魔法使いの夢見る恋はロマンチカ

なつきはる。

第1話

 暗がりで息を潜めていると、早鐘のような鼓動がやけに耳に付いた。誰にも聞こえるはずがないとわかってはいても、じっと目を凝らす視線の先の男たちに見つかるのではないかと気が気ではない。息をするたびに周りの空気を震わせているような気がする。

 頭ではすぐにでもここから抜け出して、父に報告に行くべきだとわかっていた。けれどそうする間にあの紅い瞳の持ち主がどうなってしまうのかと思うと、その場から動くことができなかった。人々が行き交う賑やかな目抜き通りはすぐ目と鼻の先のはずなのに、その喧騒は不思議とここまでは届いてはこない。この国特有の痛いほどの陽射しも届かず、空気はひんやりとしている。父は不肖の息子が任務をほっぽり出して姿を消したことに気づいただろうか。忙しい父のことだから、気づいたところで溜息を吐くばかりで、捜索に時間を割いている余裕はないだろう。

 奥まった狭い路地は薄暗かったが、複数の子供たちが数人の男に囲まれていることがわかる。男たちが纏うローブは闇に溶けるように黒く、よく目を凝らさないとその数を把握することも難しい。男たちはなにやらひそひそと話をしていたが、いくら耳を欹てても伝わってくるのは子供たちの恐怖の気配だけだった。子供たちはおそらく、男たちによってどこからか攫われてきたのだろう。男たちと同じようなローブで身体を覆われていたが、その隙間からは手足を拘束する鎖が見え隠れしている。奴隷売買が禁止されているこの国で、一体どうやってあれだけの子供たちをここへ連れ込んだのだろう。ここへ続く路地のどれかが、どこかひっそりとした場所へと続いているのだろうか。

 マティスは今日、王国騎士団長を務める父のお供として街へ出ていた。騎士団は王宮と王都の警備を常務としており、父は定期的に警備拠点に詰める部下たちを叱咤激励して回っている。父は騎士としての技術力が高いのは勿論のこと、部下の統率力にも優れ王国を支えている貴族たちからの信頼も厚い。マティスはひとり息子として父の背中を追い掛けながらも、いまいちその評判はパッとしなかった。身体能力や見目や体躯は問題ないのだが、騎士としての職務に真面目に取り組むことができない。王都の犯罪率が極端に低いのは騎士団の、とりわけ父の功績が大きいことはわかってはいるつもりでも、どうしてかそれが上辺だけに思えてしまう。街に出た際は目抜き通りに並ぶ露天商たちに声を掛け、困ったことがないかと問うその姿勢さえも偽善のように感じていた。そんな態度だから、父はマティスのことを不肖の息子だと周囲に漏らしていた。そのうち愛想を尽かされるかもしれない。

 父が露天商たちに声を掛けている時間をじりじりと過ごしていたマティスは、目の端で怪しい影を捉えた。マティスが暮らす王国は国土の大半が砂漠であり、王都は砂漠の中に位置している。昼間は灼熱の太陽に晒されるこの国では国民の多くが肌の露出が多い服装を好み、ひと目を避けるようにフードを目深に被った様相は一際目を引いた。ひと目を憚るようにこそこそと移動していなければ、どこか他の国からの旅人だろうと見逃したかもしれない。けれどマティスは男を追う方がここで無駄な時間を過ごしているよりマシなことのように思えたのだった。

 そうして路地裏で息を潜めて、どれくらいの時間が経っただろう。あとを追った男はこの場所へと辿り着いた際、いつの間にか小柄な人物の腕を掴んでいた。逃げ出そうとしたところを捕まえたのか、マティスが気づかなかっただけで最初から連れていたのかは定かではない。その子供も闇に溶けるようなローブを着込んでいたが、手荒く投げ出されたせいでフードから銀色の髪がひと房零れたのが見えた。抗議するように顔を上げたその表情はよく見えないのに、一際強い光を湛えた紅い瞳がマティスの脳裏に焼き付いた。その刹那から、あの子を護らなければという衝動に抗えないでいる。

 いくら鍛錬を積んでいるとはいえ、たったひとりで乗り込むのは不利だ。男たちがどれほどの手練れかわからないが、あれだけの子供たちを攫ってこられる実力があるのなら手強いと見た方が賢明だろう。あの子ひとりだけを助け出すのならまだ、勝機はこちらにあるかもしれない。けれど見つけてしまった以上、子供たちを見殺しにすることなどできるはずがなかった。これが父の作った見せかけの平和の裏にある、見逃されている罪であるのなら尚更だ。

