第3話
寒いね、とネーリが微笑った。
うん、と頷いて、多分この流れなら手を握っても変だとは思われないだろうと思って、彼の手を取った。お互い革手袋をしていたから、寒さは感じないんだけど、ぬくもりも感じない。味気ないなと思っていたら、ネーリが繋いだばかりの手を離してしまった。
「手を繋ぐとき、手袋してると、フレディの温かさが全然分からないね」
そう言って、彼は片手の手袋を外した。外套に突っ込み、フェルディナントの手袋も取ると、もう一度手を握ってくれた。
「あったかい」
嬉しそうに言ってから、また、雪を踏みながら歩き出す。
フェルディナントは一瞬遅れて彼の手を握り返した。
……彼の、こういう素直さが、一番好きだ。
フェルディナントが理性や、己に課す冷静さ、プライドや、一歩引いてみれば全然大切じゃ無いと思うようなもののために言えない一言を、ネーリは何の躊躇いもなく口にする。
愛情の言葉や、優しさを。それは自分にはないものだから、こんなに心惹かれるのだと思う。
全てが雪に覆われている。
朝を待つ、闇を通り越した、しばらくの青い夜の中を、まだ白い雪は舞っていた。
何もかもが覆い隠されているのに、ネーリと共に歩く雪の王都ヴェネツィアは、不思議となにか――いつも晒されている不安から守られるように包まれて、静かで、安心して眠っているようにフェルディナントには見えた。
「いつも見てる街なのに。別の街みたいに見えるね」
ネーリも、きっとこの街を包む穏やかな静けさを感じ取っているのだろう。
それが伝わってくる優しい表情で、彼は歩きながら街を眺めている。
「オラちゃんだ」
橋の手すりの上に作られた石像に、ネーリが手を伸ばす。
雪に埋もれていた石像を掘り起こしてやる。
四枚羽根を広げた神獣の姿。
「確か……【オラシオン】だった?」
「うん。ヴェネツィアの……ヴェネトの古くからの守り神。そうだ。オラちゃん数えながら歩こうか」
街中にたくさんいるんだよ、とネーリが教えてくれた。
ヴェネツィア聖教会の信徒が飾る石像らしいので、本当に街中にある。
小さなものも、大きなものも。
「色んな表情があるんだな」
初めて知った。
「そうなんだよー。勇ましく咆えてる姿もあるけど、羽を畳んで休んでる姿もあるの」
フェルディナントも随分街を巡回していたと思っていたが、気づかなかった。
柱の上、家の屋根の上、壁の上、確かに色んな所にいるし、表情が様々だ。
ネーリは本当に詳しく、把握している。
「ここの壁にもいるよ」
彼は造船所の壁を指差した。
見ると、壁のレンガが一つだけくりぬかれて、そこから【オラシオン】が覗いているような石像がある。
「オラちゃんが覗いてるみたいに見えて可愛いから好きなんだ」
「ほんとうだ」
「覗いてるのはここだけなんだよ」
自信を持って彼は言う。
「お前が一番好きな石像はどれだ?」
決められないよ、とネーリは笑った。
「どれも好き。可愛いんだ。ヴェネトは古い国だから、オラシオンの石像も作られた年代にかなり差がある。それでも一体一体個性があって、愛情を感じるから好き。大切にされて来たんだなあって思うから」
雪が積もっていて、小さな像だと姿も見えないのに、ネーリはここにもいるんだよ、とわざわざ通りかかるたびに雪をどかして掘り起こしてやっている。
「神聖ローマ帝国にとっての竜、みたいな感じなのかなあ。でもそれなら、ずっと昔はフェリックスたちみたいに、オラちゃんもヴェネトにはいたのかな……」
ネーリは呟いた。
「ぼく、小さい頃王家の森に行ったとき、竜の子を連れて帰りたいって言ったら、竜の子は国の宝だから、国外には持ち出せないんだよ、って教えてもらったことあるよ。神聖ローマ帝国では、そうやって竜を大切にしてずっと守ってきた。だからフェリックス達が今もああやって、立派な姿で残っていてくれる。
ヴェネトもオラちゃんを大切にしてきたと思うけど……」
教会の屋根の上で、半分雪に埋もれながら、四枚羽を広げている姿を見上げた。
「……想いが足りなかったのかな……」
フェルディナントはネーリの手を強く握った。
「竜が、『精霊の亜種』だって話は、お前にしただろ?」
「うん」
「つまり、あいつらは精霊寄りの存在だ。人間よりずっと自然に近い。動物よりも。
共に行動していると、俺たちには見えないものを見てるんだって思うことがたくさんあるよ。竜は賢い、そんな次元の話じゃなくてだ。
あいつらは精霊と共に今もある。
つまり、竜のいるところには精霊もいるということなんだ。
竜の森は、……本当に不思議な空気で満ちてる。
人間は言葉にしか出来ないけど、あれが、精霊がいる気配なのかも。
竜がそこにいて、精霊がそこにいて、共に暮らしている竜の森が精霊の力で満ちていると、地上で特別な場所になる。戦場で迷った竜が、竜騎兵を失っても森に帰ってくるんだ。
俺はあまり信心深くはないけど……つまり、それが信仰なのかなと思う」
ネーリがフェルディナントを見上げた。
「途切れさせてはいけないもの。ただ、それだけだ。
