好きになったら負け

あれからも何度か、真理佳と秋流さんが私が帰ってくる前にこの屋敷の中で会っているのを目撃した。



それは最初一週間に2回程度だったのが、どんどん増えてこの頃では2日に1回は例のやり取りを繰り返している。




つまり、『それ』を返す、返さないの押し問答。



2人の仲は決していいとは言えない。むしろ険悪。


その険悪になるほどのムードを作り出せるほどの理由があるんだろうけれど、その理由もあの指輪を見ては考え付かない。




婚約指輪を渡したほどの女の人。その人を嫌いだという秋流さん。


そして、一度は出入り禁止にした彼女を、私がいない間に家に入れていること。




これでは私に会いに土日来なくなったというのも意味がない。




私がその問答を見ているとは知らないのだろう秋流さん。日に日にイライラしていっているのが分かる。それと同時に西野さんもまた、秋流さんに鋭い視線を向けている。




何かがあるのは理解できる。大人の世界の事情だから私が首を突っ込める話でないことも。



けれど、私そっちのけで話を進められるのが気分がいいかと言われたら、いいわけがない。




少なくとも私は秋流さんが好きなのだから。こそこそと会うような真似をされて、負の感情を抱かないとは思わないだろう。




きっと秋流さんも、私の思いに気付いていないから真理佳をここへ呼んでいる。会社が出禁だからと屋敷に呼ぶのもどうかと思う。


それとも偽の婚約者なら気遣わなくてもいいと思っているのか。




だとしたら最低だ。



どうして。


どうしてあの人は、私にキスしたのだろう。



大事だという雰囲気を出して。その目に愛しさをいっぱいにして、私を見ていた不思議な色の目。




私に幾度となく恋情の自惚れを抱かせた彼の優しさ。今となってはとても、残酷でしかなかった。



彼が何をしたいのか分からない。真理佳に婚約指輪を渡しておいて私を囲う。愛人にでもしようとしていた?いいや、彼はそんな人じゃない。


――そんな人でないと思いたい。




私の初めて好きになった人。その思い出を、汚したくはない。綺麗な純粋なままの記憶であってほしい。



何も出来ない私はこうして秋流さんに振り回されて、自分の持て余した彼への気持ちをくすぶらせるしかできない。




どうしたらいいんだろう。私は何をすべきなんだろう。



考えても考えても答えの出ない迷宮をぐるぐると回っている私。




誰も導いてくれる人がいない、ヒントもない。私は今、本当に孤独の中にいる。



私の存在価値ってなんだろう。秋流さんはとても私に優しくしてくれるし、よくしてくれて。



けれどそれがいきなり終わったら?


