あのとき、彼女の足跡はバラ色だった。
マスケッター
第1話 訪問
今ね、自宅のアパートにいるんですよ。念のために年月日と時刻、いっときますね。二○二五年一月一六日、午後二時二一分。
とっくに正月終わってますし、そもそも松も取れましたし。一月はいぬる、二月は逃げる、三月は去るっていいますよね? 俺、もう三十代の序盤で、若さはとっくに終わってます。え? 正月関係ない? ごめんなさい、ちょっとアルコール入ってますから。
まー、しがないサービス業でどうにか生きのびてます。でもね、そんな俺にも……。きたんですよ。『正月』が。じゃなかった、『春』が。
お相手は、五歳ほど歳下で、まあまあ美人だと思います。ノロケじゃございません。お仕事は、とある栄養ドリンクの訪問販売やってまして。いやー、じつは三週間ほど前に、ここにもきました。正直、そのときは断ったんです。
なので、話を三週間くらい前にさかのぼらせてください。
最初の出会いから数日して、二回目がきたんです。黄昏時に、大雨が降ってて。彼女、泣いてたんですよ。ずぶ濡れで。階段の脇にたったまま。
ふつうは無視するんですがね、何となくかわいそうになって。つい、どうしたんですかって聞いたんです。まあ、察しは大体つくんですよ。思うように契約が取れないとか、訪問先でボロクソにいわれたとか。
彼女は、ビクッと驚いて、怖そうに俺を見ましたね。そりゃそうでしょう、事と次第じゃ警察呼ばれそうなもんですし。
ちょっとまずかったかな、と思いつつも、声をかけといて自分から立ちさるのは余計に怪しいですし。何とも気まずい時間でしたね。
『
彼女は、しゃくりあげながらいいました。
『え?』
俺は、素でわかんなかったんです。だって、いきなり『薔薇色』ですよ? ちょっとメンヘラ入ってんのか、素で不思議系かなって引いちゃうじゃないですか。
『雨が降ると、足跡、薔薇色なんです!』
そういって、彼女は二、三歩ぐるぐる歩きまわってみせました。そしたら、本当に薔薇色じゃありませんか!
『えっ、マジ!? 靴にペンキでもついてるとか?』
俺がそういうと、彼女は黙って右足を上げました。靴底には何にもついてませんでした。
『まあ、ほんのちょっとで消えますけど』
彼女がそういいそえたときには、たしかに薔薇色の足跡は消えてました。
『と、特異体質とか?』
『だと思います』
『小さいときからそうなんですか?』
『いえ、数年くらい前からこうなりました』
『でも、どうせすぐに消えるし無害なんでしょ?』
『今日、せっかく取れた契約が打ちきりになったんです。あたし、配達も兼ねてるんですけど……』
あー、薔薇色の足跡を残す販売員が栄養ドリンクなんか運んできたら、そりゃ薄気味悪いですよね。
『なるほど。気の毒ですけど、いつも雨が降るわけじゃなし』
『だって、いつかは雨が降るじゃないですか! そうしたら、またこんなことが……』
『いっそのこと転職するとか』
『簡単にできたら苦労しません!』
いや、俺が怒られる筋合いないとは思えますよね? でも、彼女がガタガタ震えだしたんで、すごく迷いました。それこそ、いつ他人がくるかわかりませんし。
『とりあえず、まだ仕事残ってるでしょ?』
『いえ、今日はこれが最後で直帰です』
『あー……濡れたままじゃ身体に悪いし……俺の部屋くる?』
うわーっ、いっちゃった! いっちゃいましたよ! 彼女いない歴年齢の俺が!