 打開策が見つからないうちに路地裏の壁に口が開いた。どうやら面している建物の裏口が開いたらしい。ぼんやりとした灯りが漏れるその中へ、男たちがひとりずつ子供たちを押し込んでいった。その隙にマティスは距離を詰め、どうにか建物の中が見える位置につけた。

 目抜き通りはあんなにも賑やかしいのに、路地裏は驚くほどに人通りがない。ひっそりとなにか悪いことをするのにはうってつけの場所だとも言えた。ようやく男たちが話す声を聞くことができたが、耳慣れない言葉が混じっているせいでなにを言っているのか理解ができなかった。他の国から王国へ奴隷を売りつけるために入国してきた輩かもしれない。ひとりでも顔が見えればと目を凝らしていると、部屋の奥に見知った顔が見えた。丸々と肥えた禿頭の男は王都を牛耳る権力者のひとりだ。マティスも何度か父のお供で顔を合わせている。表では腰が低く清廉潔白で知られていたが、まさかこんな一面を隠し持っていたとは。

 父が護っているのは上辺だけの平和なのだと、これではっきりした。このことを父が知っていて、わざと見逃している可能性はどのくらいあるだろう。息子という立場からすれば、そうではないことを祈るばかりだった。あの子たちの行く末を考えるだけで、忸怩たる想いが腹の底から湧き上がってくる。なにもできない自分への歯痒さを噛み締めていると、男があの子の腕を乱暴に掴んだ。無理矢理室内へと押し込まれようとする刹那、マティスは考えるより先に暗がりを飛び出していた。男が怯んだ隙をついてその腹に拳を打ち込むと、その子の手を取って背後に庇う。襲い掛かってきたふたり目を躱してその背に肘を叩き込むと、鞘ごと抜いた剣でもうひとりの腹を薙いだ。行こうとその子の手を取ろうとしたとき、ようやく騒ぎに気づいた禿頭の男が姿を現した。

「おい、何事、」

 騒ぎの元凶がマティスであると気づいたのか、男は短く息を呑んだ。しかしひとりであることに安堵するように、その頬をすぐに脂下げる。これはこれは、と恭しくわざとらしく頭を下げると、ふっと表情を消して手を挙げた。その手を軽く振ると剣を構えた兵士がふたり出てきて、男を背後に庇った。

「一体どこから嗅ぎ付けてきたのやら。普段の行いを挽回しようとでも思っているのですか?」

 やれやれとでも言いたそうなその様子には、マティスへの卑下が滲んでいた。マティスは彼のことを深く知っているわけではないが、父に対しては謙った態度を取っていた。しかしにこやかな表情を貼り付けた腹の底では、父に付き従っているだけのマティスを見下していたのだろう。王都の政治にも口を出せる立場で、うしろ暗いことに手を染めている気分は如何だろう。

 ふたりの兵士は先ほどの男たちとは違い、簡易的だが武装をしていた。腰に吊り下げた剣に手を掛けて、今にも抜かんとする勢いだ。見たことのない顔だから、男が個人的に雇っている傭兵だろうか。大男というにふさわしい体格のふたりを、ひとりで相手をするのは些か分が悪そうだった。先ほど難なく三人伸せたのは、ただ単に運がよかっただけだ。

「あなたがこんなことをしていると父は、」

「誰にも知られてはおりませんよ。これは秘密裏の慈善事業なのです」

「慈善事業?」

 つい怪訝な声が出た。男はマティスの様子に笑みを深めて、最後に教えてあげましょう、と言う。

「最近、砂漠の民たちが領土争いに巻き込まれ始めたのはご存じでしょう?王国も手を打っていますが、中々に厳しい状況だ。あの子たちは集落から焼け出された孤児なのです。野垂れ死にするより、誰かの役に立った方が賢明でしょう」

「奴隷の売買は禁じられているはずだ」

「バレなければ、やっていないのと同じこと。残念ながらあなたはここで死んで頂きましょう。御父上には、勇敢にも奴隷売買業者にひとりで立ち向かい亡くなられたとお伝え致します」

 男がにんまりと笑うのと、兵士たちが剣を抜くのとはほぼ同時だった。マティスも小さく舌打ちをすると剣の柄に手を掛ける。ひとりが体勢を低くするとその足が地面を蹴った。その太刀筋を身軽に躱したところに、もうひとりが切り掛かってくる。