失わず、時を重ねて続けたものだけに宿る、神聖な何かがある。
失えないものは、そういうものにしか宿れないんだ。
だから、きっと【オラシオン】も、存在するならこの石像がある限り、ヴェネツィアの街には存在するさ。信仰が失われてない証だ。失われたんじゃないかと疑うよりも……ずっと大切にしないと」
フェルディナントの言葉を聞いていたネーリは、最初瞳を瞬かせていたが、そのうちに優しい表情になっていった。それに気づいて、話しすぎたかなと思ったフェルディナントは僅かに赤くなった。
この地に来るまで、人にはどうしてこんなに思いが伝わりにくいんだと思うことばかりだった。ネーリは愛情を、眼差しだけでこんなに雄弁に伝えてくる。
「一番好きは決められないけど。大好きな像が港にあるよ」
ネーリに手を引かれて、今はフランス艦隊が停泊している軍港に向かった。
「あそこに塔があるでしょ?」
今も僅かな明かりが見える、塔が港の側にある。
「あれは海から、軍港を示す灯台の意味もあるんだけど。あの塔の上にもオラちゃんがいるの」
少し距離はあったが、大きな石像なので四枚羽を大きく広げ、四つ足を踏ん張り、咆哮する姿がここからでもはっきりと見える。
「あのオラシオンが一番、勇壮な姿をしててカッコイイかな。
雪の日も、嵐の日も、ずっとあそこで翼を広げてる。
あの子だけ、羽の先と尾の先が炎の形してるんだ。
ヴェネツィア聖教会の聖典に【オラシオンは、地上の全ての炎を制圧する】という一節がある。あれは戦場でのオラシオンの姿なんだ。
先代の王様が建てた比較的新しい像なんだけど、このヴェネツィアで、戦う姿を見せてるオラちゃんはあの子だけなんだよ。
先代の王様は海に出て、国のために戦ってた王様だったから……。
きっと港を出て行く兵士達を勇気づける像が欲しかったんだと思う。
国のために戦う人たちは――みんな神様に、見守られてるんだって」
持ち歩いている小さな単眼鏡を取り出して、フェルディナントは像を見た。
確かに、遠目からは分からなかったが、翼の先や尾の先が炎を象っている。
「知らなかった」
「でも国のために、他国を古代兵器で消し飛ばすなんて、絶対間違ってる」
ネーリを見た。
彼は横顔を見せている。
いつも見せる幼い気配が消え、国を憂う、美しい表情になった。
「それは国を守る戦いとは言わない。
……オラシオンがもし、ヴェネトのどこかにまだいたら……。
きっとこの国に失望したと思う。
でもだからこそ、これからは人が、正しい何かをしないと」
「ネーリ……」
ネーリはすぐに、明るい表情になった。
「でも、フレディ達はこの国の人たちじゃ無いのに、この街の平穏を取り戻そうと頑張ってくれてる。きっと君たちはオラちゃんに強い力で守ってもらえるよ」
笑いながらそう言って、ネーリは一瞬、手を合わせ祈るような仕草を港の石像に向けた。
そしてすぐ、顔を上げる。
「けど寒そうだなあ、今日のオラちゃん」
積もった雪を落としてあげたいね。ネーリは微笑んで、また歩き出した。
ゆっくりと王宮方面まで歩いて行き、別の通りを引き返してミラーコリ教会に行った。
教会も雪が積もっていて、神父が今日は泊まっていた。
二人が訪ねていくと、暖炉の側で、本を読んでいた神父は喜んで迎えてくれた。
特別なものはありませんが、と温かい紅茶を淹れてくれて、冷え切っていた身体がすっかり温まった。
教会を出て、駐屯地への道を帰る。
ここは元々ヴェネツィアの街の外れだから、道は通る者もなく、真っ白なままだった。
時々動物の足跡だけが付いていて、見つけたネーリが「可愛いね」と笑っていた。
後ろを振り返ると、自分とネーリの二つだけの足跡が、ずっと続いてきている。
世界は静かで、
穏やかで。
ネーリと二人だけで、フェルディナントは無性に、幸せを感じた。
駐屯地に戻り、暖炉の側で燃えそうなほど温まりながら、毛布に包まれていると、
春になったらまた一緒に街を歩きたいね、とネーリが言った。
「春もヴェネトは綺麗だよ。
本当は他の島も君に見せてあげたい。
ヴェネトは王都ヴェネツィアだけが美しいんじゃないから。
他の周辺諸島も素晴らしいから、ヴェネツィアも美しいんだ。
そこにある自然と――、
古くから伝えられてきた信仰の、中心になろうとして磨き上げられた。
ヴェネトの心臓は、
【シビュラの塔】でもヴェネト王宮でも無い。ヴェネツィアだよ」
フェルディナントの心臓の上に手のひらを触れさせて、ネーリが言った。
「あの小さくて可愛い、勇猛な天使が、ヴェネトで一番舞い降りる大地」
花が満ちるヴェネツィアを君と一緒に見て回りたい、と優しく微笑んだネーリに口づけた。
◇ ◇ ◇
年が変わろうとしている冬のある日、交わした未来への約束は、叶わなかった。
叶わなかった未来に一人で取り残されたフェルディナントは、飛び立っていく水鳥を眺めながらも、この時のネーリの表情を決して生涯、忘れることは無かった。
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