考えるたびに心が沈んでどん底に落ちていく。




はぁ、とため息をついたとき。





「――かり、結花里」



呼ばれてハッと我に返る。目の前にいる人は私が好きな人で、私の主。


その人が怪訝そうな顔をして私を覗き込んでいる。



「どうかしたのか?」



今は夕食の時間だった。秋流さんも早く帰って来てくれてご飯を一緒に食べてくれているのに、まさかぼーっとするなんて。


失態を犯したなと思った。




あの指輪を見てからというもの、真理佳と彼の喧嘩を見てからというもの、真理佳の顔が頭から離れなくて秋流さんの顔をまともに見れない。



いつ彼に家に帰れと言われるか心配でつい顔色を窺ってしまう。なのに彼が私の顔を見ると、視線をずらしてしまう。



この態度を彼が不思議がっているのも分かっている。でも意識して直そうとしても無理なのだ。




何もなかったかのように振る舞うなんて高等な技術を持ち合わせていないから。



「なんでもないです」



彼に向ける笑みがすごいぎこちなくなってしまうのは仕方がない。だって笑えないんだもの。



秋流さんがすごい微妙そうな顔をして見てくるのが分かる。なのにそれをフォローできない。




「なにがあった?」




こうやって気付かれてしまうほど私は分かりやすい。というかこんなしんみりした空気を出していたら分かってしまうのも当たり前なんだけど。



正直に言えたらどんなにいいか。今思っていることを口に出せたら。



その言葉という言葉の全部が全部、喉に張り付いて出てくることはないんだけれど。


結局毎回すべて飲み込んでしまうのだ。




どうしようも出来ないから、ただ首を振る。



「なにもありません」


「なにもないわけないだろう。君は……」


「なにもないんです」




秋流さんの言葉を遮って否定する。彼はまだ何とも言えない顔をしていたけれど、それ以上何かを追及してくることはなかった。



私が答えないのを彼は分かっている。彼はとても聡明な人だから、他人が嫌がっているのにずかずか入りこんできたりはしない。




それに助けられたと思ってしまう。



聞かれたくない。真理佳と仲を疑っているなんて口が裂けても言えないから。



私はどうすることも出来ないけれど、もんもんと胸に巣食っているこの感情は消え去ることがない。だからどうすることも出来ない。



例え秋流さんからそれは違う、という答えを聞いても、それが本当だという答えを聞いても、私の心が秋流さんを疑っているからどうしようもない。



ちゃんと明らかな態度を示して、明らかな証拠を見せられない限り私の心が秋流さんを信じることは出来ないもの。



こんな気持ちのまま彼と真正面から対話することなんてできそうにない、私の心臓はそこまで強靭じゃない。



ずっと黙っていたら諦めたのか、彼はご飯を食べ始める。そのあとは結局無言で食事を終わらせることになった。








真理佳との言い合いが始まってから、私と秋流さんの埋まっていた溝が広くなってきたと思う。


月光の降り注ぐテラスでの夜の時間はとても神秘的であれほど心待ちにしていたのに、今は彼の顔を見なければいけないかと思うと心が重くなる。


彼の顔を真っ直ぐ見れないから。言葉の真意に何か含まれている気がしてならなくて、とても怖い。




空気を読んでいるのか西野さんたちもこの頃はテラスに導こうとしない。とても質素に、そして簡潔に夕食後のティータイムは終わる。



前は何時間も話していた。些細な、とてもたわいもないことを。それがとても楽しかったのに。



今は2人の間にとても高い壁が出来てしまった気分だ。



今日も2人はあまり口を開くこともなく終わった。


秋流さんがとても気を使っているのが分かるから、それに私も気を使って早く部屋に戻ろうとしてしまう。



おやすみなさい、とだけ口にしてリビングを出る。




その口から重いため息が漏れた。



そのとき。




「結花里」




ふ、と秋流さんの声に階段を上がっていた私は振り返った。追ってきた彼のその顔にある感情は焦りと心配と疑惑を混ぜた複雑なもの。



あぁ、彼も私にどう接したらいいのか分かっていないのだろう。だからこんなふうによそよそしくなってしまっている。



理解はしているけれど、どちらもそれを解決するすべを持ち合わせない。



私の顔を見て彼がその綺麗な顔を歪ませた。




「何かあるなら、誰かに言いなさい」


「何か……」


「俺じゃなくてもいい。西野でもいい。友達でもいいから、言いなさい」


「……はい」




私が何か言いたいことがあるのを、彼も分かっている。無理やり口に出すことを強要しないところが大人な人。



心配してくれているのは分かる。けれど、その心配が彼が人がいいからなのか、私だからなのか与えられるものなのか分からない。




後者は、きっとない気がするけれど。



頷いて秋流さんに背中を向ける。彼の足音が聞こえないから私の背中をずっと見ているんだろうな。




バタン、と扉を閉める。扉に背中をついたままその場にずるずると座り込んだ。



もう、期待をさせないでほしい。キスをされたから愛されているなんて夢を見ないから。




彼のために私はやっぱり、身を引くべきなのだと思う。




「……っ」



もう嫌なの。



彼の行動に振り回されて一喜一憂する自分が。



熱くなった目頭を膝を抱えた腕に押し付ける。泣きたくなるのを堪えていると嗚咽が漏れた。




誰も聞いていないのに、もしかしたら秋流さんに聞こえている気がして。それがとても、怖いのだ。



なぜ怖いの?


すぐ泣くような煩わしい女だと思われたくないから。面倒だと思われて追い出されたくないから。



建前の婚約者なんて薄っぺらいつながりでも、離れたくないから。



自分の首を絞めるその危うい橋に、いつまでもしがみ付いているみっともない私。




「もうやだよ……ッ」



こんなに辛い思いをしたくない。


あんなに覚悟してきたのに、その覚悟もとても脆いものだった。




所詮はそんなもの。高校生の覚悟なんて大人からは覚悟とは呼べないただの『自己満足』でしかないのだ。




自分の無力に唇をぎゅっと噛みしめた。



そのとき。



ヴーっと音が鳴る。携帯のバイブ音。


メッセージだと思って放置していたそれは、どうやら長く続くから違うらしい。



想い体を起こしてベッドに投げてあったそれを手に取ると、ディスプレイには『中野爽』の名前があった。




爽。珍しい。いつもメッセージをしているから電話なんて滅多にないのに。



不思議に思いながら通話ボタンを押した。



「……はい」


『おっ――っせ』




耳に聞こえてきたのは低い怒ったような声。それに肩を震わせた。



「そ、う……?」


『電話出るのおせぇよ、桃』


「そんなこと……」



こんな時に呼ばれる自分の本当の名前に、泣きそうになった。




「どうしたの……?」




不思議。よっぽどのことがない限り電話なんてしてこないから余計に。



きょとんとすると電話の向こう側で、少し戸惑うような気配がした。



『あー、……明日出かけようぜ』


「お出かけ……?」


『お前この頃元気ねぇし。一日くらいお前空けられんだろ』


「……」




爽は気遣ってくれている。この屋敷では名前を偽って生活をしている私を心配してくれる人はいても、どこか他人事で深くまで入り込んできたりなど絶対にありえない、という雰囲気があるから。




こうして強引に来てくれる爽に、なんだか胸にジワリと温かいものが広がる。



とても、私のことを分かってくれる幼馴染のような、兄のような存在。とても嬉しい。



「うん……、行く」



行きたい。初めてこの屋敷に帰りたくないと思ったから。



『じゃあ明日放課後クラス迎え行くから』


「うん」


『ぜってぇ空けとけよ。明日無理はナシだからな』


「大丈夫」




今まで大人しく帰って来ていたから、一日くらいなら大丈夫。秋流さんもこの頃早いけれど、今日真理佳が来たから多分明日は仕事が遅い日だし。




『夕食も食うからな。遅くなるって言っとけよ』


「うん」



それから少し取り留めのない話をして、電話を切る。切れた電話を見つめながら、爽の優しさに涙をこらえた。



大事にされている。この屋敷じゃなくても大事にしてくれる人はいる。



あぁ、やっぱりここにはいないほうがいいんだろうな。




その想いを噛みしめて、目を伏せた。



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