 思った通り、ふたりの兵士は体格に似合わず俊敏で、相当な手練れであると知れた。貴族たちからいくらできの悪い息子だと思われていても、マティスも一応王国騎士団の一員である。その実力は父の折り紙付きだったが、それでもふたり相手では隙をつくことさえ難しい。しかも路地は狭いし、背後にあの子を庇っていては下手な動きができない。その様子を伺うことはできないが、子供は息を潜めてじっとしているようだった。

 ここでマティスが打ち負けたら、男が言う通り“普段の不真面目さを挽回しようとした馬鹿息子”で終わるだろう。父や周りからの評判のため、というよりは、この子のためにマティスは負けるわけにはいかないのだった。重たい太刀を弾き返すと、体勢を低くして次の一手を躱した。俊敏さに掛けては体格差からしてもマティスの方が有利だ。躱した勢いのまま相手の脛に蹴りを入れると、ようやく一瞬の隙ができた。マティスはその隙を逃さず、身を翻して子供の身体を攫うと目抜き通りの方角へと地面を蹴った。

 うしろから男たちの怒号と気配が追ってきた。目抜き通りまではそれほど距離がないと思っていたが、思いの外奥まで入り込んでいたらしい。肩に担ぎ上げた身体は薄く身動ぎもせずに大人しい。揺れるたびに鎖の音がうるさかったが、その身体は驚くくらいに軽かった。追手を躱すために目についた角を曲がり続けていたせいで、いつの間にかどこにいるのかわからなくなっていた。気づいたときには追手の気配は随分と遠のいていた。

 ふたりは相変わらず薄暗い路地裏にいた。立ち止まって子供を下ろすと、華奢だがそれほど小柄ではないことに気づく。触れたことで、女の子ではないこともわかった。フードの下を覗き込むと、マティスを虜にした紅い瞳が少し不安げに見返してきた。顔の造作は少女のように可憐で、これはあの男が高く売り飛ばそうと算段したのも肯ける。身を潜めるようにしゃがみ込むと、マティスはその手足を拘束している鎖を外してやろうと試みる。両手足に取り付けられた鉄の輪は頑丈で、しっかりと南京錠で閉じられていた。そこを抉じ開けようと剣の刃先を捩じ込んでみたが、力任せでどうにかなる代物ではなさそうだ。

「あそこにいた子供たちは知り合いか?」

「いえ、色々なところから集められたみたいです。何人かは同じ村の子ですけど、僕のことは知らないんじゃないかな」

「男たちのことでなにか知っている情報はないか?どこの国のやつとか」

「よくわかりません。でも、言葉のアクセントは少しおかしかったかもしれません。知らない言葉で話しているときもありました」

 少年は言葉を選ぶように話した。その言動はしっかりしていて、つい先ほどまで捕まっていたとは思えなかった。マティスがなんとかしようと鎖をガチャつかせていると、彼の掌がすっと鉄の輪に触れる。次の瞬間にはなぜだが南京錠が焼き切れていた。唖然とするマティスに彼が頬を笑みに崩す。

「どうやったんだ?今の、」

「怖いですか?」

「いや、ただ驚いて。魔法を使える者はこの世界に一握りもいないと聞いていたから。それに杖も使わずにどうやって?」

「杖は魔力の器なので、なくても魔法を使うことはできます。杖なしの魔術師はあまり見掛けないですけど」

 そもそも魔術師を見掛けるなんてことは、この王国では非常に珍しい。その稀有な能力をひけらかそうとしない限り、魔術師たちはその身分を隠して生活していると言われていた。魔術師は砂漠と森林の境にある村で生まれると伝えられていたが、その村は閉鎖的で他国との交流を閉じていた。太古の昔は各国の王家に魔力が受け継がれていたらしいが、それも絶えて久しい。マティスが知っているのは王国付きの魔女がいるらしい、という情報だけで、その姿を見たことはない。

 少年は手足の鎖を解き終えるとほぐすように動かした。その様子を唖然として見ていたマティスだったが、ふと彼はその気になれば逃げられたことに気づく。杖も使わずに手を翳すだけならば、逃げ出す機会などいくらでもあっただろう。彼の能力がどれほどのものか計り知れないが、男たちの気をそらして子供たちを助け出すことだってできたかもしれない。

 マティスの疑念に気づいたのか、彼が少し気まずそうに苦笑った。

「逃げても仕方ないなって思っていたんです。これ以上悪くはならないだろうけど、よくもならないってわかっていたから。でも、あなたが助けてくれたから僕の人生も捨てたものじゃないかも、って思えました」

