第21話【何処へなりとも行くがいい】

 日は紅く焦げて、不知時荘を染め上げる。

 本日最後の蝉の合唱が響き渡って、アンコールは続かない。残響もほどけ切れば、空気は一瞬冷え込むように静寂に浸る。

 管理人室から魑魅魍魎が零れるようにぞろぞろ並んで、各々の立ち位置に着いた。

 祭りが始まる。

 さて一発目と声を上げて、住民の大学生が料理に着手した。瞬間香ばしく焦げるソースの匂いが立ち上り、空気は鮮やかに燃え上がった。示し合わせてカキ氷機は回り出し、灯る提灯はぼんやりと魂を導く様だった。

 賑やかで五月蠅くって──けれども絶対に嫌いになれない高揚感が足の裏をつつく。

 霧乃ちゃんも最後のお手伝いと意気込んで、鼻緒が不安になるくらいに駆け回る。季節にそぐわぬ桜の花弁、水中を降りてゆく羽。そんな風景がふと見えて、

 つい、逃さぬようにと手を伸ばす。

「あ」

 腕を引かれた霧乃ちゃんはきょとんと瞳を丸くした。

 細く白く、しかし温かい手は柔らかく、これからどんな形にだって寄り添える。

 その綺麗な有様に沈み込んでしまってから、はっと顔を上げると霧乃ちゃんはにやにや笑った。けれどもそれは何処ぞの鏡の向こうの下手くそな笑顔とは異なって、心の底から湧き出ずる綺麗な感情だった。

「一緒に遊ぶ?」と首を傾げられて、おいおい私は大人だぜと鼻で笑う。

 笑おうとしたのだが、どうにも温まった頭ではそれすら上手くできなくって、首は素直に下った。

 花蘭、弧論と鈴の音が笑う。

 転げるみたいに走ってゆく。

 日はたっぷりと闇を降ろして、今夜ばかりは美しい夏の背景に徹する。


 ぽん、ぽんと。

 夢の詰まった泡の弾ける音が聴こえる。

 花合戦と洒落込んで、遠くの青い夜を裂き、凍星が燃える。

『綺麗』と呟いたのはきっと誰でもなく、全員の心中に咲いた声なのだろう。

 網島修理が言っていた。

『今夜、少し遠い所で花火大会がある』と。

『そして俺たちはそんな花火を特等席から眺めるのだ』

 言って笑って白い歯を見せた。奴に向かって火矢のように馳せる想いは、腹立たしいことに羨望に近い色をしていた。見下す心地は絶やさずに、けれども視界に浮かび上がる白い影は、今もア軽く理想の色に染まりたい。

 詐欺師にしては悪くない。

 詐欺師にしては──悪くないではないか。網島修理。

 少なくとも

 繋いだ私の手のひらに伝わる鼓動は、貴方に恋をしているくらいに激しく動機を打って仕方がないのだから。

 人にはできる事があって、同時にできないことがある。けれども貴方はそんなこと気にしない。できる事でもなく、できない事でもなく、するべき事をその時に。だから貴方は誰かに心配させないようにできるって言い続けなければいけないし、それを取り繕うために嘘を吐くのだろう。

 その生き方は危険だ。

 嘘は何時か人を殺す。間違った認識は正しい者の目を隠す。

 だから──私はお前の事が心底嫌いだけれども──何時しか向き合ってなお正直でいられるような人と出会えたのならば、貴方はずっと綺麗に道を歩める。

 そうでなければ永遠に

 貴方は心から好いてくれる人の気持ちを裏切り続けることになる。

 咲け、笑え、火の花よ。

 この景色はかけがえのない最期の夏だ。



 遺書代筆屋。

 私をそう呼ぶ人間は、世界に一人しかいない。

 振り向けば網島修理が立っていた。

 どうしようもない顔で突っ立っていた。

 取り繕い様がないほどに酷い顔で、立っていた。

「予定ができた」

 苦痛を噛み潰し、歯の裏で煎じて悪薬として呑み込む。毒はその喉を焼き切りまともに叫ぶことだって許さない。

「霧乃ちゃんにとって、いや──全員にとって大事なことだ」

 網島修理の隣には石神が着いていた。けれどもどうも、背は何時もより小さく感じたし、ずっと老け込んだようにも見える。

 私と霧乃ちゃんは何も言えずにいた。全容の分からないものに対して軽々と言葉を吐けるほど、霧乃ちゃんが大人であったわけでもないし、私が子どもであったわけでもない。ただ困惑が祭りの空気を塗りつぶして足元から縋るように昇ってくる。酷く──寒い。

