくせに何故そんな風にあしらわれる。


「あの、貴方の名前は?」


 恵次は腕に軟膏を塗り込まれながら尋ねる。何度も入念に撫でるので、肌があわっていた。出来るだけ失礼にならないよう、意識を逸らすために話題を提供したのだ。

 男はちらりとこちらを見上げてきて、恵次は瞬きをした。何かついているか。顔を触れてみるが特に何もない。


「僕の名は蓮白れんはく


 そして大層な名前を口にした。尼僧にそうのような名前だ。


「そう名乗ることにしている」


 している?

 違和感のある言い回しに恵次は首を傾げた。しかしこれ以上掘り下げるようなこともない。


 蓮白は話題転換に恵次の家族について尋ねてきた。恵次は軽く首をうつむける。


「……俺は生まれてすぐに寺へ預けられたんです」

「よくある話だ」

「それ以来親は一度も会いに来ていないので、俺に家族はいません」

「そう。なら、寺に消息てがみを書こうか。なんという名前の寺か覚えている?」


 包帯をきっちりと巻き終えた蓮白は水で湿らせた布で手についた軟膏を拭き取ると、桶を片手に立ちあがった。恵次は慌てて彼の袖を掴んで止める。


「待ってください!」


 蓮白は見返り美人図のように振り向いた。そして唇を薄く開いてなんだ、と尋ねてくる。


「寺には帰りたくありません」

「家出ならぬ、寺出をしたのが後ろめたいかな。大丈夫だよ、君みたいな子はたくさんいるだろうから、酷く折檻せっかんしたりはしない」

「ちがいます。俺は逃げて来たんです、せまりくるあの和尚おしょうから」


 恵次の告白に、蓮白の切れ長の目がゆっくりと見開かれる。恵次は思わず掴んでいた彼の袖から手を離した。

 その目は吸い込まれるような迫力があった。色の薄い瞳だと思っていたが、今はそれが爛々らんらんと輝くようにさえ見える。


「あの和尚とは男色なんしょくきの生臭坊主か」


 蓮白の言うことに恵次は首振り人形のように何度も頷いた。彼が和尚を知っているとは思わなかったが、誰もが抱いていた共通認識のようだ。蓮白は綺麗な手で自身のあごをするりと撫でる。


「では、お仕置きをしなくてはいけないね」


 そしてまるで切腹を言い渡すような重い空気で、軽々しい言葉を吐いた。恵次は見上げた姿勢のまま動けない。


「……お仕置き、ですか?」

「そうだとも。世の節理せつりは常に保たれなければならない。少年のような被害者を出さないために」


 蓮白はしんとてつくような声色で呟いた。

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