第3話扉前
スマホを置いて自室を出た。慎重に、足音をできるだけ立てずに玄関へと向かう。そんな俺を急かすように何度も呼び鈴が鳴り響く。
ようやっとのことで扉の前まで辿り着いた俺は慎重にドアスコープを覗き込む。そこには帽子を深く被り、サングラスとマスクを着用した月見里の姿があった。変装しているとは言えど、やはり隠しきれないオーラというものはある。
「千堂くん?いるんでしょう?中に入れてもらえないかしら?」
俺がいると分かってか、月見里が呼びかけてくる。人気モデルの、それも現在失踪中の彼女をこのまま外に置いておくのは得策ではないだろう。
だが、今の彼女を中に入れると何をされるか分かったものじゃない。今の彼女は平静を失っている。ドアスコープ越しの彼女の瞳は黒く濁っているように見えた。
「見てるんでしょう?大丈夫よ。私よ。月見里杏莉よ?変なことはしないわ」
誰が信じるか、と反論したいところだった。息を潜めていた俺はそうしなかった。
俺は葛藤していた。このまま分かりきった居留守を貫き通すか、彼女を中に入れるか。どっちが最善の択なのか、残された僅かな時間で脳をフル回転させる。
「私、どんな千堂くんでも愛するわ。毎日キスもするし、処女だってあげる。…だから開けて?」
「っ…」
「…開けてくれないんだ?それじゃあ」
がちゃり、という解錠音に俺の思考は打ち止めされた。刹那、扉が力強く開かれ、俺は軽く吹き飛ばされる。尻もちをついた後に見上げた先には月見里が立っていた。
「ただいま…♡」
▽▼
月見里に侵入を許してしまった俺はとりあえず彼女をリビングに入れた。月見里はしきりに辺りを見回していた。
「…なんか変なところでもあったか?」
「前来た時と違って片付いてるなって」
「前来た時…?」
聴き逃がせないワードに俺は月見里に問いかける。
「えぇ。以前に何回か侵にゅ…訪問したこがあったのよ。その時はもっと物が多かったはずだけど」
「…散らかってる時もあれば片付いてる時もあるだろ。タイミングだタイミング」
色々とつっこみたいところはあったが、俺はとりあえず月見里にコーヒーの入ったマグカップを差し出した。少し感覚を空けてソファに座った俺は月見里に問い詰め始める。
「…この際侵入の件は不問にしておくが…なんで鍵を開けれたんだ?」
「合鍵作っておいたのよ。役に立ってよかったわ」
「俺の家はどうやって特定した?」
「普通に後をつけただけよ。部屋番号までは企業秘密と言っておこうかしら?」
「なんで仕事投げ出してこんな事してる」
「千堂くんの事を思ったら居ても立っても居られなくなったのよ。事務所には後で適当に連絡つけておくわ」
俺は頭を抱える他にこの感情のやり場を見つけられなかった。
非常に困った状況だ。今大人気の美少女モデルは実は俺のことが大好きで仕事を放棄して復讐をし終えて俺の家までやってきたときた。もうどこから突っ込めば良いのかわからん。俺にどうしろと。
「困った顔も素敵ね」
「その普段絶対にしないような褒め方やめてもらえるか……なんか調子狂うわ」
「もう素直じゃない私とはおさらばしたの。今日からはこっちが平常運転になるから宜しくね」
月見里が来て何度目か分からないため息を吐いた。
とりあえず俺は状況の整理を始めた。今彼女は仕事を投げ出して京田に復讐を追えた後で、そのまま俺の家に来た。世間ではまだ彼女の身の安否が騒がれていて、未だニュースでは本当に分かっているのか分かっていないのかな偉そうなコメンテーターが議論を繰り返している。こいつにまずさせるべきは、事務所への連絡か。
「なぁ、月見里……」
月見里の方を向いた時、彼女の顔がぐいっと近づいてきた。唐突な接近に俺は思考をかき乱される。魅惑の顔立ちをしている彼女を前に俺の心臓は悲鳴を上げ始める。
ちらりと彼女の服の襟から胸元が顔を覗かせる。後少し近かったら視線がそちらに吸い込まれてしまいそうだった。
「ねぇ千堂くん、私の事好き?」
実にシンプルかつ奇怪な問いかけだった。世界から愛されていると言っても過言ではない彼女にこう言い寄られて好きではないと言う人間など存在しているのだろうか?有無を言わせないその魅力で月見里は俺に回答を迫ってくる。
「い、いや、俺は……」
「…私、千堂くんに酷い事してたものね。愛想が尽きてたって変じゃないわ。でも、私は千堂くんからの言葉が欲しいの」
俺は僅かな時間ながら失念していた。今の月見里は既に俺の知っている月見里ではない。遠回しにやんわりと誤魔化した普通な回答など、彼女が求めているわけがない。
黒く濁った瞳を俺に向けて月見里は迫ってくる。俺の唇など、簡単に奪ってしまいそうな恐ろしさを孕んだ目つきは狂気的だった。
「お願い、好きって言って」
「……嫌だ」
「……なんで」
「強要して得た言葉なんて、偽りも同然だろ。たとえ今ここで俺がお前のことが好きだって言ったとしても、関係の破滅なんて目に見えてる。俺はお前との関係で嘘なんてつきたくない。……これでも一年一緒にやってきた仲だろ」
一か八かの説得作戦に出た俺は月見里の反応を待った。正直成功するとは思っていないが、今の状況を安全に打開するにはこの方法しかない。反応を待つこの数秒間、俺は生まれて初めて神に祈った。
「……そう、ね。私が間違ってたのかもしれないわ。ごめんなさい」
へにゃりと蕩けた瞳になった月見里はなんとか納得してくれたらしかった。心の中で俺は安堵した。
安堵したのも束の間、部屋に『ぐうぅ〜』と呑気な音が鳴り響く。音の主は月見里の腹の虫のようだった。
月見里は頬を赤らめて気まずそうに視線を逸らした。
「ごめんなさい、ここ数日は食事も摂らずに動いてたから……」
「簡単なもので良かったら作るぞ。……不味くても文句は言うな」
「大丈夫。千堂くんの料理なら残さないし、なんなら食器まで食べるわ」
……何を言ってるんだこいつは。
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