 網島修理は一歩、前へ出た。

 そして跪く。最早汚れなど厭わない。

 今まで被り続けた仮面が全て無為に帰すような、最悪の表情を既に晒しているのだから。

 澄んだ綺麗な色を全て混ぜたような混沌の瞳が、しかし矢の如く真っ直ぐに霧乃ちゃんに突き刺さる。 

 霧乃ちゃんの細腕は花の様子だった。しかし吹き荒ぶ寒風に腱を断たれたように頼りない。

 力は籠らずしな垂れる。小さな絶望が彼女の前髪を引っ張って、光を落とす。

 網島修理はその腕を取った。

 お姫様をエスコートするように、その様は瀟洒に収まっていた。

「絶対に帰ってくる。必ず。君に会いに来る」

 嗚呼その言葉は酷く響いた。

 他人は鏡。目の前の相手に心から向き合う時、その相手は鏡に為る。罵詈雑言は自分の弱点を映し、誉め言葉は自分の求める物を映す。

 だからその言葉は。

 網島修理という人間が、今もっとも欲しがって仕方のないものだった。

 霧乃ちゃんは頷いた。涙交じりに頷いた。

 そして握った手は離れ、小さな両手で滴を拭う。

 しかしその手のひらが、ぱっと剥がれて花が咲く。夏の夜の下、少女は儚く美しい笑顔を纏う。

 それが虚構であることは、火を見るよりも明らかであった。

 悟るのは、嗚呼こんな詐欺師と出会って、八木霧乃という少女は一つ成長を遂げたということ。

 悲しく痛い、社会に適合するための一歩を踏んだ。

 そこに後悔は無い。他人のための苦痛を、人は悔いたりしない。

 しかしそれは──例えば網島修理、そして隣の石神啓や私のような、霧乃ちゃんを慕う人間にとっては耐えがたい苦痛だった。

 膝が折れる。立っていられなくなる。このまま棒のように居ることが許され難いことのように感ぜられて、私は霧乃ちゃんの肩を抱きしめた。

 夏の熱気が邪魔で、邪魔で、けれども離す気にならない。霧乃ちゃんの腕が私の背に沿う。嗚呼その微かな握力故に、守るべき者が此処に在ると完璧に理解されて、頭の中は一色で満たされる。

 私は網島修理を睨む。呪いを込めて目の前の貴方を睨む。

 けれども私が言ってやるのは罵詈雑言なんかじゃない。勿論賞賛でもない。

 この世には嘘か真実か、祈りか誓いしかなくって、この瞬間存在したのは数多の誓いだけだった。

「絶対、帰って来なさい。貴方は此処に帰ってくるの」

 言い聞かせるように、強く。噛み付くように吐き切った。

 吐いた唾は呑めない。だから貴方はその契約に従順で在れ。

 何者も裏切らぬようにと。

 腕の中の霧乃ちゃんが声にならない音を上げる。故障してしまった玩具みたいに、きゅるきゅる音をたてて目を回す。痛々しくって、何故だろう。私の涙腺まで壊れてしまったみたいに貴重な水分を零してゆく。

 混沌の渦が私を見た。

 覚悟の沁みた綺麗な色。嘘くさいほどの光景に、しかし怯まず睨み続ける。

 私はこいつの敵対者でいなければならないと、頭の裏の逆側が審判を下した。

 網島修理は宣誓する。

「必ず」

 熱い温度を湛えていて、けれども随分静かに、青く燃えた。

 その残響が止まると同時に、絡み合う視線はほどけ、互いに守りたい物だけに覚悟を注ぐ。

 喧騒に沈まない足音が去ってゆく。

 見送りはしない。

 何処へなりとも、行くがいい。

 どうせ貴方は帰ってくるのだから。





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