第26話【幸福という名の怪物】

 ぬるりと

 足先が病室の空気に浸かった瞬間、怖気の舌が背中を舐めた。

 中身をすり抜けて外へ出てゆこうとする何者かの存在が、視覚に頼らぬ世界から手を伸ばす。

 咳するくらいにカジュアルに吐き気は詰まって歯の裏は胃液に濡れる。引き返せたならば、どれだけ楽だろうか、などと考えれば後退の意に甘えそうになる。

 しかし背後佇むのは石の騎士。石神啓。

 俺の知る世界でただ一人、愛の殉教者。

 俺の知る世界でただ一人、姉さんのことを絶対に忘れないと誓ってくれた男。

 こんな俺を頼ってくれた馬鹿な人。

 さて一寸先は冷たい闇。氷の泥が跋扈する冥界への境。目も眩むような闇の中、沈む幻覚と戯れて、ふと、嗚呼そういえばと思い出す。

『俺はそんなもの、とっくの昔に慣れてるじゃないか──』

 短く息は吐き切った。

 あの温かな光景に、待ってくれている人がいる。こんな俺を信じて託してくれた人がいる。

 裏切れば死にたくなるだろう。そしてその度に俺は、【死ぬな】という姉さんと遺書代筆屋の言葉を思い出すだろう。

 そんなのはゴメンだ。

 今だって頭の中は二人で満たされているのに、これ以上かさを増したら零れ出る。そんなの終わってる。まるでイケメンじゃない。俺の理想のイケメンは、誰にだって弱みを見せずに幸福への道を紡ぐ勤勉なる聖者なのだから。

 俺は弱くて怠け者で悪人だから、精巧な仮面を被ろう。誰にも俺の本心は読ませない。そう例え、このモノローグが貴方に読まれていようとも

「石神さん」

 呼びかけに彼は頷いた。鉄塊の鼓動のように重々しい。

 その重力が、俺の付和雷同を地に足付けさせる。

「殺人犯捕まえましょっか」



 八木辰正の個室の分子は、まるですべてが停止していた。

 時間が止まっているかのように冷静で、あらゆる振動は抹殺されて何事も語らない。

 ただそんな停滞しきった世界の中、唯一──時の流れを肌に吹き付けたのは部屋の主。

 嗚呼老人がいると当たり前に理解して、しかし気づく。

 八木辰正は恐ろしく老けていた。

 皺の隙間に唇と目は巻き込まれ、まるで薄っぺらな布を撓ませた波が顔面に張り付いているように見えた。土色の肌はシミと吹き出物に包囲されて、逃げ道を無くした哀れな肉の堆積が在った。

 肩から脳天まで覆い尽くすギプスと包帯は、諦めるように白い。

 これが八木辰正。

 八木巴を殺そうとした人間。

 激しい空調の音は嵐となってこの身に吹き付けた。異界のように重苦しい。吸った息は喉を凍らせて、寂しい滴となって肺に溜まってゆく。

「八木辰正さんですね」

 八木辰正は動かない。棺の死者のように、その肌は世を見ない。

 俺は見舞い用のパイプ椅子を引っ張り出して、ベッドの横に着けた。鉄の脚は冷気に浸されて鳥肌を逆立てる。

「遺書代筆屋がお世話になりました。俺は網島修理と言います。

 彼女の──敵です。多分。

 だから彼女の思い上がりを面白がるために、貴方の真意を暴きに来ました」

 これは墓荒らし。過去の土石が覆い隠して、掘り起こすことを世界から忘れられた呪いの品をもう一度天に晒す。

 逡巡は千回した。これで良いのかと万回悩んで、結局億の呑舟が在った。

 迷えば迷うだけ時間が喰われる。それは駄目だ。

 だってさ

 夏休みは──短いのだから。

「遺書代筆屋は、貴方が自らの首を絞めたのは、溺れる夢を見る霧乃ちゃんから、過去の自責の念に駆られたが故だと断じましたが、まずそこがおかしい。

 仮にそうであった場合、何故貴方は霧乃ちゃんを起こさなかったのでしょう。霧乃ちゃんは言いました。『起きたらなんでかわからないけどお父さんが部屋にいた』。なるほどあの日、貴方が倒れている姿しか、霧乃ちゃんは見ていないんです。

