海に沈むジグラート 第51話【ある雪の日】

七海ポルカ

第1話 ある雪の日


 呼び覚まされたように、目が覚めた。

 でも今日は、呼び覚まされたわけじゃないことがすぐ分かった。

 夜中だ。

 目を開いたすぐそこに、フェルディナントが眠っている。


 ――なんだか外が明るい。


 多分無駄だとは思うけれど、フェルディナントを起こさないようにと慎重に、毛布から抜け出す。案の定、すぐにフェルディナントは眼を覚ましたようだ。

「……ん……ネーリ?」

 ごめんね、とくすくす笑いながら寝台を降り、窓に寄りカーテンを開くと、すぐに目が輝いた。


「わぁ……っ! 真っ白だー」


 雪が積もっている。

 どうしたんだろうか、と思っていたフェルディナントは窓に額を押しつけて喜んでいるネーリに笑った。積もるのは今年初めてのことだ。昨日の夕方から確かにチラチラと舞ってはいたが、積もるかなあ積もるかなあとネーリがあれほど気にしていた意味が分かった。足なんか裸足である。

「ネーリ、裸足だと冷えるぞ」

 戻っておいで、と自分の側のシーツをぽふぽふしたが、ネーリは一旦は戻ってきて、一瞬にして冷気を帯びた身体でフェルディナントの身体に思い切り抱きついてきて、あったかいよーと喜んでいたが、すぐに身を起こした。

「神聖ローマ帝国は雪がよく降る?」


 もう黄柱石ヘリオドールの瞳がぱちりと大きく開いて輝いてしまっている。

 まだ夜中だからもう一度寝なさいなんて今から言っても遅いだろうなあ。

 フェルディナントは笑いながら頷いた。

「もっと降る土地はあるんだろうけどな。でも冬になれば結構降るよ」

「ヴェネトは年ごとに違う感じなの。

 よく降る年もあれば、冬の間、一、二回くらいしか降らないときもあるよ。

 この二年くらいは温かい冬だったから、こんなに積もるの久しぶり」

「雪が好きなのか」

 寒そうだから毛布で包み込んでやりたいのに、ネーリはベッドの上で座ったまま、目を輝かせて一生懸命喋っている。

「いつも見てる景色が全く違うから」

 もう一度ネーリは外の方を見て、やはり寝ていられなくなったようだ。

 ベッドから飛び降り、隣の部屋に入っていく。

 やれやれ……とフェルディナントが身を起こし、歩いて行くと、ネーリはやけに白い長い足を夜中の冷気に恐れも無く晒して、上のシャツを本当に着替えてるところだった。

 フェルディナントは一瞬彼の長い美しい素足に見蕩れてから、ハッと赤面して背を向けた。


「もしかして外へ行くんじゃないだろうな?」


 可愛い笑い声がした。

「行ってくる」

 衣擦れの音が終わったので、そっと肩越しに伺うと、ネーリがいつもの作業鞄を用意していた。中には絵を描く道具が入っている。

 大きなものと、小さなものがあるが、今は小さい方の鞄を肩から掛けた。

 大きな方には彩色道具が入っているが、小さな方は描くための紙と、スケッチ用の木炭ぐらいしか入っていない。

 元々はこうしてヴェネトを放浪していた彼は、旅立ちに時間は掛けない。

「風邪を引くよ」


「だってこんなに積もるの久しぶりだもん。見逃せないよー。市街の方行ってくる。

 ミラーコリ教会も見たいし、サン・マルコ寺院と広場も見たいし、アカデミア橋もリアルト橋も見たいし……山の上のヴェネト王宮も見たいし市場と、港も」


 目が輝いてしまっている。

 部屋の中でも、ネーリの息が白い。

 革手袋をして厚手のブーツを履き、準備万端だ、という感じにフェルディナントの方にやって来て、夢中で話している彼の、不完全な巻き方になっているマフラーをフェルディナントは笑いながら直して、首元に冷気が入らなくなるようにしてやった。

「日が昇ってからにしたらどうだ? せめて」

 画家の青年は、頬を色づかせて笑いながら、首を振った。

「そうしたら雪がみんなに踏まれちゃう。誰もまだ踏んでない雪の姿が見たい」


 これは止めてもどうにもならなそうだな、とフェルディナントは諦めた。

 神聖ローマ帝国にいた頃の自分は、画家なんて、自分たちが戦場で命を懸けて戦っているときに安全な家で絵を描いてる連中だろう、などと思っていたものだ。

 でもネーリは本当に、寝食も忘れて描き、危険な目に遭った後でも「絵が描きたいから」という理由で街に出たがる。

 誰も彼を怯えさせられないし、絵を描く運命から引き離せない。

 奪ったり、邪魔をしようとする者こそ、自分の無力さを痛感するだろう。

 ネーリにとっての絵は、

 神職にとっての聖典であり、

 騎士にとっての忠義と剣なのだ。

 そこに無いことなど、考えられない。

 つまり彼が絵を描きたいと出て行くのは、

 戦う者が戦場に出て行くことと同じだ。


「行ってきます」


 嬉しそうにそんな風に自分を見上げて言ってきたネーリに、フェルディナントは苦笑して、ぽふぽふ、と彼の頭を撫でた。

「止めないから五分だけ待って」

 そんな風に言って身支度を始めたフェルディナントに、ネーリは瞬きをしている。

「フレディ?」

「俺も行くよ」

 えっ、とネーリは驚いた。


「フレディ、大丈夫だよ。僕一人でも……雪の日って雨の日よりなんか明るいし本当に大通り沿いを通ってくるだけだから。悪い人もきっとこんな寒い日は家であったかくしてると思うよ。だからきっと危険は無いだろうし、気にしないで、フレディはまだ眠ってて」


「なんだ……俺がついていくと、迷惑なのか?」

「ち、ちがうよー。全然そういうんじゃなくて……」

 慌てて首を振っている姿は、想定内だ。させたくて言った。慌てて否定している姿が可愛いなと思いながら、フェルディナントも支度に時間を掛けないタイプだから、瞬く間に身支度を調えた。

「フレディ忙しいのに真夜中のお散歩なんて、連れて行っちゃ駄目だと思ったから……」

「まだ寝ていたかったら寝てるって言うよ。お前も言っただろ。街を見てみたいって。お前が目を輝かすから、俺も見てみたくなった。ただそれだけだよ」

 フェルディナントの顔を見て、ついて行きたいと言った彼の言葉が嘘では無いことが分かると、ネーリはわぁ、とみるみる表情が輝いた。

 彼はいつもこうだ。フェルディナントがヴェネトのことを知ったり、興味を持つだけでも、嬉しそうな顔をする。


(こいつは本当に、ヴェネトが大好きなんだな)


 まるで自分の国のように、愛している。



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