啓介君の胃は暖かかった

亀飼モズメ

第1話 啓介①

 映画館の席は、真ん中と決めている。

 Jの十六。


 この席だと、映画館を独り占めした気分になる。この感じが好きだ。というより、今ここにいるのは、本当に自分だけなのだが。  

 観客は俺一人。人がいないのを狙って、レイトショーを選んでいるのだから、驚きはなかった。


 〝マグネット・ラバーズ〟というこの映画は、もう既に何度も見たことがある。

 東京でバスジャック事件が起きる物語だ。 

 犯人は何を思ったのか、乗客をNとSの二つのグループに分けた。主人公の男女二人がNに振り分けられ、手首に外せない鉄のバンドを付けられた。お互い同じグループだと喜んだのも束の間、バスジャックから解放されて以降、二人はお互い近づくことができない。そして、人間の力では到底作り出せないような、強力な磁石を取り付けられたことを知る。そんな二人の恋愛物語だ。


 この映画は、元々五年前に公開された映画で、最近になって再上映されることになった。 

 もっとも、来月の三月二十七日までの期間限定らしく、上映日はあと残り二回だ。


 誰かに好きな映画ベスト三を答えてと言われても、俺はこの映画のタイトルを答えることはないだろう。どこか盛り上がりに欠けているし、コメディ恋愛映画にしては、あまり笑える要素もない。でも、なぜかまた見たくなってしまう、そんな映画だ。


 ストーリーも、クライマックスに差し掛かった。なんとかお互い近づこうと試みる主人公の男女は、同じ極の磁石を取り付けられたのだから、近づけるはずもない。近づこうとするからできない、逆に断ち切ってみては? と特殊な巨大ハサミで磁界を切ってみると、離れていた二人が、とうとう再会できたのだ。

 何度も見ていれば、ストーリー展開も覚えてしまっている。


 俺はドリンクホルダーに置いてある、オレンジジュースを手に取った。どこで注文しても、オレンジジュースはオレンジジュースだ。自分が記憶した通りに、ストーリーが進む安心感は、これと似たようなものがある。

「って、え?」


 思わず口から声が出た。腰まで伸びた黒髪でワンピース姿の女性が、スクリーンを隠さないように腰を低くして入ってきたからだ。小走りのその女性は、一番前の列の真ん中に座った。女性の頭だけが半月のように見えているが、背もたれを使わず、食い入るようにスクリーンを眺めているように見える。

(あと十分もすれば終わるのに……。一体何のために映画館来たんだよ?)


 しばらくすると、エンディングの曲が流れ始めた。女性はまだ席を動いていない。最後まで見ずに帰ってしまうタイプではないようだ。俺は、エンドロールに流れてくる無名の俳優の名前をただ眺めた。


 スクリーンが一瞬真っ暗になり、照明がついた。映画が全て終わった。

 席を立つとステップを降りて、その女性の方へ向かった。普段ならこんなことはしないが、二人しかいない映画館なのだから、特におかしいわけでもないだろう。

「随分遅くに入ってきたんですね。俺しかいなかったんで、びっくりしましたよ」 

 こっちを振り向いた女性は、一瞬驚いた顔をしたが、「こっちもびっくりですよ、私ひとりかと思ってました」と屈託のない笑みを見せた。


「映画の内容についていけました?」

「もちろんです。この映画、もう飽きるほど何度も観てるんです」

「俺もこの映画めっちゃ観てます。家でも観たし、映画館でも観ました」

「そうなんですか。私と同じことする人がいるなんて。今日は、映画館で観る映画を特別なものにしたかったんです。それで最後のシーンだけ目に焼きつけようと思って、遅れて来ちゃいました」

「特別なもの?」

「私がまだ小さい頃は、映画館って特別な場所だったんです。でも、今はネットのサービスが普及してますよね。だから、映画の公開後、間もないうちに、自宅で見ることができちゃうでしょう? そうすると映画館が、全然特別なものじゃなくなる感じがするんです」

「そのために、わざと遅く入って来たんですか?」

「ははは、冗談ですよ。映画館でそんなことする人がいたら、許せません。仕事の残業で間に合わなかったんです。まさか、残り数分しか観れないとは思いませんでした。でも、映画館が特別なものだと感じられなくなったのは、本当のことですけどね」

 女性はそう言って、肩をすくめた。


「俺がレイトショーを選んだのも、映画館を独り占めした気分になれるからなんですよ。もしかしたら、俺も特別な場所だと感じたいのかもしれないです」

 そう言う間、俺の方を見ていた女性が足を挫いて、ピンク色のハイヒールが床に転がった。「いててて……」と呟いている真っ白いワンピースを着た女性と、映画館のステップの上り口に落ちたハイヒールを見たら、シンデレラのガラスの靴が脱げてしまうシーンに見えた。


「大丈夫ですか? なんか、シンデレラみたいだなって思いました」と思わず言うと、その女性は「なんてこと言うんですか」と笑った。ベタなことを言う奴だと思われたのかもしれない。


 この映画が好きという共通点があると、自然と他の話も弾んだ。俺たちは、映画館を出て一緒に帰ることにした。

 偶然にも、女性はここから一駅離れたところに住んでいるらしい。俺は二駅だから、大して変わらなかった。


 女性の名前は、エミ。アパレル業界で働いている、二十八歳。俺より一つ歳が下だ。

 着ている白いワンピースとピンク色のハイヒールは、エミの働いているアパレルブランドのものらしい。彼女の赤い口紅と、とてもよく似合っていた。

あと残り二回、再上映されるこの映画を、今度は一緒に観ようと決めた。次回の公開日の三月十日は、この映画館で会うことになった。


連絡先を交換し、電車を待ちながら話をしていると、急に腹痛が襲ってきた。やっぱりか、と思った。小さい頃から、緊張すると腹の調子がすぐに悪くなる。今回はそんなこともないのか? と思ったら、やっぱり話の弾んだタイミングで、腹部に痛みを感じることになった。こんなに綺麗な女性に出逢ったのに、トイレに行きたくなるとは、俺もツイてない。


「ごめん、腹痛いから、トイレ行ってくるわ、先に電車乗って帰って。また連絡するよ」

「わかった。じゃあ、また映画館でね」

 エミは少し驚いた顔をしたが、やってきた電車に乗って、閉まるドア越しに手を振ってくれた。

 俺はそんなエミを見送ると、すぐにトイレへと駆け込んだ。

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