 そう言う彼の声がマティスの耳から身体の奥底へと入り込んで、心臓を柔く締め付けた。彼の紅い瞳を向けられると急に鼓動が騒ぎ出して、浮足立つような気分になる。こんな気持ちは今まで、誰に対しても抱いたことはなかった。こんな窮地に立っていても、彼に対してふわふわとした甘い感情を抱くなんて信じられない。それでもこれが、彼を助けなければという強い衝動の答えであることだけはわかった。

「助けてくれてありがとうございます、騎士様。でも、女の子じゃなくて残念でしたね」

 苦笑いを滲ませたような声音にそう言われて、マティスの熱くなっていた頬が冷えた。少し俯いたその頬に、フードから零れた銀色の髪が落ちかかる。ようやく恐怖が追い付いてきたのか、その掌が微かに震えているような気がした。彼はマティスが女の子だと思って自分を助けたとでも思っているのだろうか。そして男だと知れたら、放り出されるとでも?

「どうしてそんなことを思う?」

「僕、よく女の子に間違えられるんです。攫われたときもたぶん。僕が男だって知って、あの男たちは落胆していましたから。だからあなたも、がっかりしたんじゃないかと思って」

「関係ないよ。ちゃんと安全なところまで届けるし、あの子たちのことも助ける」

 安心させるように彼の掌を握り締めると、弾かれたように紅い瞳がマティスを見た。安心させるように笑むと、その白い頬に赤みが差して、それからふっと柔らかな笑みに崩れる。それが本当に可憐で、マティスは跳ね上がる鼓動をぐっと抑えるのに苦労した。

 追手が追い付いてこないことを確認してから、ふたりは路地をそろそろと進んだ。マティスは王都生まれだが、あまり地理には詳しくはない。箱入り息子、というわけではないが、父はマティスに大層な期待を掛けて育て、外出する際も常にお供を付けて寄越した。行くことが許されていたのは賑やかな目抜き通りとその周辺で、薄暗い路地には大人になってからも迷い込んだことはない。追手への警戒は最大限に続けたまま幾つもの角を曲がり、少し開けた通りに出たときにはほっとした。

 その道は目抜き通りほど栄えてはいないものの、幾つかの店が軒を連ね、それなりに人通りがあった。人々は突然細い路地から現れたふたりを怪訝そうに見ながらも、声を掛けてくる者はいない。マティスはここが東西に伸びる通りのどれかだろうと当たりをつけた。目抜き通りと反対方向へ進めば、居住地域に入っていくはずだ。

 王都は目抜き通りで東西に分かれており、身分の差で居住地域が分かれている。貴族の中でも王宮の仕事を任されている者たちは、王宮のすぐ傍に邸を構えることを許されていた。邸ごとに門があり、平民はその地域に足を踏み入れることは難しい。身分が低くなるごとに居住区は王宮から離れていく。いちばん外側の平民街までは随分と距離があり、都の中心を通る目抜き通りからは馬車が出ている。マティスが父と暮らす邸は王宮から見て東側に位置していたが、ここからだと少々距離がある。歩くよりは馬車の停留所へ向かった方が賢明だろう、と視線を少年へと向けると、長いマントの下から覗く足先が赤く擦り剝けていた。

「気づかなくて悪かった。大丈夫か?」

 マティスが膝をつくと、少年が驚いたように足を引っ込めた。どうしたんだと見上げると、困ったような瞳がこちらを見下ろしている。大丈夫です、と言う、その声がか細かった。マティスは早く彼を父の元へ連れて行くことばかりを優先していて、配慮が足りていなかったことを悔やまずにはいられなかった。

 触れようと伸ばしたマティスの手から逃げるように、少年が足をローブの中へと引っ込めた。大丈夫ですから、と言う声は頑なで、マティスの胸を切なく揺らがせた。人生捨てたものではない、と言った彼の言葉を思い出した。もしかしなくてもこの子は、これまで誰かに気遣ってもらったことがないのではないか。そう思うと、この子を護りたいという気持ちが強くなった。

「大丈夫かどうかは俺が診て判断する。無理させたのは俺だろう?」

 懇願するように見上げると彼の表情が曇った。少し泣きそうな瞳に見下ろさせると、なんだか落ち着かない気分にさせられる。負けじとその瞳を見返すと、ふと視線をそらした少年が諦めたようにローブを少し持ち上げた。真っ白な素足には汚れと細かな傷が無数にあった。もしこれがマティスの足だったなら、痛くて歩くこともできなかっただろう。つい小さく溜息が漏れてしまうと少年がびくりと震えた。その刹那にローブの裾が素足を隠して、それ以上の観察が許されることはなかった。

