第5話【敵よ】

 形而の上下に関わりなく、人は一人では生きていけない。それは逆説的に生存が持続する以上一人ではないということを示してもいるのだけれども、そこに甘えた瞬間、人は孤独よりも狭い範囲の甘い泥に足元を掬われる。

 だから自覚的で在れ、孤独と城壁と境界に。

 だから求道し続けろ。他者と交流と関係を。

 ただしかし此処にたった一つの例外が存在して、天はそれを網島修理と名付けた。

 私と奴は完全なる黒白に冴えていて──私が人の死を食い物にする最悪だとするのならば、奴は人の生を壊す最悪だった。

 網島修理が騙した女性は皆死ぬ。

 予定調和の砂の城のように。



「おい石神」

 バカ弁護士の襟首をひっ掴んで壁の裏に引きずり込む。床に転がされた棒状の冷凍魚みたいな男のこめかみ、その真横に靴を叩きつけて問う。姿勢は恐喝であった。ならば心持が伴えば立派な脅しである。私の口は意を吐いた。

「あの男は何なの?」

「私の知り合いです。いや、知り合いの知り合いと言うか。コーヒー一杯で子守をすると言うのでお願いしました」

「不用心極まれりね。見損なったわ。本当に気色悪い」

「すっごい言う」

「貴方あの男が何者か知ってるの?詐欺師よ。貴方の敵よ。いや、同僚?」

「断じて同僚ではありませんが、存じております」

「じゃあなんで」

 ネクタイを引っ張り上げて首を絞める。しかし石神は妙に真っ直ぐな瞳で

「悪人は見ればわかりますから」

 そう宣った。

 自分の視力を頭から信じ切っている様だった。握りしめた拳は威力を生まずにうごうご痛む。コンクリートの壁を殴り付けている気分であった。呆れて白目を剝きそうになる。脱力ついでに突き飛ばして、痛む頭を押さえ付ける。

『悪人は見ればわかる?』その齢で恥ずかしげもなく性善説に身を浸す貴様の生涯などは、エッセイに起こせば紙とインクの無駄にしかならない平々凡々と称するのも烏滸がましいお花畑の童話であろう。なるほど面白いからその文才を私に寄越せ。さあ寄越せ今すぐ寄越せ。

 などとぐるぐる回転、或いは犬の威嚇を放った私は、油断ならぬと視線の鉾を構えた。そして立ち上がると棒高跳びみたいに担いで、勢いはそのままに詐欺師へと突き刺す。

「ん。うわ、は⁈ なに⁈」

 掴み上げた胸倉は薄っぺらく、軽い。

 その瞳は丸くなって細くなってと忙しくて、けれども整頓された色の渦だけは乱さない強欲なビー玉だった。開襟シャツの白さに本人が隠れるくらいに全体の色素が薄い。何者にも染まれる主体性の欠如を世間に堂々と晒す恥晒しめが。

 どこからどう見ても優男で、どこからどう見ても信頼していい人間ではない。

 ぎょっと目を剥いた網島修理を更にひっ掴んで持ち上げる。白紙みたいな見た目に違わず体重も生き様も軽い。

 網島修理。嘘を平気で並べる詐欺師。騙した女が皆死ぬ詐欺師。そして当然にそれを嘆き、苦しみのたうち回る、甘ったれのしみったれ。生きる意味を他人にしか見出せない毒の花。

「こんにちは」

「どもっす」

「何してるの?」

「……ナンパ?」

「汚物。」

「断定」

 汚物から手を放し卓上の手拭きで汗ごと穢れを拭き取った。

 はたと視線を傾けると霧乃ちゃんが身体ごと引いていた。情緒豊かな子どもだ。その通り、危険な人物からはさっさと身を引くのが吉である。

 霧乃ちゃんの横の席に腰を落ち着ける。両手ごと跳ね上がっておろおろと、少女の唇が啼く。

「修理さんこの人誰」

 音程を忘れて、かちかちに固まった声が震えた。

 はて、なに故目が合わないのだろう。

「遺書代筆屋」

 締まった喉を撫でて労わりながら網島修理は答える。けれども霧乃ちゃんの首は稲穂のように垂れた。困惑に眉も傾いている。【遺書代筆屋】などと言われて、ええそうですかと納得できる人間はこの世にそういない。私すら納得していないのだから。

 霧乃ちゃんは一層首を傾けた。

「どういう関係?」

「…………おぉん」

 網島修理が視線で窺う。ずるずる伸ばした白い前髪が瞼に掛かっていた。見たくないなら寝ればいいのになんでコイツは起きたままなのだろう。

 私と網島修理の関係。

 白と黒。境界を許さない黒と白。

 我々はそれであり、それ以上では断じてない。

「敵よ」

「あっはい、そんな感じです」

 視線をどっかにすっ転がして、網島修理は機敏に頷いた。まるで赤べこのバケモンであった。いらっとくる。

 忘れていた不快な熱が再び逆巻いて留まらない。がつがつ靴は鳴って重い汗が垂れる。そうだ私は眼前の大悪党からか弱き子どもを守らねばならぬのだ。

 豪と燃える黒い火は、こんな炎天下にだって負けはしない。尖った視線を針地獄もかくやと詐欺師に突き刺した。

 霧乃ちゃんは納得しかねる様子だった。ちいさく「てき……?」と呟いて、またも首の角度は水平に近づく。絹糸みたいに黒髪が垂れ下がって、涼しい小滝になった。

 そしてそのまま、唇は「い」の形に震えて声は出ない。小動物の挙動みたいに忙しく動いて、漸くと漏れ出た最初の音は助走のように「しゅ、」と鳴った。

「修理さん逃げよう。この人、怖い」

 刹那突き飛ばされる幻覚に襲われた。

 怖い、怖い? と頭の中で除夜の鐘が過多なことに千回ほど反響した。儘と響いて背骨が溶ける。くらぁっと傾く。

「遺書代筆屋さあ」

 面倒くさそうに、しかし承服しかねるように、網島修理はどんな間抜けでも簡単に理解できるくらいにゆっくり続ける。

「俺の事警戒するのはわかるんだけど、それで霧乃ちゃん怖がらせてたら本末転倒で終わってねえかな」

 返す言葉もない。

 けれども網島修理に常識を諭されたというドス黒い絶望感が私を居ても立っても居られなくさせた。バネが吹き飛ぶみたいに立ち上がると「あ、じゃあ私が座ります」なんて石神は霧乃ちゃんの隣に座る。

 待て。

 待って。待て。席順を今一度見直そう。新しい季節だし、ほら、

 私は何処に座れば良いのだ。

 胃に収めた内容物が腫れあがるみたいに重さを増した。口が開いたまま閉じようとしない。

 混迷に目玉をぐるぐる回遊させる私に、石神は白々しくも着席を促した。




 

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