コンビナートを見て育った
丸毛鈴
前編
高所を渡る、春の風が髪をかすめた。
からだは前へ、前へと乗り出そうとする。わたしは手すりをつかみ、そのからだを必死で室内へと押し戻そうとしていた。いやだ、と思った。それまでだって、何度も何度も希死念慮にさいなまされていた。それでもその日、生死の境界のギリギリのところで、わたしは「いやだ」と思ったのだ。死ぬなら、ちゃんと「死にたい」と思って死にたい。こんなのはいやだ。からだが勝手に身を投げようとする。そんな衝動の中で死ぬのは、いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。こんなのは、いやだ。
歯を食いしばり、涙にゆがんだ視界の中で、ただコンビナートの光がきらめいていた。
郷里の記憶は、いつもコンビナートとともにある。朝はほのほのとした空の下、煙突からは東雲にとけ込むように煙がのぼる。昼の薄青い空の下には、赤と白のツートンカラーの煙突がひと際映える。夜は煙突やプラントに灯された、白く輝く照明が胸を刺した。イルミネーションと違い、人に見せるためではないその照明は温度を感じさせず、それが胸を締め付けるようだった。
だから高校生のころ、精神のバランスを崩して命を落としかけた夜の記憶も、その寂しい光とともにあるのだった。
大学に進学し、郷里を離れたあとも、コンビナートの風景は、わたしにとって特別だった。電車が実家の最寄り駅に近づくと、車窓に煙突やそこからたなびく煙、複雑なパイプが見えてくる。その間に見える海は灰色がかった藍色で、外海とのつながりを感じさせない。それは海というよりただの港だった。タンカーが荷物を積み下ろし、コンビナートに冷却水を供給する存在。コンビナートに囲まれた水たまりのような「港」。それがわたしの郷里の風景だった。
それはワクワクするものであり、郷愁をかきたてるものであり、胸を締め付けるものであり、だからこそいつも目が離せない。この景色をなんと呼べばよいのだろうか。どう感じればいいのだろうか。いつも最後はことばと心の置きどころに困って、それで終わってしまう。
何度か郷里に帰ろうとしたことはある。しかし、雇用の状況や、地域にコミットできない自分の性格を考えると、それは難しいことだった。そのうえ、実家に帰るたびに、春の風がわたしの髪をなでたあの夜のことを思い出した。コンビナートのさみしい光は、いろいろな思い出と結びつき過ぎていた。
故郷は遠くにありて思うもの。そして、近づけば胸をかき乱されるもの。強烈に心惹かれるもの。でも、けして帰れない場所。
そんな思いを抱きながら、わたしは東京で暮らし続け、やがて結婚した。
「コンビナートでは、何を作っているんですか?」
港と工場を一望できる場所に建てられたタワーで夫が尋ねると、父が答える。
「原油を精製して、いろんなものを作っとるんですわ。まずはナフサに加工して、ガソリンとかLPGガスとか……」
「お義父さんも、あそこで働いていたんですよね。どのへんで?」
「あのへんのプラントで……」
正月の帰省中、はじめて間近に見るコンビナートに夫は興味が尽きないようで、次々と父に質問をし、答えを興味深く聞いている。それに対し、父も悪い気はしないようだ。
ひとしきり港の景色を堪能して、展望室中央に置かれた町の模型に近づく。室内の照明は乏しく、夕暮れ時にそれは暗く沈んで見えた。
「けっこう広いんですねえ。山もあるし……」
夫が手元のボタンを押すと、港湾部の一点が赤く光る。
「今いるのは、ここなんですね」
そうか、この町は、こんな形をしているのか。こんなふうに俯瞰で見たことはなかった、と思いながら、コンビナートが続く模型の沿岸部を目でたどる。わたしはコンビナートで働く父を持ち、コンビナートを見て生まれ育った。
実家へ帰ると、もうすっかり夜だった。マンションの共用廊下からは、さみしい光が群れる、コンビナートが見える。
「すっごい! かっこいい!」
夫が目を輝かせた。
「あのゲームっぽい! あれだよ、RPGの……なんだっけ?」
「『ファイナルファンタジーファイナルファンタジーVII』のミッドガル?」
「そうそう! ミッドガルっぽい!」
夫は目を輝かせた。
「きれいだね」
そうだな、とわたしは思う。そうだ、わたしの故郷にはコンビナートがあって、その夜景はきれい、なのだ。
だから、わたしは答えた。
「うん。きれいだよね」
新年明けてすぐの風は冷たく、しかし、春の気配をはらんでいた。
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