「ごめんなさい、」

「どうして謝るんだ?」

 そう問うたマティスに少年が困ったように小さく笑う。上手い答えが見つからないのを、誤魔化しているような笑みだ。

 ふと、こちらへと駆けてくる足音が聞こえた。慌てて立ち上がったマティスが少年を背後へと庇うと、追い付いてきたのは数人の父の部下だった。

「マティス殿、ご無事でなによりです」

 先頭にいた騎士がそう言ったが、その表情は硬く引き締まったままだ。マティスは背後で少年の気配が硬くなるのを感じて、安心させるようにその肩を抱き寄せた。男の目が少年の方を見て、それからまたマティスへと戻る。彼は父の片腕と呼ばれる立場にいる、父がいちばん信頼している男だった。そんな彼をマティスの捜索に充てるなんて、と驚きが勝る。

「団長は既に王宮へ戻られております。のちほど執務室へ来るようにと」

「戻り次第すぐに向かいます。ズウェン卿、まずはわたしに力をお貸し頂けませんか?」

「ほう。それはその子と関係があることですかな?」

 ズウェンに名指しされて少年が身を縮こまらせた。彼に従っている部下たちも、興味深そうな視線を少年へと向けている。通りを歩く住人たちが、なにか事件でも起こったのかとひそひそと噂話を始めた。騎士たちよりも余程不躾な視線まで集まり出すと、流石のマティスも居心地が悪い。

「路地の奥で奴隷取引の現場を見掛けました。この子はそこから助け出してきたのです。わたしひとりではこれが限界でしたが、ズウェン卿のお力があれば他の子供たちも救えるはずです。信じてもらえないかもしれませんが、手引きをしていたのはザークラウト卿です」

「その件でしたら、既に他の部隊を向かわせております。子供たちを救い出すのも時間の問題でしょう」

「どういうことですか?」

 ぽかんとしそうな自分を叱咤して、どうにか威厳を保った。あの場を目撃していたのは間違いなくマティスひとりだったはずだ。ズウェンはそんなマティスに少しだけ表情を弛めると、お手柄でしたね、と言った。ますます意味が分からない。

「詳しいお話は御父上からお聞きください。その者はこちらでお預かりしますか?」

「いえ、俺が連れていきます」

「わかりました。では、参りましょう」

 肯いたズウェンは踵を返すと、部下たちを引き連れてきた方向へと戻っていく。マティスは少年を抱き上げると、彼らを追って歩き出した。ズウェンはそんなふたりの様子をちらりと見やると、興味深そうにその眦を僅かに弛めた。



 父の執務室は他の政務官たちに比べるとさっぱりとした内装だった。広さもこぢんまりとしていて、家具と呼べるのは父が座る執務机と壁際に置かれた書類棚だけだ。客人のための椅子もないので、マティスはいつも机の前に立ったまま怒られるのを待っている気分にさせられる。父は厳格そうな雰囲気で机に肘をついていたが、まだそこまで歳を取っていないせいか少々威厳に欠けて見えた。誰もそんなことは口が裂けても言わないが、ズウェンの方が父よりもずっと偉そうに見える。

「よく無事に戻った。手練れの傭兵ふたりをひとりで打ち負かしたそうだな」

「誰から聞いたのか知りませんが、少々語弊があるようです。俺は隙をついて逃げただけです」

「臨機応変な立派な判断だった、と聞いている」

「いったい、どういうことなのですか」

 怪訝そうなマティスに父は口元を微かな笑みに歪めた。周りに言われるほどマティスと父の関係性は悪くないが、彼がなにを考えているのかを読み取ることは難しい。父の方もマティスのことをそれほどわかっているわけではないだろう。関わり合いを持つようになったのはマティスが騎士になるための鍛錬を始めて、父の仕事についていくようになってからだ。幼少期のマティスは父に構ってもらった記憶はない。両親の仲はよかったはずだが、身体が弱かった母はマティスが十になる年に亡くなっていた。父がますます邸に寄り付かなくなったのはそれからだ。

 執務室の中はふたりきりで、少々息が詰まった。廊下には護衛の騎士が待機しているはずだが、ぴたりと閉められた扉の向こうに話声が聞こえることはないだろう。マティスが緊張していることを見抜いたのか、ふと父が態度を和らげた。椅子くらい置いておくべきだな、と言って、居住まいを崩す。

「そう怖い顔をするな。叱るために呼んだわけじゃない。ザークラウト卿の動きがきな臭いことには随分と前から気づいていた。ただ、確たる証拠がなかった。それで少し前にあれが手練れの傭兵を探しているという情報を掴んで、うちからひとり潜らせておいたのだ」