『すみませんけど、そんなつもりで打ちあけたんじゃありませんから』
彼女はそれだけ答えて、回れ右。雨は相変わらずだったのに、そのまま傘もささずに去りました。去り際に、足跡が薔薇色になっては消えていきました。一世一代の俺の誘いかけは、 見事に散りました。彼女の足跡と同じように。
翌日、俺は風邪を引きました。濡れてはいなかったんですけどね。二重に馬鹿みたいです。とにかく一日中くしゃみしながら寝てました。
するとね、呼び鈴が鳴ったんですよ。病気だし、訪ねてくるような友人もいないから無視してました。そしたらまた呼び鈴が鳴ったんで、いい加減うっとおしくなってインターホンに出たんです。
『はい』
『こんにちは。昨日はどうも』
あれっ!? あのときの……。俺、思わず窓の外を眺めました。きれいに晴れてました。俺がこの部屋にいるってことを、じかに見られたとは思えませんから、声を覚えてくれてたんですよね。さすがはプロ。でも、ちょっとは『期待』する自分もいました。
『あー、こちらこそ』
それっきり、気の利いたことはいえずじまいでした。風邪のせいです。嘘です。元からこんな感じです。
『改めて、その……。栄養ドリンク、いかがでしょうか?』
あー、そっちね。ちょうど風邪引いてるし。いや、そういう問題じゃないって。
『ご、ご迷惑……でしたよね』
『び、びゃっ、待ってくばさい!』
ただでさえ鼻声だったのに、慌てたせいでよけいにひどい返事でした。
『はい?』
『げ、契約してもいいです』
『本当ですか!?』
『はばっくしょん! すみばせん、ちょっと風邪引いてて』
『え? 大丈夫ですか?』
『はい、マスクして、手も消毒しときまずがら』
まあ、俺、こういうことにはマメなんで。常備してます。
『わかりました』
ちゃっちゃと顔洗ってマスクして、手も消毒してから玄関を開けました。
『こんにちは』
彼女がにこやかに挨拶して、俺は、風邪も吹きとぶくらい気が明るくなりました。
『こ、ごんにちば』
俺は、どうにか挨拶を返しました。
『この度は、ご契約ありがとうございます』
そう始めて、彼女はてきぱき手続きを終わらせました。
『それじゃ、最初の分をお届けしますね』
彼女は、肩からさげていた箱の蓋を開けて、栄養ドリンクのビンを八つだしました。ビンは十五センチくらいの高さで、太さは人差し指くらい。黒茶色のガラス製で、『バラツヤール』と白抜きのロゴを盛り込んだ金色のラベルが貼ってありました。ラベルの説明書きによれば、新鮮な特別品種の薔薇を
ひょっとして、彼女の特異体質もこれのせいかなって思ったんですよ。だって、売上の足らない販売員が、自社の商品を買わされるとかって良く聞きますし。業界隠語で自爆ってヤツですっけ。まあ、でも、もしそうなら他にも同じ体質になった人間が出てしまうわけで。そうなったら最悪、訴訟もんでしょ? でも、そんなニュースはどこからも聞かなかったんで、別にいいかなって。
俺の納得は置いといて、これを毎日飲むと、薔薇のようにツヤツヤしたお肌になるんだそうです。契約の初回は一本オマケです。箱の中にはビニール袋の束もあって、一つをちぎってビンをまとめてくれました。
『きょ、今日は天気がいいですね』
ビニール袋を受けとりながら、俺は彼女の足に注目しました。
『はい。暑いくらいですね』
そのくせ彼女は汗一つかいていませんでした。
『お……俺は、足跡が薔薇色でも気にしませんから』
『うふふっ。ありがとうございます』
彼女は、昨日とは打ってかわって、華やかな表情でお辞儀しました。
『それでは、失礼します。来週、また配達に伺います』
『はい』
えっ!? これで終わり? いやいやいや、これから毎週配達にくるから! まだチャンスはある! ……はず。
待てば海路の何とやらって言葉、ありますよね? きたんですよ。その次の週。雨が。もちろん、風邪はとっくに治ってます。バラツヤール、毎日飲んでますよ。甘くておいしいです。お肌も、気のせいかツヤツヤしてきてます。
天気に関係なく配達はきますから、そりゃあもう、俺は神経って神経を研ぎすませて彼女を待ちました。
するとね、聞こえてきたんです。アパートの階段を上がる足音が!
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