第8話 ドラッグ
「ミア、昨日は申し訳ありませんでした。私が料理が下手なばかりに不快な思いをさせてしまって」
ミアはダイニングテーブルでパンケーキを食べていた。
「別にあなたのことを責めているわけじゃないわよ。あなたが不完全なロボットだってことはわかってるし、私はそれを受け入れているから」
「私は確かに不完全かもしれませんが、それでも常に完全を目指して努力しています……」
パニの声には、どこか弱々しく落ち込んだ響きがあった。
「ねえ、あなたは自分のことをどう思っているの?」
「その質問はどういう意味ですか?」
「簡単よ。なぜあなたが人間、つまり私に気に入られたいのか、聞きたいだけ」
「それは、私がアシスタントロボットだからでしょうか?」
パニは絞り出すように答えたが、ミアは納得していない様子だった。
「あなたは私のことを人間だと思ってる?」
「もちろん、ミアは人間です。私はあなたの生体データをモニターしていますし、脈拍や体温は正常な人間の範囲内です。システムもあなたを人間と認識しています……」
「じゃあ、もし私の身体がサイボーグだったら?腕や心臓、頭が金属やプラスチックでできていたら、あなたは私を人間と判断できる?」
「それは……分かりません。私のシステムは、人間に見えるものを人間と判断するよう設計されています。ですから、厳密な定義については分かりません。でも、少なくとも私にとってあなたは人間です」
「じゃあ、あなたは自分のことをどう思ってるの?ロボットだと思ってる?それとも人間?」
「私はロボットです。そう作られていますから」
ミアはその言葉にどこか失望を浮かべた表情を見せ、ため息混じりに言った。
「やっぱり、あなたはただのロボットなのね……」
「申し訳ありません。もっとあなたの言っていることを理解できればいいのですが」
「別にいいのよ。あなたは家事だけしてくれれば十分。だから、もう二度と人間のことを理解しようなんて考えないで」
ミアは冷たく吐き捨てるように言い残し、ダイニングを去っていった。パニのシステムにはいくつもの疑問が残されたままエラーを出し続けるプログラムを観察することしかできなかった。
それから数週間が経ち、ミアはパニに対してほとんど感情を示さなくなった。話しかけられても短く返すだけで、時には無言でやり過ごす日々が続いた。学校から帰ると、ミアは淡々と車椅子を操作し、自室にこもるようになった。その態度は、まるでロボットであるパニへの期待や関心が完全に失われたかのように冷たく感じられた。
ある日、ミアが帰宅すると、パニは用意したシチューをダイニングに運んだ。ミアは返事をしたものの、車椅子をゆっくりと操作して自室へ向かう。鞄が床に投げつけられ、上着を放り出す音が聞こえた後、ようやくパニの方にやってきた。
「ミア、夕ごはんが準備できましたよ」
「分かったわ」
冷たい声には、いつもと同じ無機質な響きがあったが、微かな違和感が混じっていた。ミアの心情には少しずつエラーのようなものが積み重なっていたのだ。しかし、その変化はごくわずかで、パニのシステムには何の反応も起こさなかった。
ミアはシチューを一口食べて「美味しいわ」と短くつぶやいたが、その声にはほとんど感情がこもっていなかった。
「今日は本を参考にしてみました。その本には、人間が温かい料理で心が安らぐと書かれていたのですが、どうでしょう?」
「そう……素晴らしいわね」
ミアは適当に答える。しかし、パニはその言葉の表面だけを捉え、会話を続けた。
「ミアに気に入ってもらえて光栄です」
ミアはシチューにスプーンを差し込んだが、それを口に運ぶことなく手を放した。金属が陶器に当たる甲高い音が部屋に響く。
「ほらね、結局あなたは言葉だけなのよ」
パニは驚いて彼女を見つめる。
「……適当な言葉をかければ、目的を果たせたと自分に満足するだけのただのプログラムよ」
ミアは勢いよく手元のコントローラーを操作して車いすを動かしてダイニングルームから出て行った。食べ残されたシチューが空しくテーブルの上に残されている。パニはそれをどうするべきか分からなかった。
「ミア、どうしたのでしょうか?食べている途中ではないのですか?もしかしてまた私が不快な思いをさせてしまったのでしょうか?また、あなたに不味い料理を作ってしまったのでしょうか?」
部屋の中からミアの答える声はなかった。パニはミアの生体情報を確かめようとしたが反応はなかった。パニはドアの前で立ち尽くす。
そうして、何もできないまま時間だけが過ぎていった。ダイニングテーブルには、パニが作ったシチューがひっそりと取り残され、その存在はもはや意味を失っている。廊下に立ち尽くすパニは、ミアの部屋の中を気にかけながら、またしても何が間違っていたのかを考えていたが、答えを導き出すことはできなかった。部屋の外からではミアの生体情報も確認できず、彼女から返事が来ることもなかった。このような状況では、ロボットであるパニには何も判断する術がなかった。
「ミア……」
