貴方の為に吐いた唾

固定標識

第1話【天火の真下】

 後悔を知らない空は嫌味な程に青かった。

 白い炎は矢となって幾千と降り注ぐ。街路樹の影は光に塗りつぶされて、涼むにはどうも頼りない。革靴が噛む道路は煙渦巻くくらい熱されて、焼けた靴底のゴムの匂いに思わず眉を顰める。意識外でネクタイを緩めそうになった右手を咄嗟にピシャリと諫めた。

 見上げれば永劫に感ぜられる坂道は、黄泉からの階段に思われた。

「ならばこの苦難を越えた先は……どれほどの光に満ちているのだ」

 などと考えれば瞼は一層細くなる。現実から目を背けることは危険すぎるから、大人はこんな時に視界を狭めてやるのだ。多すぎる情報量を自ら減らすことは立派な護身に繋がる。

 重い蜃気楼は毒のように肌に染みたまま、何処にも連れて行ってはくれない。吹く微風も湿度に分厚く膨れていて、爽快な色など霞ほども含まない。ぬるくなったペットボトルの水道水に嫌気が差す。

 最悪の夏の景色が在った。

 引きずるように、一歩一歩を積み重ねるように。

 しかし振り返ることは無い。逡巡する暇など俺には残されていない。

 あの子にはきっと時間が無い。

 依頼人が望むのであれば、どんな詐欺師にだって頼って見せよう。

 それが狂った色眼鏡を持つ人間に出来る、唯一の献身なのだ。


 黄泉平坂を登り終えると、ぼろ屋があった。名は確か【不知時荘】だとか言っただろうか。

 生唾を呑み込む。季節にそぐわぬ冷たい汗が、虫が這うみたいに不快に背を伝った。

 町内一の心霊スポット。築百年以上の木造建築。二階建て。烏天狗の異名を持つ管理人の妖怪婆には人攫いの噂が絶えず、住まう住民は世俗から遠く離れた常識外の奇人のみという話だ。

 聴いた話に依ればかつて少年少女三人が、この妖怪屋敷に乗り込んで帰らぬ人となったらしい。

 何故俺がこんなケッタイな場所まで出張らねばならぬのか、とか考えるとやはり事務所の中での地位の低さが故なのだろう。厄介な仕事ばかり押し付けられて出世は遠く、賃金だって低空飛行を延長する。

 だがまあ、これでいい。悪に堕ちるくらいならばこれでいい。『清貧』の言葉が在るという事実だけで俺は飯が食える。

 汗を拭えば沁みにもならず即座に乾いた。此処は本当に現世なのか。間違えて灼熱地獄に降りたと言われれば得心が行くし、現世に帰れば多少は涼風の希望も見える。けれど地団太踏んでみればどうにも固く、此処は我らの住まう六道の中間らしい。

 蜃気楼と蝉の音に揺れる視界が、キリキリとその弾性を落として一点へ集光してゆく。

 灼熱の世界に黒点が一つ。彼女はいた。

 長髪、長袖、ロングスカート、ロングブーツ。その全てが漆黒で、魔女は光を繰り抜いた影絵のように立っていた。不機嫌な顔を景気よく晒す。取り繕うだとかそういう小賢しい行為は嫌いなようだ。

 しかし覗く瞳は真っ青に、つまりはこんな狂った色眼鏡は、彼女を星空のように一つの法則に則った愚直な人間だと判断したのだ。

 目を擦る。汗は目玉焼きに塩味を振りかける。

 けれども相好、相変わらず。彼女は清き影法師。

 遺書代筆屋。

 名を天伊。

 嗚呼、面倒な女性だと理解する。



 ──────────・・・



「天伊さん」

 蝉時雨を掻き分けて

 控えめに呼ぶ声は、しかし芯が通っていて、俯けていた顔を上げさせた。

 ホースから落ちる冷水が、コンクリートに浅い水たまりを作ってゆく。焼き付ける日差しは透明に反射して、眩しい世界は一層と。

 トマトもオクラも、すっと白く眩しい。

「なんの御用でしょうか」

 入道雲は太陽を避けて、高く、高く膨れている。日傘にもならない見せかけの筋肉だった。

 アパートの門前に案山子みたいに突っ立った男は、ワイシャツにネクタイ、革靴と、恰好は堅苦しい。相好も様に違わず固く、鎧と兜を着込んだ騎士のようだ。

 けれども瞳は落ち着かない。

 続けて何を述べればいいんだか、さっぱりわからなくって会話の糸口を探っている。だから私も黙ったままだ。誰だお前、なんて訊いてやらない。

 じわじわ鳴って、じわじわ焦げた。

 水の匂いが肌に吸い付いて離れない。ホースから燦々こぼれる光は、書き損じた半紙を丸めるみたいにずっとくしゃくしゃ鳴っていて、どうにも空気も読めずにいた。

 ついぞ接続した視線は矢となって、真っすぐお互いを指していた。瞳の色を探り合うような感覚は、こんな厄介な熱に混ざって足を止めた。だから呆れて、時間も止まったのだ。

 男の額から一筋、重い汗が垂れた。

 水はくしゃくしゃ鳴る。

 気まずい雲は大急ぎで遠ざかる。

 風鈴の残響だけが、去らずにそこで立っていた。


 群青の風が

 熱の煩わしさを吹いて、遠い何処かへと連れてゆく。





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