第10章:深き悪夢と薄闇の再会


 どれほど眠ったのか。あるいは気を失っていたのか。身体がまだズキズキと痛むが、なんとか意識を取り戻す。森はすっかり夜の帳に包まれているようだ。空の色は確認できないが、辺りの暗さと冷たい空気が夜であることを物語っている。


 体を起こそうと蹄を踏ん張るが、強いめまいに襲われる。仕方なく、ゆっくりと時間をかけて四足で立ち上がる。まだふらつくが、なんとか移動はできそうだ。


 視界を巡らせると、朽ちた魔樹の死骸が横たわっている。先ほどよりも黒い液体は固まってきており、腐敗臭が漂うものの、毒の霧のようなものは消えつつあるのかもしれない。あたりに魔物の気配はないようだが、油断は禁物だ。


 「メェ……」


 痛む身体を引きずりながら、その場を離れようとする。早く安全な場所を見つけて休みたい。せめて誰もいない洞穴でもあれば……。


 しかし、ふと気づく。森の闇の中に、前方の木立がかすかに揺れている。そこには人影……いや、黒いローブをまとった何者かがいる。俺が先ほどまで戦っていた魔樹の死骸を遠目に見つめているようだ。


 人間か? それとも魔族か? それを判別できるほどの明かりはないが、一つだけ分かるのは、そいつが相当の“魔力”を帯びているということだ。森の中に漂う邪気が、そいつの周囲でうごめいているのを感じる。


 「……これは驚いた。朽ちた魔樹を倒すとは、ただの獣にしてはやるな」


 低く囁くような声が、夜の森に溶け込む。人間の言葉を話しているが、その口調には淡々とした冷徹さがある。


 俺は身構え、威嚇するように角を向ける。今の俺は正直、満身創痍だ。まともに戦えばすぐにやられるかもしれない。


 すると、その黒ローブの人物は静かに首を振った。


 「警戒するな。今はお前を殺すつもりはない。むしろ興味がある……“羊”がこれほどまでに血を浴び、魔樹までも喰らうなど、聞いたことがない」


 言葉がわかるということは、人間と同じ言語圏なのだろう。しかし、その顔はフードで隠れていて見えない。ほんの一瞬、覗いた顎のあたりに獣の毛皮があるようにも見えたが、定かではない。


 「メェ……」


 こっちが返せるのは、その鳴き声だけ。黒ローブの人物はクスリと笑ったように見えた。


 「なるほど。どうやら理性はあるが言語は発せられないようだな。……ならば、私の問いに頷くか否かで答えてみるといい。お前は更なる力を求めているのか?」


 その問いに、俺はしばし迷った。何を企んでいるか分からない相手だが、少なくとも今は友好的に見える。しかし、こんな怪しげな人物に下手に手を貸せば、どうなるか分からない。とはいえ、俺の“目的”を考えれば、力を求めているのは事実だ。


 俺は小さく首を縦に振った――というより、軽くうなずくように頭を揺らしてみせる。黒ローブの人物は満足げに頷いた。


 「よろしい。それならば、手を貸してやらんでもない。……ただし、そのかわり私の命令をいくつか聞いてもらう必要があるが」


 命令? どんな内容か分からないが、何やら胡散臭い。ただ、今の俺はボロボロ。こいつが敵意を剥き出しにしたら、それこそ一たまりもない。少なくとも、ここは相手の話を聞くしかなさそうだ。


 黒ローブは足元に転がっている魔樹の破片に軽く触れた。すると、手のひらから赤黒い光が溢れ出し、その破片が干からびていく。なんとも言えない禍々しさを感じる呪術だ。


 「……私は“魔族”と呼ばれる者たちの一人だ。人間の国には滅多に姿を現さないが、こうして森を巡回することもある。強い魔物がいると聞けば、仲間に引き込むためにな」


 魔族――つまり、悪魔や妖魔など、総じて人間に敵対的な存在を指す言葉か。異世界転生モノの常識としては、やはり魔王軍の一員……という可能性が高い。


 黒ローブは続ける。


 「お前がこの森でこれ以上強くなるのは難しいだろう。いずれ人間の冒険者や騎士団がここに来るかもしれない。お前を倒すためにな。それに備えたいなら、私のところへ来るがいい。もっと効率よく力を得られる術がある」


 その言葉に、俺は息を飲む。確かに、もうここまで森を荒らしたなら、人間が黙ってはいないだろう。いつか大規模な討伐が行われてもおかしくない。今のままでは、対処しきれないかもしれない。


 ただし、黒ローブが言う「私の命令」とは何なのか。それ次第では、俺にメリットがない可能性もある。もっと言えば、罠かもしれない。


 迷っていると、黒ローブは静かに笑ったように見えた。


 「もちろん、すぐに答えを出す必要はない。だが、お前がそこで死にかけているのは事実だろう? 私について来れば、その傷を癒し、さらなる成長を促してやれる。どうする? 断るなら今ここで立ち去ってもいい。だが、このままでは他の魔物に襲われて死ぬだけだろう」


 状況は不利。メリットは大きい。リスクも大きい。だけど、俺はもう迷っている時間もない。もしこのまま森をさまよえば、弱った体で再び強敵に襲われるかもしれない。


 (……仕方ない。ここは乗るしかないか)


 俺は小さく鳴き声を上げ、黒ローブに向けて頷く。すると、黒ローブは満足げに「賢明だ」と言い放った。


 「ならばついて来い。そう遠くない場所に、我々が拠点としている遺跡がある。そこへ行けば回復の術を施してやろう。……ふふ、奇妙だな。羊の魔物と行動を共にするとは」


 その最後の言葉に含まれる揶揄(やゆ)を感じながらも、俺は黙って従うほかなかった。そいつについて行くことで、回復が得られるなら、願ってもないことだ。


 こうして俺は、森の魔物としての孤独な道から、魔族との接点を得ることになる。それは“羊の魔王”へ至る物語の、さらなる転機であった――。

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