 何故でしょう。悪夢に苦しむ娘を見て、まず自らの首を絞めるというのはおかしくありませんか?」

 舌を一度、口の中で回す。早口になることが一番いけない。

 波に押されて熱くなってはいけない。

 あくまで冷静に、冷静に、詰め将棋に挑むように一手を重ねてゆこう。

「俺は結構、霧乃ちゃんとは仲良くさせてもらってます。いい子ですよ、きっと親の教育が良かったんだ。でもね、ちょっと困ったこともある。

 夢遊病は大変ですよね、ぐっすり寝ている時に起こされる。あの子は結構歩き回るし寝言も言う。俺もね、寝てるはずの霧乃ちゃんに、お目目ぱっちりして言われます。『お兄ちゃん、お兄ちゃん』なんて」

 必死な表情。まるで今から沈むように、藁にも縋るように。

 涙を零しながら兄を呼ぶ。

「霧乃ちゃんはね、俺のこと『修理さん』って呼ぶんだ」

 カチと

 音が鳴る。

 時計の針が鳴るように、停滞した時間は進み始めた。

 カチと音が鳴る。

 八木辰正の歯が鳴る。

「俺は巴さんの顔を知りません。でも遺書代筆屋は貴方の故郷のお母さんにまで会いに行って彼女の写真を見た。霧乃ちゃんとそっくりらしいですね」

 八木辰正。

 なんでアンタは霧乃ちゃんを起こさなかった?

 アンタは寝言で何言われたんだ?

 なんでアンタは

「霧乃ちゃんの首絞めたろ」

 なんでアンタは再会出来た家族を殺そうとしたんだ。

 俺には一切理解不能。もう一度会えたならやり直そうって思おうぜ。奇跡が起きたなら継続させて見せようって、嗚呼願えないか。

 娘の身体が乗っ取られたら洒落にならない。

『子どもの頃は霊感が在った』だなんて話のネタにする人がいるけれども、実際それはすごく危ない状況を指している。魂というものは生まれてから次第に記憶と環境に影響されて育ってゆくものだ。だから最初の火は小さく頼りない。故に器に【空き】が出来る。

 空洞は何も拒めない。

 盆にしては少し早い夏の盛り、八木巴は現世に再び現れた。それは偶然かもしれないし、何かしらの必然があったのかもしれない。俺に常世の法則は分からないけれども、どうにも彼女は再びこの世に訪れた。

 そうしてふわふわと漂って、まるで自分と瓜二つで血の結束を持った身体に惹かれた。

【空き】に入り込むのは簡単だった。

 八木霧乃が眠りの中にいる間、その主導権は八木巴に在った。

「アンタは──霧乃ちゃんの誕生日に寝言を聴いた。それで様子を見に行って、どうにも激しく魘されていたものだから近寄った。

 お兄ちゃんって呼ばれたか?

 助けてって泣かれたか?

 そんなのはどうでもいい。俺にとってはどうでもいい。

 ただ重要なのは──霧乃ちゃんが夢の中で息が出来なくなったことと、アンタが自分の首を絞めたことだ」

 八木辰正にとって、八木巴に助けてと泣かれることは最悪の事実だろう。

 霊は死ぬ間際の体験を繰り返す。

 つまりは二十年前、八木辰正が溺れる八木巴を見たのは幻覚なんかではなくって──彼女はあの瞬間確かに死の間際にいて

 たった一人の兄に助けを求めていたのだ。

「アンタは否定したかった。考える暇もなく馬鹿馬鹿しい事実だと断じた。霧乃ちゃんの中に巴さんがいることも、巴さんが今でも自分に助けを求めてくれていることも、全てが妄想で夢の中だと思い込んだ。

 そうすればアンタの世界は平和だった」

 細い首に手を伸ばす。

【それ以上喋るな。】【息を止めろ。】【溺れろ。】と頭の中の邪悪が叫ぶ。

 温かい血管が懸命に脈を打つ。

 その全ての行動を停止させるために満身の力を込めて、娘の首を絞める。

 明日の誕生日には、何の禍根も残さぬように。

「しかし霧乃ちゃんは生きている。何故ってアンタが途中で正気に戻ったからだ。

 自分のしたことの重大さに気付いた。

 侵してはならぬ禁忌に触れたと悔恨の意は止まらない。腹の底で暴れまわってどうしようもなくなって──アンタは自らがしたように、自分の首を絞め上げた」

 自分で自分の首を絞めて死ぬ事が出来るかという問いには、様々な見解が在る。可能であるとされることもあれば不可能であるとされる場合もあるし、状況に依るというのが結局の答えなのだろう。