「それが、わたしと打ち合ったひとりだと?」

「そうだ。お前が少年をひとり助け出してくれたお陰で動くことができた。彼がお前を追うふりをしてこちらに知らせてくれた。それで、ザークラウト卿を捕え子供たちを救うことができた」

「では子供たちは無事なのですね」

「ああ。多少の衰弱やけがはあったそうだが命に別状はない。色々な地域から攫われてきた子供たちのようだ。親元に返すのは難しいだろう」

「これは慈善事業なのだとザークラウト卿に言われました」

「ほう」

「彼らは紛争で焼け出された孤児なのだと言っていました。本当かどうかはわかりませんが、」

「それなら猶更、親を見つけるのは難しいだろうな。子供たちは孤児院で保護されることになっている。お前が助け出したあの子も同様だ」

 わかっていたことではあるものの、父にそう断言されると心が痛んだ。助けた傍から他の者に預けてしまうのは、なんだか無責任な気がしてたまらなかった。食い下がってみようか、と思いはしたが、父が決めたことに勝てるはずがないこともわかっている。それでも、手放したくなかった。まだほとんど彼のことを知らないのに、マティスは少年を宝物のように感じ始めている自分に気づいていた。

「あの子は、うちで保護してはいけませんか」

「自分で助けたから情けを掛けるのか?同じ境遇だった他の子供たちに示しがつかないだろう」

「しかし、彼は魔法を使えます。特別に保護する理由があるのではないでしょうか?」

「我が家にいたところでその力は振るえまい。あの子のことを想うのなら、孤児院に保護してもらうのが賢明だ。あそこにはエトル嬢がいる。魔法教育なら彼女に任せるのがよかろう」

「ですがっ、」

「マティス、あれは魔性だ。我々の手には負えない」

「魔性?どういう意味ですか」

「下手をすれば魅入られるということだ。特別な能力を持つ者は人を従わせるほどの不思議な魅力を兼ね備えている。あの子もそうなのだろう。近年魔法を使える者は数少ない。魔力を持って生まれてくる者は常に狙われるだろう。王宮に保護してもらっていた方が安全だ。わかるな」

 父に諭されてマティスは肯いた。少年が父の言う“魔性”であるとは思いたくなかったが、父の言い分に反論の余地はない。父は最後に少年の怪我が治るまでは邸で療養することを許してくれた。それが最大限の配慮だろう。

「マティス、くれぐれもあの子には近づき過ぎるな」

 部屋を出ようとしたマティスに、父がそう念押しした。マティスは父に向き直ると、わかっていますと頭を下げる。マティスは最早そんな忠告に耳を傾けるつもりはなかった。

 王宮を出て邸へと戻ると、執事が少年の部屋まで案内してくれた。マティスが得体の知れない少年を抱えて戻ってきても、彼は顔色ひとつ変えずに手際よく取り計らってくれた。代々マティスの家に執事として仕えており、彼が引退したあとはその息子が職を引き継ぐことになっている。マティスが幼い頃にはもう祖父と呼べるくらいの年齢だったが、年老いたその姿は凛としておりまだまだ現役で働けそうだ。マティスにとっては家庭教師という一面もあり、彼には未だに頭が上がらない。

「お部屋はマティス様のお部屋の向かいにご用意しました。ローブで見えませんでしたが、随分と過酷な生活を送っていたようです。身体中怪我だらけでした」

「そうか。ネルに連絡は?」

「先ほどご到着されました。入浴と着替えは済ませております。お食事はこれから、なにか胃に優しいものを用意させましょう。ご当主様はなんと?」

「怪我が治りしだい孤児院に引き渡すそうだ」

「そうですか」

 マティスの忸怩たる想いを汲んだのか、執事はそれ以上なにも言わなかった。部屋に到着すると開け放たれたままの扉から、ベッドに座る少年の姿が見えた。ローブを脱ぎこざっぱりとした服装に着替えた彼の手足には、見えるところだけでも無数の傷がある。彼の前に跪いてその傷をひとつひとつ丁寧に診ているのが、王宮付きの医師であるネルだ。ネルはマティスの母親の主治医で、類まれなる医療の才に秀でていた。随分と歳を重ねているはずだが、いつ逢ってもちっとも姿が変わらないことを、マティスはずっと不思議に思っていた。

「ネル様。マティス様がお帰りになりました」

 執事が扉をノックしてそう告げると、ネルが顔を上げないまま入るようにと促した。そういうところが彼らしいなと苦笑うと、執事に戻るように言ってから部屋に入る。

 客間として設えられているこの部屋が、実際に使われたのはいつぶりだろう。母が生きていた頃は親族や他の貴族との交流もあったが、彼女が亡くなってからは住人が使う部屋以外が永遠に閉ざされてしまった。定期的に掃除もして風を通してはいるものの、使われていない部屋の雰囲気はどこか余所余所しい。マティスはベッドへと近づくと、少年の横に腰掛けた。大丈夫かと声を掛けると彼が小さく肯く。

