0への切符
明(めい)
第1話
常識とはなんだろうか。
努力するのはあたりまえで、高校や大学を卒業したら働くのは常識。
大抵の会社は就業時間きっかりに始まり、遅刻は許されないのに残業はいくらでもしていい風潮がある。
最近では働き方も変わってきているが無視している会社も多く、会議室で座る場所も飲み屋で座る場所もエレベーターに乗る位置も一応は決められている。
アホか。
午後六時を過ぎて、水橋若菜は仕事を終え、デスクから立ちあがった。
デスク周りは綺麗に整頓されているがいつ整頓したのか記憶にない。
「お疲れさまでした。皆様これまでどうもありがとうございました」
定型的な挨拶をすると、オフィス中の人々の視線が一斉に若菜に向けられ、「お疲れさまでした」と言葉が飛び交う。直属の上司にも挨拶をしたかったが、今は外回り中だ。
社員証を部長に返し、ひとりひとりに丁寧に挨拶をすると、荷物をまとめて外に出る。
秋の終わりの、冷たい風に当たりながら十階建てのビルを振り返る。
株式会社ホワイト・ワン。もう、この会社とは関係がない。
いちおう、ありがとうございました。
内心でそう言って建物にお辞儀をする。
表面上はきっちり常識と言われることをしていても、内心些細なことはどうでもよくて日々を適当に生きてきた。常識という名の歯車の中でぐるぐると生きていると、長い人生がただの駒で終わるような気がして、損している気分になる。
しかし今、どうにも自分自身の存在意義があやふやだった。
およそ半年前、会社から帰る途中で事故に遭い、体が跳ね飛ばされて意識を失ってしまった。
目が覚めるとそこは病院の一室で、幼馴染の健太も駆けつけてきた。しかし怪我はかすり傷ひとつなく、車が突っ込んできたというと健太も医者も笑って「ただの脳震盪」だと言うのだ。
病院の検査でもなんの心配もないと言われてしまい、ではあの事故はなんだったのだろうか、目の前で事故が起きた瞬間に自分は脳震盪で倒れ、事故だと錯覚してしまったのだろうかと不思議に思っている。
そうして、なにも心配いらないと言われたのに会社に復帰してみると、記憶障害が残っていたことに気がついた。
頼まれた仕事をやっていたはずなのに、「その仕事は頼んでいない」と課長に叱責されたり、後輩に教えたと思っていたはずの仕事を教えていなかったり、会議でメモをとっていたはずがなにも書き記されていなかったりと、そんな小さな日々の積み重ねが続いて、ある日人事部の人間から肩を叩かれた。
「キミ、十一月いっぱいでおしまい」
自分の持っているスマホの機種がいつの間にか変わっていたことにも驚いて、通信会社に問い合わせをしてみるとちゃんと自分名義で契約しており、後日スマホを買ったというショップを訪ねてみれば、これまた店員が若菜の顔を覚えていて「お客さん、一年前に新機種に飛びついたでしょう。お忘れですか」と言うのだ。
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