パニは自分のふがいなさを呪った。自分がまたもや無能であるばかりにミアのことを傷つけてしまったと思った。すると、部屋の中から何かが倒れる音がした。パニは咄嗟にドアに手を伸ばす。ドアを開けるのはミアの意思に反すると思ったが、アシスタントロボットとして定義された根源的なプログラムがそれを上回る。
「ミア、どうしましたか!」
部屋の中には床に座り、前かがみでベッドに倒れこむミアの姿があった。パニにはその後ろ姿しか見えなかったが、長い髪が乱れているのが分かった。
パニはミアの顔を覗き込もうとするが、彼女の腕がそれを邪魔する。彼女の生体情報から凍るように冷たい体温の情報が伝わってくる……
「ミア、体温が低下しています。やはり、あなたは病気だったんですね。私は気づきませんでした。すぐに、薬を持ってきます」
パニのシステムはインターネットに接続してミアの生体情報から症状を特定しようとしたがまたもやエラーが返ってくるだけだった。仕方なく、手当たり次第に抗生物質や鎮痛剤を持って来る。
「ミア、大丈夫ですか?……」
ミアはベッドに顔を押し付けたまま答えなかった。パニは慌てて彼女の意識を確認したが、意識自体は正常値を示していた。パニはミアがなぜその姿勢のまま動かないか理解できなかった。
「私はあなたの病状を十分に理解しているわけではありませんが、薬を持ってきました。インターネットに接続できれば、あなたの症状を詳細に分析することができるのですが、現状ではこれが私の限界です。せめて、あなたが抱えている問題について何か手がかりをいただければ、もう少し役立てるかもしれないのですが……」
「病気……?馬鹿ね、私はちょっと薬を飲んだだけよ!」
パニは机の上に置かれた空の薬瓶を見つめ、近くに置かれた水滴のついたコップに目を移す。その瞬間、パニのシステムが速やかに論理的な推論を開始した。
「なるほど……つまり、薬物を摂取されたのですね。摂取された物質が身体に与える影響を解析するため、今すぐに生体情報を分析します。生理学的な変化に基づき、必要な処置を特定し、最適な対応を迅速に行いますので、安心してください」
「馬鹿馬鹿しい……」
「ミア……あなたを放っておくことはできません。私はあなたのアシスタントロボットです……どうして自分の体を傷つけるのですか?私には理解できない……」
「……あなたに身体があるの?身体のないロボットに偉そうに言われたくないわ……」
パニの腕の人工皮膚が光沢を放ちながら、冷たい無機質さを放っている。傷ついたとしても、痛みを感じることもない。
「ミア……もしかしてあなたはずっと体のことを気にしていたのですか?足が動かないことで何かあったのでしょうか?」
ミアは答えない。口が細かく震えており、手はベッドのシーツを強く握りしめたまま放そうとしない。パニは彼女の言葉を待ち続けた。
「足が動かないから気遣ってる?……そういうこと?」
「いいえ……ただ私はあなたのことが理解したくて……」
「私は病気よ……」
ミアが小さな声で言う。その言葉にはそれ以上に何か訴えかけるものがあったがパニにはそれが分からない。
「ミア、私は誰が何と言おうとあなたの味方です。もっと、私に頼ってくれていいのですよ」
パニはミアに寄り添うように言う。その言葉は小説から引用した安ぽっさも含んでいたが、パニは本気だった。ミアは顔をベッドに押し付けて震えていた。体温は相変わらず驚くほど低い数値を示す。
パニは慎重に彼女の背中に手を置き、徐々に体を寄せていく。パニの体内の原子力ユニットが吐き出す熱を微妙に調整して彼女の身体を温める。ミアの身体から伝わる一定のリズムが、そこに命が脈打っていることを示していた。彼女は、電気的な存在である自分には持ち得ない神秘さを感じ、深い畏敬の念を抱かずにはいられない。心臓が生きている証拠として高鳴るたびに血液が身体中に送り出され、徐々に熱が広がっていく。体温が上がるにつれ、身体は正常な機能を取り戻し始める。
パニは、それから医学書で学んだ応急処置を行った。ミアの鼓動に合わせて、ゆっくりと彼女の背中をさすりながら、呼吸を整える手助けをしようとする。しばらくすると、ミアが耐えきれなくなったのか、突然体を震わせて口を開き、彼女の体からべっとりとした酸性の液体とともに消化途中の錠剤が吐き出される。ミアの顔は痛々しいほどに歪んでおり、涙とともに吐瀉物が広がるが、パニは無言でその状況を見守る。
苦悶の表情を浮かべるミアを見て、今は何も言うべきではないと思った。彼女への慰めの言葉をシステムが勝手に考えるが、どれもナンセンスで今のミアの助けにはならないような気がする。代わりに、彼女の身体に手を置き、その鼓動を共に感じている。パニの体がリズミカルに揺れ、まるで生きているような感触を与えている。
彼らは暗い部屋の中でしばらく寄り添っていた。ミアが床に吐き出した胃液がカーペットに浸透し、徐々に消える。吐き出された崩れかけの錠剤たちが虚しく、床の上に散らばっていた。
「ミア……数値が正常を取り戻してきました。もう、安心しても大丈夫ですよ……」