 マティスはネルの診察と治療が終わるまで、そこで大人しくしていた。並んで座る少年はマティスよりも頭ひとつ分くらい背が低いくらいで、それほど子供でないことがわかった。肌の色は抜けるように白く、肩甲骨辺りまで伸びている豊かな銀髪は、陽に透かしたら溶けてしまうのではと思うくらいに色素がない。マティスもそうだが、砂漠で暮らす人々は浅黒い肌を持つ種族だ。個人差はあれ多くの人は金色の髪と碧眼を持っている。王都にはいろいろな国からの移民も住んではいるが、彼ほど白い肌の持ち主をマティスは見たことがなかった。

「坊ちゃま、そんなに見ては穴が開きますぞ」

 苦笑いが滲んだ声にそう言われてマティスは我に返った。ネルは微笑まし気な視線をマティスに向けると、木の枝のようなもので少年の傷を撫でた。木の葉で撫でられるのはくすぐったいのか、少年が微かに身を捩る。マティスが不思議そうに見守る前で、ネルは少年の全身をさっと撫で終えると満足げに肯いた。なにか変わったようには見えなかったが、強いて言うなら少年の傷が多少薄くなっているくらいか。

「傷が癒えるまではもうしばらく掛かるでしょう。その間は無理をなさらず、充分に療養するように。坊ちゃま、よろしいですか?」

「ああ。俺はいつまでもいてもらって構わない」

 それは本心からの言葉だったのだが、少年は冗談だと受け取ったのか、僅かに瞳を見開いたあとで柔らかな笑みを零した。

「ありがとうございます、騎士様」

「ほう、騎士様とな。随分と立派になられましたのう」

「ネル、俺はもう十七だぞ」

「そうじゃったそうじゃった。坊ちゃまがわしのあとをついて回っていたのが昨日のことのようじゃ」

 ネルがそう笑いながら立ち上がった。腰が曲がった彼の背丈は、マティスの半分ほどしかない。手に持っていた枝を白衣の内ポケットへとしまうと、マティスを部屋の外へ出るように促した。

うしろ髪を引かれる思いでネルのあとを追うと、入れ違いにメイドが食事を運んできた。マティスとネルに会釈をすると、部屋に入って食事の支度を整える。その様子を確認してからネルへと向き直ると、マティスの背が伸びたせいか、随分と小さくなったように思えた。

「あの子の容体は?」

「至って健康、とは言えませんな。随分と酷い境遇で過ごしてきたようです」

「全身傷だらけなんだろう?治りそうか?」

「あの程度なら数日療養すれば問題ないでしょう。古い傷は完全には消えませんがな」

 そう言われて安堵した。ネルはそんなマティスの様子に柔らかな笑みを浮かべて暇を告げた。

「なにかありましたらお呼びください。坊ちゃま、くれぐれも大切になさいませ」

「ああ、くれぐれも、な」

「はい、くれぐれもです。誰になにを言われようと、ご自分の心に嘘は吐いてはなりませぬよ」

「ネルは俺の気持ちを読むのが上手いな」

「伊達に歳を取ってはおりませぬからのう」

 ネルが得意げに笑うと、マティスの頬も笑みに弛んだ。この老人はマティスが幼い頃から、胸の内に秘めて言えずにいる想いを汲み取るのが上手かった。母が死の淵に瀕しているときに誰よりもマティスの気持ちに寄り添ってくれたのは、父ではなく彼だった。彼はマティスに自分の気持ちをいちばんに大切することを教えてくれた。誰になにに言われても、自分の心の内だけはなによりも大切にするべきなのだ、と。

 だからマティスは大切にしたい、と思っている。父には反対されたが、ネルはマティスに少年と過ごす期限に少し猶予を持たせてくれた。父はマティスがただ少年の魅力に魅入られているだけだと諭したが、マティスはそうであるとは思えない。例えそうだとしても、この気持ちがいつか冷めるとは考えられなかった。

 部屋に戻るとまだ少年は食事の最中だった。傍に控えているメイドの方をちらちら見ているのに気づいて、マティスは彼女に部屋の外で待つように告げた。向かい合わせで置かれたソファに座る彼はなんだか居心地が悪そうで、並べられた食事にもほとんど手が付けられていない。マティスが彼の前に座ると、少年はスプーンを置いて居住まいを正した。

