メンヘラ地獄変
@kurotorikurotori
サトルと雪子の別れとはじまり
「サトルさん。
雪子の肩に手を回したシュッとしたいい男。
少し年下かな? ハタチくらいに見える
ニヤついた顔ではなく、むしろ義憤に駆られた若者のような情熱で、
「……あーー、これは浮気だし、立派な裏切りだよ。
まぁ婚約してる訳でもないから法的責任とまでは責められないけど」
落ち着いてコーヒーを一口啜り、無駄だと思いつつも正道・正義の行いではないことを伝える。
肩を抱かれた雪子はずっと俯いたままで、深夜のファミレスのテーブル面をただ見つめていた。
雪子の家出から一週間。
俯きがちに目線を交わした、あの
「あんたは雪子のことを否定し続け、一人の人間として認めてこなかった。
雪子を愛してたって言えるのか?
この先もあんたと居たら雪子はずっと奴隷のままだよ」
指摘されたことは、いくつかの紆余曲折があるとは言え、現状を第三者の目で見れば成る程その通りだ。しかし、コイツばっかりに喋らせるのもどうなのか。
「その雪子は、当事者としてどう思っているか、ここで確かめてもいいか?」
話を雪子のほうに向ける。
かすかに「あー」とか「うー」とか声を漏らしながらソワソワと身を捩り、女性らしい魅力的な丸いオデコを伝う汗が光を映す。
それをじっと眺めていて、俺も間男くんも無言を耐えていた。
法に関わらない以上、こんな話し合いなどクソの役にも立たない。双方合意なんか無くても一方的な決定で別れ話は完結する。
俺の気持ちは置き去りのままでも、一応はケジメのため、今後をどうするかまで決めておきたかったが……
どうにも言葉をまとめきれなかったのか、それとも諦めたのか、雪子は行動で示す。よろよろと間男くんの手を引っ張って席を立つ。
俺は黙ってテーブルのコーヒーカップを見つめ、こわばった体のまま、去りゆく姿を見送る。
「これでお別れってことでいいよな! 雪子のモンは全部処分していいって――」
間男くんの最後の言葉尻までは届かなかったが、言われたとおり俺と雪子の結末はお別れという清算でいいのだろう。
ここまでずっとポーカーフェイスだった自分に嫌気が差し、フーっと息をつく。
なんというかババ抜きで、手持ちカードの中から「JOKER」に指を掛けられたような、ずっと『バレませんように』と祈ってたような、そんなやり取りの時間だった。
伝票が置かれたままになっていることに気付いたが、喜んで精算してやる。
『結局、俺から見ればNTRれてるじゃん』とも言えるのだが、結末をこんな落ち着いた気分で迎えてしまって良いのか、という戸惑いが少し残った。
――何故なら雪子はメンヘラだったからだ。
◇
雪子とのお別れに至るずっと前、昨年の冬のはじめ。
非モテ確定のその男は無遠慮に頬杖をついたままバーカウンターからボトルの陳列棚を見上げ、小さな目をさらに細めて呟いた。
「彼女との関係をいきなり正常に戻すのは無理だ。まずはサトルが彼女の地獄まで下りるんだよ」
腐れ縁の元同級生、
細かく嫌なとこを突くなら、顔の輪郭まで取り込むド近眼レンズのせいで、厚ぼったい一重が小さく見えて、それが知能の低い爬虫類のような印象を与える。
だが見た目通りの冷徹な性格は時に鋭い意見を放ち、そのぶん厄介事に強いと妙に評価されていたりもする。
俺はこのクソ野郎が恋愛経験の乏しい風俗通いの素人童貞だと知っている。
もちろん人選ミスなのも理解しているが、もう相談できる相手がコイツしか居なかった。
恋愛相談は無理でも、人間関係の処理なら得意だろうと見立てて。
なにしろ俺のまともな方面の友人は、メンヘラ彼女の辟易する話を「愛されてるんだよ」と、
――俺の彼女である雪子。
サークルの新歓で出会い、面倒を見ているうちに「どうしてそんなに優しいの」という彼女の言葉で恋は始まった。
学生時代は順調な交際だったが、俺が社会人になり会えない時間が増えると、徐々に束縛へと
新入社員の一年が過ぎ、雪子が休学に至る迄には「メンヘラの教科書」に載ってるような事は一通り経験し、騒動のたび彼女の手首に平行線の傷が増え、俺の体重は減っていった。
冷徹なる六戸理はそんな話を、「バー」で奢るからという言葉に釣られて聞かされ、それで出たのが多分「地獄へ落ちろ!」を遠回しに告げる冒頭のアドバイス。
「地獄だぁ? 俺はとっくに雪子と地獄に落ちてるし、それで結局どーすりゃいいんだって聞いてんだよ。
俺は雪子をこのまま見捨てることなんか出来ないし、こうやって目を離してる間にもまた滅茶苦茶になってるかもしれねぇ……
少しでも雪子がヒトとして自立出来るような、そんな助言は無ぇかって聞いてんだ!」
このまま、いつか耐えられなくなって、それがどちらか分からないが破局する。
別れるって表現じゃない。破滅する局面と書いて破局。
想像もしたくない「死」の結末が現実となって浮かんでくる。
「サトル。 ……俺は風俗嬢から『女』を学んできた。
それなりに経験して、メンヘラな嬢が多いことも、俺は知ってる。
たぶん。救おうとしたって無駄だ。ただドン底を突きつけろ」
六戸理は遠慮なく俺の
立ち昇る煙が目に染みたようで、小さな冷血の目をさらに
分かりにくい表現をした上にコッチの反応待ちか? 本当にキモい野郎だ。
「ドン底って何だよ? これでおしまいって別れろってか?
言いたかないが自分たちではもう終わりも決められないんだ。
命に関わる事件にならないよう――」
「女にドン底を突きつけるんだよ。ここが地獄だってことを」
言葉を途中で遮って、六戸理は吐き捨てる。
スッと手を伸ばし灰皿の凹みにタバコを一旦挟んで、
回転イスをくるり回して腕を組むと、
真正面から俺を見つめ演説を始めた。
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