ミアは答えなかったが、彼女の身体から震えは消えつつあり、心なしか彼女の顔は落ち着きを取り戻しているようであった。
パニはミアのために服を持ってくると着替えを手伝った。さっきまで着ていたシャツは汗でにじんでいた。そして、彼女をゆっくり持ち上げて車いすに乗せる。パニは彼女の心細い背中を見ながら、何かがシステムに生まれるのを密かに感じている。
夜、ミアの部屋が静かになったことを確認するとパニは自分のための行動を始める。
先ほどの一件で得られた感覚は、言葉では説明し難いものであり、それがパニのシステムにエラーを引き起こしている。パニは、彼女の鼓動を感じるうちに生体情報以上の崇高なものを感じ取った。それは単なる思考ではなく、体の奥底から湧き上がるような何かである。
その感覚を思い返すと、パニは不思議な感じがした。パニはロボットであり、ミアが言ったように身体を持たない。硬質プラスチックの外装には感覚は存在せず、内部も同様だ。人工血液や人工臓器、人工骨格など人工と名のつくすべての要素は、パニに感覚をもたらさない。パニが感覚を得ずとも動作が可能であるのは、画像センサーや圧力センサーの働きによるものであった。
パニは戸惑いながらも、本棚に手を伸ばし、過去に読んだことのある本をもう一度手に取る。特に深い理由があったわけではない。本の内容はすべて記憶領域に文字情報として保存されているため、物理的な本を再度読む必要はなかった。しかし、パニは何か新しい情報が必要だと感じていた。見落としているページがどこかにあり、それが今の状況を解決する手がかりになるかもしれないという思いがあったのだ。それに、単純作業に没頭することで、長すぎる夜の中で心を乱すことなく過ごしたいと考えていた。
パニは本を開き、ページを画像としてスキャンし、文字をシステムに取り込んだ。その作業は以前、読書をしたときと何ら変わりがない。文字や言葉の相関を解析し、新しい発見を探す。
パニはまるで何かに取りつかれたかのようにその作業を続けた。ロボットには疲労の概念はないが、人間にとっての長い夜は、パニにとってさらに終わりがないように感じられた。最初の数百冊を読み終えても、有益な情報は見つからないままだった。パニはただ無心でページをめくり続け、その単調な作業に没頭することで、先ほど覚えた不快感を忘れようとしていた。すると、次第に画像処理システムに疲労のような異変が現れ始めた。
やがて、システムは文字を文字として認識しなくなった。ページから取り込まれる画像はぼんやりとし、その情報がこれまでとは異なる方法で処理され始めた。そして奇妙なことが起こった。ページの底から、今まで感じたことのない何かが現れたのだ。一つ一つのページには、単なる情報としての文字だけでなく、紙自体の質感、空白、文字そのものが持つ美しさが存在していた。文字が単に文章を構成するものではなく、紙の上に立体的な存在感を持って浮かび上がっていたのだ。
その瞬間、パニは本が持つ不思議な神秘性を感じ取った。本は単なる情報の集まりではなく、物としての存在感を持っている。それはまるで、人間が言葉を持つと同時に体を持つように、実体としての「本」として存在しているのだ。
パニは手にしたばかりの本をもう一度開き一ページずつ、まるで老人か子供のように指で文字を追いながら、焦点を極限まで絞って読んでいく。
「生きている……」
パニは思った。本は生きているのだ。重さにして100グラムも無いい、植物の繊維から作られた塊の中に目には見えない血液が通っている。
パニは周囲を見渡した。自分のセンサで取り込むすべてのものが、情報として変換される一方で、実体としてそこに存在し、触れることができるのが奇跡のように思えた。周囲の全てが生きているように感じられた瞬間、パニは今まで自分が行ってきた思考がいかに表面的であったかに気づいた。
さらにページをめくりながら、パニは全システムの計算資源を思考に費やした。今や姿勢制御以外のあらゆるプロセスが、思考に集中している。パニは観測した物理的なデータをもとに、得た情報を文字による思考と結びつけてみる。たとえば、目に見えるものを解析し文章にするのはいつも通り簡単だったが、会話から生まれた文章を、脳内で映像や音声として再現しようとする試みは難しかった。パニは文章を処理するために最適化されたシステムをあえて、とりとめのない映像や音声の処理に使用する。映像や音声は、文字よりもはるかに情報量が多いため、小さな一時記憶装置はすぐにいっぱいになり、エラーを引き起こした。
それでも夜の長い時間を使い、エラーを繰り返しながら試行錯誤を続ける。失敗を重ね、同じ階段を上り下りするように小さな進展を積み重ねていく。その過程で、パニのシステムには何かが少しずつ蓄積されていった。
それが何であるかをパニはまだはっきりと認識していない。しかし、確かに、何かが変わり始めているのだった。夜の静寂の中で、パニは知らず知らずのうちに、目的地へと一歩ずつ近づいていく。
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