「俺がいると食べにくいか?」

「いえ、あんまりお腹が空いていなくて」

「そうか。でもちゃんと食べないと、治るものも治らないぞ。無理することはないが、もう少し食べてくれたらうれしい」

 そう言ったら少年が驚いたように紅い瞳を見開いて、それから少し困ったような笑みを浮かべた。再びスプーンを手に取るとシチューを掬って口に運ぶ。おずおずとした所作に、慣れていない様子が見て取れた。今まで過酷な環境で育ってきたのだろう、と執事とネルが口を揃えるあたり、食事のマナーを教えてもらえる環境ではなかったのかもしれない。ましてやきちんとした食事を取れていたのかどうかも怪しい。身体中についた傷は、なにも攫われてからできたものばかりではないだろう。

 考えれば考えるほど、マティスの胸は痛んだ。こんなときでも父に逆らうことができない、未熟な自分が憎い。もしマティスが父の跡目を継いでいる立場だったら、誰になにを言われることなく、彼のことを護ってやれただろう。けれど今は、どうすることもできない。

「口に合うか?」

「はい、美味しいです。こんなに美味しいもの、初めて食べたかもしれません」

「そうか。これからはずっと食べられるぞ。一緒だったあの子たちも全員無事に保護された。きみは傷が癒えたら、彼らと一緒に孤児院で暮らすことになる。そこにいた方が安全だと、父が判断した」

「そうですか」

「俺はここできみを保護するつもりだったんだ。でも、そうできるだけの力がなかった。すまない」

「いえ、充分過ぎますよ。僕のこれまでの人生でいちばんです」

 うれしそうに笑むその顔は、マティスが見たこともないくらいに美しかった。怖いくらいに整っている造作が笑みを作るだけで息をするのを忘れてしまう。その笑みを目の当たりにすると、魔性と呼びたくなる気持ちもわからなくはなかった。こんな笑みを向けられたら、誰だって彼のためになにかしてやりたくなってしまう。そう思うからこそ、邪な気持ちを抱く者の手に渡らなくて本当によかった。もしそんな輩に売られていたら、と思うだけで腸が煮えくり返りそうだ。

 少年が食べ終わるのを待って、ふたりで色々と話をした。マティスが話す王都の話に彼は興味津々で食いついてきたが、いざ自分の話となると多くは語りたがらなかった。わかったのはアステラという彼の名前と、歳が十六であること、生まれが砂漠と森の境界にある村であることくらいで、そこでどんな暮らしをしていたかまでは教えてくれなかった。

 アステラが生まれた村はある日突然襲撃され一夜のうちに滅びたらしい。見目がよい子供たちが集められ、荷馬車に詰め込まれて王都まで運ばれてきたのだと言う。それは王都で生まれ育ち、安全な場所で生きてきたマティスにとっては遠い次元の話に聞こえた。騎士として仕事に従事していても、マティスは戦場を知らない。父は幾度となく兵を率いて戦場に出ていたが、マティスは許されたことはなかった。国同士の戦争はもう何十年も起こっておらず、騎士団が解決するのはもっぱら砂漠での領土争いの紛争だ。昨今は北から蛮族が小さな村々を荒らしまわっており、それを制圧するのも王国騎士団の仕事なのだ。

「大変だったんだな、」

「でも騎士様が助けてくださいましたから。お医者様が怪我も治してくださいましたし、美味しいご飯も食べられました」

 与えられて当たり前なことに感動した様子の彼を、マティスは無性に抱き締めてやりたくなった。これからは自分がそんな目には合わせないと言いたかったが、数日後にここから追い出す身では、そんなことは口が裂けても言えまい。だから代わりに、自分にはマティスという名前があるのだと冗談めかして笑った。

「孤児院には王宮付きの魔女様がいる。俺は逢ったことないけれど、きみがその気なら魔法の使い方を教えてもらえるだろう」

「本当ですか!?」

「ああ。父はそのつもりだと言っていた。きみの力は希少だし、きっと色々なことに役に立つ。きみがやりたいことを見つければ後押しもしてくれるだろう。俺も、できることがあればなんだってするよ」

「それならひとつだけ、その、お願いがあるんですけど」

 恥ずかしがるように目を伏せてそう言われると、なにを言われるのかと期待する気持ちが逸った。彼にされるお願いであればなんだって叶えてやりたい。

「お時間があるときで大丈夫なので、また逢いに来てくださいますか?」

 そう言われて、なんだそんなことかと笑った。

「もちろん。約束するよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る