 そして今回に関して、その自殺は失敗した。

 首の骨を折り、まともに動けず喋ることもできず、棺の死者のようにただ黙して弾劾されるだけの状況に陥る代わりに、八木辰正は生き延びた。

 一段落付けて、本を閉じるように。僅かに疲労した頭と舌を労う。

 そしてもう一搾りと奮起させる。

 此処からが俺の本懐だった。

「さて事の真相は恐らくこうであって、アンタは妹を二度見殺しにした最低な兄で、娘の首を絞めた最悪の親な訳だけれども、正直俺はそれはどうでもいいんだよ。悪人善人の決めつけなんて暇なことは司法がやればいい。

 俺が気に入らないのは、【八木辰正は何故、遺書代筆屋に依頼をしたのか?】という一点だけだ」

 そうそれだけは最低最悪の度を越して許し難い。

 夜目は既に随分と効いていた。夜の闇は薄まって、まるで雑多に清くない。

 こんな闇は彼女には相応しくない。

「『八木霧乃の身体には八木巴の魂が在った』なんて普通は考えないし、俺も言われるまで思いつきもしなかった。当然のことだ、その事実は語り得ない八木巴か、八木辰正しか知らないことなのだから。

 だからアンタがそのことを遺書代筆屋に言わない限り、彼女はそれを知り得ない。そうして悩んで悩み尽くして、遠出して傷付いてまで真摯に事実に向き合った。

 結果導き出したのが以前の答え。

 まあ、月並みだよな。あんなの誰でも思い付ける。

 じゃあなんでアンタはそれを伝えなかった?

 言葉が無理でも文字があるし、伝達手段は幾らでも在ったはずだ。別に今言わなくたっていい。退院してから、罪に向き合いたくなった時に依頼すれば良かった。

 断罪して欲しいならば、遺書代筆屋に全部言えばいい。アイツは結局悩んで悩み尽くして傷付いて、俺と同じ答えを出しただろう。俺よりもちょっとだけ優しい答えを、アンタを励ます為に語っただろうさ。

 甘ちゃんだからね。今を生きる人の為に死者の言葉を繋ぐ遺書代筆屋は、きっとアンタみたいな奴の為にも心を砕いたよ。

 けれどもそうしなかったのは、何故だ?」

 嗚呼駄目だ。語る舌べらは陸に打ち上げられた魚のように、もどかしくも激しくその一切を止められない。頭の中がおかしくなってる。脳味噌が煮えている。心臓が冷たい汗を流して、けれどもその拍動故に血は昇る。耳が熱い。唇が熱い。火達磨で転がるように脈は爆発に向かって突進する。

 目の前の男が敵にしか見えない。

 仮面が音をたてて割れた。

「アンタは許して欲しかった。

 善人だと言われたかった。仕方がないことだって慰めて欲しかった。

 その為に遺書代筆屋を利用した」

 テメエの薄汚い自慰行為のために遺書代筆屋を使った。

 真実は人を救わないことを誰よりも強く知っていて、真実が大好きで俺が嫌いで、何時だって人を救おうと心を砕く遺書代筆屋の、その有様を嘲笑した。その癖人に嫌われたくなくって、でも意地っ張りで素直になれない天伊を、八木辰正は白く穢した。

 湧き上がるのは殺意だった。誰かを幸福にしたくって仕方がない、イケメン詐欺師網島修理はその瞬間ブッ殺されて死んでいた。屍に宿る黒い火が、他全ての感情を塗り潰して心中の世界を侵略してゆく。

 拳は固く握られた。汗とも涙ともつかぬ鈍色の体液が真黒く指を濡らす。

 ──しかし割れた仮面を拾い直す。

 半分砕け散った仮面は酷く不格好で、まるで他人に見せられるイケメンフェイスではない。憎悪と殺意と、あとなんかとにかく震えて仕方がない悲壮を顔面に半分貼り付けて

 死人を起こさぬように

 静かに叫ぶ。

「終わってるよテメエ」 

 




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