静かな夜
鴨乃 疎汀
第1話
男は、手を止めた。そして、今まで書いていたものを両手で丸め、壁へ投げ捨てた。机の上には、白い金属質の電灯と数冊の詩集が置いてある。一番上の詩集の表紙には、電話番号と思われる数字列が羅列している。なんとも秀逸なデザインである。電灯の放つ杏色の光が、男がそれまでに使っていた万年筆や、手帳といったものをありありと照らしている。男は、乱雑に散らかったそれらを一瞥した。
男の心は、からっぽだった。また、男は自分の心がからっぽであることを自覚していた。だから、彼は必要以上に他人と関わろうとしなかったし、外へ出て何かを得ようとは考えなかった。排他的な人生は、彼をそういった人間に変えてしまった。しかし、男はある時から自身に違和感を感じはじめた。正確に言えば、男の心は、本当の意味で空っぽではなくなってしまったのだ。心自体は、何も存在しない真っ黒な空間であるが、そこをどす黒いもやが覆っている。それは、夜の湖に墨汁で潤した筆を浸したようだった。男は、酷く困惑した。初めて味わう閉塞感に、無の空間は蝕まれ始めた。苦しい。逃げたい。ただそう思った。
男は、そういうものへのひそかな抵抗として、”形”を遺すことを決めた。つい先程まで書いていたものである。男は何か覚悟を決めたように、一言、声に出して呟いた。投げ捨てた紙を拾い、机の上に広げた。そして、椅子に深く座った。窓を覗くと、月が寂しそうに笑っていた。満月だった。男は二度と動かなかった。
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