魔女ラヴェンナの退屈で素晴らしい余生の日々

白金 将

第1話「寝起き、ままならぬ朝」

 うんざりする程の平和が続くウィンデル集落に、今日もいつも通り朝が来た。


 温暖な気候に生えた村ではイヌ、ネコ、ウシといった生き物たちが次々と目を覚まし、遠くではニワトリの声が新しい一日の到来をいよいよ告げる。東から昇った太陽はその黄金色の光を青空より振り撒いて、平凡極まりない所に建つ魔女小屋へあたたかな日差しを入れていた。


「うっ……」


 爽やかな朝日が届いた先――ベッドの上に仰向けの大の字で転がっていたのは、腰まで伸びた黒髪を好き放題に散らしている女。大人として程よく熟れた美しさの彼女は、それを無駄遣いするように口を開けていびきをかいている。


 幻想の大魔女、ラヴェンナ・フェイドリーム。推定年齢200歳以上。

 かつては「勇者」に手を貸し、魔王討伐の立役者の一人と言われた女性だが……それから百年が経過した現在の姿には威厳も貫禄もありはしない。ぐちゃぐちゃに丸まった布団の塊を蹴飛ばし、肌着の隙間からたるんだ贅肉が見放題になっていた魔女は、窓から射し込む光に顔面を照らされると眉間へ皺を寄せた。


「っ……ぅぅ……」


 明るさから逃げるように寝返りを打ったラヴェンナだが……折りの悪いことに、元々居たところはベッドの端っこ。たちまち彼女は頭から転げ落ち、下半身を寝台へ預けた奇妙な体勢で夢の世界から叩き出された。

 悶絶。

 朝の小鳥のさえずりが、魔女小屋になんとも空しく響き渡る。


「ぐうっ……ぁっ……もう少し、寝ようと思ってたのに……」


 芋虫のように這いずってようやく地に足着けた魔女は、半目のまま猫背の姿勢でダラダラと着替え始めた。椅子の背もたれにぶん投げていた黒のローブを纏って、とりあえず外に出られる格好になったラヴェンナは日の光を浴びようと玄関のドアへと向かっていく。

 が、フラフラとおぼつかない足取りの中、靴の先が床の段差に引っかかり――


「ぬわっ!」


 咄嗟に両手を前に突き出しながら、寝坊助魔女は見事な円弧を描いて前のめりに倒れ、うつ伏せから動けなくなってしまった。

 あまりの衝撃で身を起こすこともすぐにはできない。

 すると、痛みが引くのを待っていたラヴェンナへ一匹の黒猫が近付いて……


 にゃー。


 猫は魔女の後頭部を容赦なく踏みつけると、そのまま背中を伝い、我が物顔で中に入っていったのだった。



◆ ◆ ◆



 しばらく経って、魔女小屋の化粧台に置かれた鏡には、げっそりと無気力な顔の女が映っていた。椅子に腰掛け、眠っている間に縮れた黒髪へ木のブラシを通していると、玄関から真っ白い装いの女性が覗いてくる。

 オフショルダーのローブを纏って、頭に白い三角帽子を被っていた彼女は、未だ眠そうなラヴェンナに挨拶をした。


「ラヴェンナ様、起きていらしたのですね。朝食の準備ができています」

「ええ……これが終わったら行くわ、ロクサーヌ」

「声が嗄れております、後で水をお飲みください。……その猫は?」


 まだ朝だと言うのにひどく疲れたラヴェンナ。足元では、件の黒猫がゴロゴロと寝転がっては束の間の自由を謳歌していた。普段ならば家を荒らされては敵わないと彼女がすぐに追い出すものだが。


「何でもないわよ。外に出しておきなさい」

「はい、ではそのように」


 恭しい態度で返事をした白魔女は――かつて「氷撃の魔女」と呼ばれ怖れられていた女、ロクサーヌ・フロストは――足元で丸まっていた獣畜生の身体を後ろから持ち上げると踵を返して出て行った。

 鏡に、猫がふにゃーと縦に伸びる姿が映る。ラヴェンナはようやく髪の手入れを終えると今度は机上に並ぶ化粧品たちへ視線を落とし、僅かに迷った後一つを手に取った。化粧水を手のひらへ開け、両手に伸ばして頬へ叩きつける。


 普段の装いになった「大魔女」はやっと外へ出て来られた。

 黒のローブ、黒い魔女帽子、ちょっと低めのヒールを履いた彼女はいつものように朝食の場所へ向かう。よく晴れた空の下、隣の家と繋がっていた庭には小綺麗なガーデンテーブルと二脚のガーデンチェアが置かれ、そこに隣人であるロクサーヌの用意した料理が並べられていた。

 ラヴェンナは自分のところにあった水入りコップを掴むと、ガラガラに干上がっていた喉を潤すように音を立てて飲んでいく。一方のロクサーヌは遠くで先程の黒猫にネコジャラシを使って遊んでいたが、黒魔女の姿に気付くとゆっくり歩いて戻ってきた。


 ――テーブルについた二人は、他愛もないことを話して朝の時間を過ごす。


「そう言えば、今日は修道院からお手伝いの子が来ます」

「えっ? そんな話聞いてなかったけれど」

「申し訳ありません、伝えるのを忘れておりました。以前、修道女のアイリス様がいらした際に伺ったのですが、ラヴェンナ様は前日の農作業で疲れて昼寝を……」

「ああ、あの時……」


 ロクサーヌが用意してくれた朝食は、白い断面の柔らかいパンに焦げ目のついたベーコン、程よく火の入ったフライドエッグにジャガイモのポタージュ。木のボウルには新鮮な葉物野菜のサラダが敷き詰められている。

 これには朝から災難続きだったラヴェンナも笑顔に戻った。ベーコンの旨味が溶けた油に卵を絡ませてパンと共に頂けば、多少の不運も気にならないものだ。


「どんな子が来るの」

「12歳の可愛い男の子と聞きましたよ。将来の自分の姿がイメージできていないそうです。ウィンデル集落をはじめとして様々なお仕事を体験させる予定で」

「……可愛いって、何かそういう期待でもしているの?」

「こほん。ラヴェンナ様もご存じの通り、いま畑仕事の手が足りていなくて困っているんですよ。誰かが手伝ってくれればいいんですが」

「はいはい……」


 程よい風の中で朝食の時間を楽しんでいると、遠くからモ~っと鳴き声がした。いつ頃からか集落に居着いていた牛だ……牛はラヴェンナの家の周りに生えているハーブに首を伸ばすとその一本を千切ってムシャムシャ噛み始める。


「ああこら、ウシ! そういうことしないの!」


 ラヴェンナはすぐに立ち上がり、近くで物干し竿となりかけていた杖を取って現行犯を叩き出しに行く。牛はまんざらでもなさそうにモウモウと鳴いている。

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